二年前の加賀の日記の最後のページは、不正建造艦の赤城に向けて綴られた遺書だった。そこには謝罪と、今まで共に生きてくれたことへの感謝、そして自分が死ぬのは赤城のせいではないといった加賀の言葉が遺されていた。そして最後に、「この文章を破り捨てて欲しい」と書かれている。やはり、赤城以外には自分の弱さを見せられなかったようだ。二年前の加賀は、そういう人だった。
悲劇であるのは赤城がそれを読まなかったことだった。読まなくとも、部屋に足を踏み入れた瞬間に、加賀の有り様で、毒を呑んで自ら死を選んだのだと赤城には分かった。赤城は悲痛な感情に襲われて立ち尽くした。それからまだ息のある加賀に気付いて、彼女を救おうと思った。しかし赤城は、その場に膝をつく。最後まで加賀に自分の気持ちが伝わっていなかった事実がまだ信じられなかった。あれほど大切に思っていたのに、最後の最後に思いとどまらせるほどには、赤城のことは届いていなかったのだ。加賀の命を
仮死状態から意識を取り戻し、苦痛の中で目を開けた加賀は、視界に入ってきた光景に打ちのめされた。障害のために目の前がおぼろでも、誰が倒れているのかが分からないはずはなかった。自分が大切な人に対して何をしたのかをそのときになって加賀は知った。加賀は部屋の中を這って行った。
二人は駆けつけた医療班に運ばれる。部屋の中で一人残された瀬名庵は加賀の日記を読み、そして良心の呵責に耐えかねてページを破った。しかしそれ以上は抑制し、計画のために日記は回収された。呉はその後、陸からの追求を利用して、大本営に働きかけ艦娘の解体制度を『艦娘システム』の中に成立させる。
◇
「――しかしでありますよ。艦娘の肉体は人体の限界まで強化されている。その強化は当然、内臓にまで及んでいます。そうでなくとも千切れた腕すらバケツ一個ですぐに生成してしまうクローン技術がある。結局、艦娘が毒物で死ぬのは難しいのでありますよ」
そうあきつ丸は言った。「ねえ、加賀殿」と。
ベッドの上で療養中の加賀は怪訝な表情を浮かべる。
「知ってますけれど。瀬名司令から一部始終を聞きましたから」
「いや、自分の答え合わせでありますよ。別に、な、なんだってー! って言ってほしかったわけではない……!」
動じない加賀に慌てた様子のあきつ丸だった。この艦も、最後まで奇天烈な個性をした艦娘だった。
「っていうかどうしてあなたがここにいるんですか」
当然のように対面に座っている彼女に、加賀は訊く。
「何を今更。もちろんお見舞いでありますよ。やだなあ加賀殿ってば」
突然の馴れた感じに、気持ち悪っ、と思って加賀は身をよじった。「その反応はおかしい」と、あきつ丸は真顔に戻る。それから、話を元に戻そうとして、身を乗り出して彼女は言う。
「とにかく、だから真相はこうなのでありますな……」
どうやらあきつ丸は、加賀の前で自分の推理の答え合わせをしたいようだ。彼女は結局のところ日記の情報しか持っておらず、全容のほとんどを不完全な仮定のままでしか知らなかった。加賀は司令官から事件の顛末を知っているので、その情報の差をすり合わせたいらしい。
「さて、救命された加賀殿と、そして赤城殿の話であります。事件の直後に二人の赤城殿の入れ替わりがあったのは、救命され、全ての事情を知った赤城殿が、解体を行った加賀殿と共に呉を去ったから……。この時点では解体制度自体が存在しなかったため、二人はそれぞれ非正規な方法で艦娘を引退しました。加賀殿は表向きには自殺したことになっており、そして赤城殿は、呉の籍を今の赤城殿に引き継ぐ形で存在を消しました。これが入れ替わりの真実でありまして、この事件の顛末はつまり――」
「つまり、二人の艦娘の『自殺』ではなく『駆け落ち』だった」
台詞を引き受けて加賀が言う。あきつ丸が驚愕の表情で加賀を見ていた。
「な、なんで……なんで自分が一番言いたかったところを持っていくのでありますかあああ! 酷い、酷すぎるのであります! 艦娘の中にも鬼級がいたのであります!」
あきつ丸が抗議の声を上げている。肩を震わせて、ほとんど泣きそうな眼で訴えていた。
「そ、そんなに怒るとは思いませんでした……。というか、少し悪趣味ではないですか?」
「だって、これじゃあ自分が何のために走り回って危ない目にもあったのか分からないではありませんか! 海からも陸からも裏切り者と罵られ……」
「少なくともそこを言うためではないと思いますが……それに『駆け落ち』と言い切るには色々と問題がある気がしますし」
「鬼畜空母加賀殿!」
「殴りますよ?」
あきつ丸は目元を拭って、落ち着きを取り戻す。
「……捕捉説明をするならば。駆け落ちした赤城殿には《標識》と呼ばれる衛星探知可能な体細胞がもともと無かったのであります。彼女は規定に違反して建造された艦でしたから、大本営に衛星探査で発見されないように、元から《標識》無しで造られていた。そして事件の直後にスムーズに入れ替わりが行われたのは、元からこのタイミングで入れ替えるつもりだったから。加賀殿と共に赤城殿を引退させるのは計画に織り込まれていたのでありますな」
あきつ丸はそう言った後、ぶつぶつと呟いて考えこむ。
「……しかし、これはどうにも都合が良すぎる気がしますなあ。まず過去に呉が犯した不正建造という悪事を、そのまま利用するにはリスクが嵩みすぎる。それに、解体制度の根幹は特定の体細胞《標識》を破壊するという、赤城殿の不正建造を元に考案されたものでした。そう考えると、加賀殿が本当に服毒自殺を試みてしまったのはイレギュラーだとして、赤城殿の不正建造から二人の艦娘の引退まで、まるで始めからこうなるように仕組まれていたみたいであります。表では見事に保護者公認の駆け落ちが成立している……」
『保護者公認の駆け落ち』とは言い得て妙だが、彼女の言っていることはもっともだった。だから加賀は答える。
「公認だったんですよ。目の不自由な加賀が人間社会で生きていくには、介護人となれる赤城さんの存在が必要だったんです。そして赤城さんの不正建造から、やはり解体制度の計画は始まっていたんでしょう。その結果、第一に解体を受けたのが加賀だったんです」
そして一人の苦しんでいる艦娘から、すべての艦たちへ。戦い終えた艦娘たちが、正しく解体されるように。そういった願いを込めて解体制度は生まれたのだ。
「本当にすべての艦たちの為に作られた、『艦娘解体』」
加賀は呟く。
「成立の裏では多くの罪と悲しみがありましたが」
あきつ丸は言う。加賀も、決戦作戦の裏で仁蔵司令が反逆罪で捕まったことを知り驚いたうちの一人だ。特に彼女は、自分の艦隊を自爆させ呉中に爆弾を仕掛けた彼を憎まないわけにはいかない。仁蔵司令は軍事裁判に掛けられ、芦木長官は責任を取って辞職した。その際に、長官は赤城の不正建造と、艦娘解体の時の計画を全て大本営に告白した。長官はその件で別に裁判に掛かることとなり、呉は現在一時的に運営停止の通告を受けている。その後、時間を掛けて司令部の再構成が始まるはずだ。
そうだ。真実を知った自分たちはそのことを忘れてはならない。呉は初めから罪を犯していた。不正建造艦の赤城を生み出し、ドロップ艦の赤城を監禁し、そうして二人を苦しめていた。呉は法に則った罰を受けなければならない。だがそのための法はまだ未成熟で、正しく整備される必要があった。今でも艦娘という概念は考え直され、研究され続けている。そして艦娘を捉える考え方に、芦木長官が貢献したところはやはり大きいのだった。
芦木長官はどこまで計算していたのだろうか、加賀には分からない。しかしあの堅物で、仏頂面で、冷徹で、規則破りで、呉中の艦娘たちから畏れられていて、そして感情を表に出さず、艦娘に対する父親のような思いを隠し通したあの芦木草々という男でなければ、解体制度は生まれなかったようにも、加賀には思えるのだった……。
「……あら? あきつ丸さんも来てたんですね。お久しぶりです」
聞き覚えのある声がした。ついこの間に聞いたはずなのに、やけに懐かしい。部屋の入り口に、赤城が立っていた。
「聞きましたよ赤城殿。艦娘の縛りを破って海に潜ったとか。随分と工廠で検査されたのでは?」
「ええ。そのせいでここに来るのがこんなに遅くなっちゃいました。あきつ丸さんもお見舞いに来ていたなんて。嬉しいですね」
赤城とあきつ丸はかつての禍根が無くなったかのように会話を交わしている。あのとき空母寮の前であきつ丸が赤城を追い詰めたのは、彼女を責めるためでなく、その奥にいる黒幕を推理するためだった。それを知った赤城は、今では過ぎた話を引きずる事もない。加賀は二人をどこか微笑ましく眺めていた。
「元気にしてましたか? 加賀さん」
「赤城さん……お久しぶりです。身体が鈍っていくのが怖いくらいですよ」
赤城はいつものように笑っていた。
「さきほど退院できたんです。会いたかったので、飛んできちゃいました」
決戦作戦が終わった日、赤城は重症の加賀と隼鷹を連れて呉に帰り、その後糸が切れたように意識を失い、昏睡状態に陥った。それから数日後に意識を回復したという報せがあったが、工廠内で赤城の精密検査が続いてからは二人はずっと会うことができなかった。
だから、約二週間ぶりの再会だ。
「あの、体調は大丈夫なんですか? 後遺症とか……」
加賀が恐る恐る聞くと、赤城は指で丸い輪っかを作った。明るい声。
「ばっちりですよ。結局、心身ともに異常なしということでした」
「良かった……」
加賀から安堵のため息が漏れる。一時的にでも艦娘という概念を否定して海に潜ったのだ。何も無かったのは奇跡といってよかった。
「……そういえば外では皆で大掃除をしてました。呉中に撒かれたアルミを回収してるみたいです。私たちが作戦で戦っていた間、こっちでも大変だったんですね」
「そう! そうなのでありますよ! 自分もバトって大変だったのであります!」
あきつ丸が仁蔵司令を追い詰めたとき、彼女はその一部始終を通信機を介して長官に伝えていた。呉中に電波式の爆雷が仕掛けられていることが分かると、瀬名司令は被害を最小限に食い止めるべく、輸送機に搭乗し、上空から
「さて……と、自分はそろそろお暇させて頂くであります」
十分話したと思ったのか、あきつ丸は立ち上がった。
「もう来ないんですか?」と、加賀。
「まさかあ。自分はもう呉の艦娘ではないですから」
既に転属が決まっているあきつ丸は言う。この艦が次にどの土地へ行くのか加賀たちは知らない。
「あきつ丸さん」
部屋を出ようとする黒い艦に、赤城が頭を下げていた。
「ありがとうございました。あなたがいなかったら私は、いや私たちはきっと……」
仁蔵司令の狂気は彼女以外に止められただろうか。彼女が呉に来たことで、様々な状況が変わった。ひょっとしたら、呉中の艦娘たちが彼女に感謝するべきかもしれなかった。
しかし彼女はあっけらかんと言う。
「礼には及ばないのでありますよ赤城殿。自分は自分の職務を全うしただけでありますし、個人的な疑問を晴らしたかっただけでありました」
そうやっていつものように素っ気なく淡々と、黒い艦娘は言うのだ。
「艦隊の雰囲気に呑まれる前に。お二人共。それでは、であります」
あきつ丸が去っていったあとの部屋は少し寂しくて、静かになった。
加賀のベッドの脇には、シンビジウムや水仙が花瓶に生けられて、その後ろに色紙が立てかけられている。そこには呉の皆の言葉が書きつけられていた。
「加賀が無茶したっていう通信を聞いて、驚きはしませんでした。必ず戻ってくるって信じてた。そして戻ってきてくれたね。しっかり休んで、身体を治して下さい。 瀬名」
「決戦作戦のとき、全員無事に帰投できたのは加賀さんが艦載機を飛ばして助けてくれたお陰です。艦隊を代表してお礼を言わせてください。加賀さん、ありがとうございました! 吹雪」
「なのです! 電」
「敵の大将と刺し違えたらしいじゃないか。胸が熱いな。栄光のビッグセブンに加えてやってもいいだろう。なに、元は戦艦だったのだろう? そしてその根性、名乗る資格有りだッ! 長門」
「あんまり話したことなかったけど、お大事にね~。 北上」
「北上さん、まるで卒業文集みたいです! でもそんな適当な北上さんも素敵……! 大井」
「いつも勝手に動いて勝手に敵を倒して帰ってくる。今回もそんな感じ? ちょっとは先輩の顔を立てることを覚えたら? 少しは可愛げのある後輩になって戻ってくることを期待しているわ。 瑞鶴」
などなど、カラフルな文字で彩られている。誰の発案なのやら。
「色紙、嬉しいですよね。私も貰いました」
「私の方は自室療養なのに、大げさなんですよみんな。というか、皆適当に書きすぎです」
加賀は屈託なく笑う。こんな風に笑える日がくるなんて思ってもみなかった。
「加賀さん、体調の方は大丈夫です?」
「ええ。正直、もう寝ていなくても大丈夫なくらいです」
「良かった。それなら、少し外を歩きませんか」
赤城の提案だった。
呉には敷地の外れに大きな墓碑がある。かつて海に散った兵士たちと軍艦の船霊と、沈んでいった艦娘たちのために、それはひっそりとそびえ立っている。加賀と赤城は線香を焚いて、その前で手を合わせた。
多くの者が呉からいなくなった。あの戦線で爆雷を運んでいた軽巡洋艦川内と那珂、そして軽空母飛鷹はMIA(作戦行動中行方不明)となった。もう帰ってこないことを意味する言葉だ。雪風もどこかの海で眠っている。静かな水底から平和を祝福している。
言葉で解決できることなんて、ほとんど無いのではないかと加賀は思った。赤城が受けた苦しみも、艦娘の死も、残された者たちの悲しみも、言葉では決して解決することができない。言葉にして扱うのではなく、その肩に背負う為に、忘れない為に、彼女たちの名前を口にする。心に刻んで、そうして共に生きていく。
風が吹いた。
加賀は今さっきまで敷地の外に誰かがいたような気がした。白杖をついた人と、それを支えるように付き添う人。見たことはないが、とても良く知っている二人の影があったような気がした。加賀の隣で赤城が不思議そうに振り返る。
「誰かいました?」
「……いえ、気のせいかもしれません」
加賀は空を仰いだ。突き抜けるような青空がとても眩しい。
決戦作戦から深海棲艦はぱったりと姿を見せなくなった。目撃情報も上がらないまま二ヶ月が経ち、彼女らのような生物が本当に存在していたのかを疑ってしまうほどに海は静かになった。しかし加賀は深海棲艦がまだ生きていることを何となく知っていた。一度水底に沈んでから、加賀は深海棲艦の夢をよく見るのだ。自分自身が深海棲艦となり、彼女らの基地でじっと息を潜めている夢、深海棲艦として仲間と暮らしている夢。あまりにも手触りのリアルなその夢に、それは現実なのではないかと思うことがある。水底で魂が分離して、片方が向こう側にいるのではないか、夢を見ている間、向こう側の意識を覗いているのではないかと疑ってしまうほどなのだ。
もちろんそんなことは有り得ないと加賀は思う。だが、今まで深海棲艦と艦娘を、魂の見地でまともに論じた研究が無いことが気になった。ひょっとしてこの戦争は、深海棲艦というものを正しく捉えなければ終わらないのではないか、現代の深海棲艦の捉え方では、世界を平和に導けないのではないかと、無根拠に湧き上がってきた疑問に背筋が寒くなる。
『心配するな』
芦木長官ならこう言って艦娘たちに道を示してくれるだろうか。
『お前たちの未来は明るい――』
確かに、一歩ずつ、この世界の仕組みは変わり続けている。『世界』観も変わり続ける。誰もが一生を尽くして、希望というものを探し求めているからこそ、世界は変わりゆくのだろう。加賀もその力を信じてみようと思った。
「赤城さん」
だから加賀は言う。艦娘としてではなく、一人の女性として思う。
「心に積もった感情を、また誰かに与えられるように、私は生きていきたいです」
赤城は驚いたように目を丸くして、それから微笑んで頷いた。 了
あとがきは次回に続きます。ひとまずは最後まで読んで下さってありがとうございました!