深海基地直上のポイントに向かう途中だった。海が燃え立っている。油に炎が灯って、地獄のような光景が揺らめいていた。彼方から人影が近づいてくるのが見える。一人は重巡利根。その横には火傷を負った軽巡川内で、うつろな目をして利根の肩を借りていた。
「加賀か。酷いもんじゃろう。隼鷹を逃がすために赤城がまだ戦っとる……っておい、加賀!」
《赤城》という名を聞いて、加賀は船速を上げざるを得なかった。赤城がまだ生きているという報せに安堵と、そして押さえきれない焦燥を覚える。艤装に付いたタービンが悲鳴を上げた。
どのような状況で赤城は生きているのか。周囲の光景が酷い想像を喚起するのを振り切るためにも、無心になって加賀は走った。
遠方にもうもうと上がる黒煙と、稲光のような赤い光の閃きが見える。戦火に違いなかった。そこへと向かって足を急ぐ。
「な……」
一体どれほどの規模の爆発があったのだろう。深海棲艦の身体の一部と思しき物体が幾つも、黒ずんで波間に浮かんでいる。その中に誰かが……加賀の知っている誰かが紛れているかもしれない。吐き気を抑えてその中を進んだ。
海の上に赤城の姿があった。艤装の使えなくなった隼鷹を庇うように、弓矢を携えて、撤退しながら敵と応戦していた。戦える者は赤城一人で、そして艦載機もほとんどを使い切っているようで、一機ずつ射出しては、隼鷹を引きずってこちらに向かって逃走を進めている。
「赤城さん!」
加賀はそう声を掛けて近づく。赤城も加賀に気付き、そして悲痛な表情を浮かべた。
「ダメ! 逃げて加賀さん!」
叫んだ。
赤城より後方に、異形の人影がたった一つ立ち尽くしていた。加賀も、あらゆる鎮守府や泊地で話される『それ』の噂だけは知っていた。曰く、会敵したら逃亡せよ。曰く、六対一でも立ち向かうな。曰く、それの射線には死んでも立つな。曰く、その主砲は、冥府に続く大穴を開けている――
《戦姫》の名を冠した唯一体の深海棲艦。それは炎に身を巻かれ、自壊しながらも尚一歩ずつ赤城の方へとにじり寄っていた。彼女の両腕は主砲型深海棲艦と一体化しており、熱に溶けたその造形は地獄の門に刻まれた絶望のようだ。そして視界に入った加賀に、一方の腕を向けた。
「コワ……レ…………」
既に明瞭な意識は無いのか、戦姫の双眸には光が無い。しかし攻撃の意思だけが片腕の大口径に紅蓮の輝きを溜め込ませる――
加賀は周囲の音が霧散したと思った。
直後に広がる真空波と、音の壁。砲弾の通り道が埋まることで起こる高波に立つことさえままならない。砲弾は赤城と加賀の間を通り抜け、当たりこそはしなかった。しかし掠めただけでも、生きてはいられないだろう。
「くっ……赤城さん!」
「加賀さんは逃げて! あれはもう誰にも止められない!」
赤城はそう叫んだが、たった今戦姫の撃った砲塔は、右腕と共に乾いた土塊のように崩れ去っていた。もう自身の砲撃の負荷に耐えることすらできないのだ。壊れ、朽ち果て、意思も失った殺戮兵器の双眸から、赤い涙が流れ落ちる。
「オ……オオオ……」
もうあれには心がないのだ。加賀はそう思った。喘ぐように虚空を向いて、戦姫は残った左腕を、その主砲を赤城に向ける。彼女を庇うようにその前に立った加賀に向ける。
「コ……コワレテ……ユ…………ク……」
肉体が断裂する度に戦姫の精神も千切れていこうとしていた。加賀には、戦姫が討たれることを望んでいるような気がした。『壊して欲しい』と、そう願っているようにも聞こえた――
加賀は矢をつがえる。これは連綿と続く歴史を断ち切ることでもない、深海棲艦の軍勢に引導を渡すことでもない。ただ目の前の存在を楽にするというだけの行為だった。自分がこの世界に生まれてきてやれることなんて、たったこれくらいしか無いんじゃないかと、加賀は目の前の存在にも自分たちにも悲哀を覚える。兵器でもなく、人間にもなれなかった存在として、戦姫の姿は加賀の瞳に映っていた。それが憐れなことなのかは知らない。
加賀は戦姫を射抜いた。
◇
静寂だった。
遠のいていく、暖かな光。たくさんの腕によって冷たい水底に引きこまれていく。
ここが深海棲艦たちの棲む世界。艦娘たちの沈んでいく海。寂しく悲しい。沈んだ者たちの感情が海に溶けて身に巻き付いているようだ。
たくさんの命の澱が海の底に積もっていた。自分もその中の一部になっていくのだろう。寂しくはない。悲しくはない―
加賀は目を見開く。光が見えたのだ。その光は赤城の姿をしていた。加賀の口から泡が溢れ出る。
そんな馬鹿な。だってそれは……
赤城が、加賀に向かって必死に手を伸ばしていた。その表情は苦悶で、絶望で、悲愴で歪んでいる。痛いほどだったが、それでも笑いかけてみせていた。それはありえない光景だった。
何故なら、艦娘は泳ぐことができない。潜水艦でも、潜る機能が別にある。それは潜水艦である《思い込み》という機能。だから空母が潜行するなど、絶対にありえない。
赤城は自身が艦でないことを知ってはいた。しかし艦娘たちの思い込みは、『知っている』程度で破れるものではないのだ。たとえ痛みと共に腕が千切れ吹き飛んでも、今の加賀のように腹が破れ腸が露わになっても、仲間が嘆きと共に水底に沈んでも、艦娘たちは自身が艦でないことに気付くことができない。それほどの刷り込みに、現実に、世界に、赤城は抗っていた。
赤城は必死に手を伸ばす。その手は死の恐怖に震えている。加賀もその手を掴もうとする。
怖い。ここにきて沈んでいくことが怖かった。これからも赤城と一緒に過ごしていたかった。加賀は――