貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
夕暮れ時。カラスの鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。まだ気温が高いこの真夏日に、公園で黄昏れる男なんてものがいたらそれは、変質者以外の何者でもないんだろう。
「……頭、痛い」
ずきん、と鈍い痛みが何度も押し寄せてくる。頭だけじゃない。胸も痛かった。加えて言うとするなら心臓が痛い。何度も何度も味わってきた、この苦痛。恋煩いの症状のひとつ。
……何もかも、忘れてしまいたい。もう今までの記憶は全て、大切な思い出ではなく、未来を棒に振ることになる忌まわしき過去だ。そんなもの、もう僕にはいらない。
誰かがかすめ取るように、なんの痛みも感覚もなく、スっと奪い去ってくれないか。それか、記憶を捨て去る力をくれないか。
虚ろな目をしているであろう、僕はベンチのすぐ横に落ちていた空き缶を拾い上げると、右手で握り潰した。変な音が出て、握った手に痛みが走る。それをベンチに座ったまま遠くにあるゴミ箱めがけて投げ捨てた。ガコンッとゴミ箱の縁にあたってそのまま中へと落ちていく。
「……壁に当たれば、奈落の底まで落ちていくのも当たり前か」
なにせ、逃げ道がなかった。僕はただ彼女だけを見て、彼女の為だけを想って前を見続けた。色々な道があったんだろう。けれど、それら全てを捨てて……今僕は、どうしようもないところに来てしまった。後戻りもやり直しもできない。
……いいなぁ、アニメのヒーローは。好きなことやって、危険が迫ればすぐ駆けつけて。ヒロインが危険にさらされることも毎度のようにあるし、それを毎回助けている。僕にはそんな事はできないんだ。
『ワンッ、ワンッ!!』
いつか、どこかで聞いたような鳴き声が聞こえてきた。けれど、それを探すことも億劫だ。ベンチに座って項垂れたまま、地面に落ちている砂の粒を数えてみる。数え終わる頃には死んでいるだろう。
「ワンッ!!」
すぐ近くから鳴き声が聞こえてきて、次の瞬間には足に何か重いものがぶつかってきた。流石に目を逸らさずにはいられなくて、足元を見てみると……茶色の丸いもふもふとしたものが体当たりをするように頭を押しつけている。
……柴犬だ。あぁ、誰の犬だっけ。なんだか記憶が曖昧だ。
僕にぶつかってくるのをやめた柴犬は、すぐ横で座って僕を見上げてくる。その目は一切ぶれなく、真っ直ぐに僕を射抜いてきた。口を開けてだらしなく舌を垂らしているその姿は……。
「─────」
頭に嫌な痛みが走った。まるで昔のブラウン管と呼ばれたテレビに映っていた砂嵐のような映像が、ほんの一瞬だけ頭に浮かんでくる。どこかの路地裏。そこに倒れている柴犬。それに群がる人達。
しかし映った絵はそこで消えた。その一瞬だけが、ふと思い浮かんできたのは……一体なぜなんだろう。
「お前……どこかで会ったっけ」
「ワンッ!!」
僕の言葉に返事をした柴犬は、尻尾をぶんぶんと振り回す。
……あぁ、そうだ。思い出した。僕が柴犬の頭を優しく撫でると、柴犬は嬉しそうに目を細めた。
「コロ……だよな」
確かそんな名前だったはず。とすると、きっと近くには……。
「……藤堂君」
「……加賀さん、か」
飼い主である彼女がいることもまた、当然のことだ。少し離れた位置にいた加賀さんは、僕が気がつくと歩み寄ってきて、僕のすぐ隣に座り込んだ。首筋に浮かんでいる汗や、滲んだ襟元、そして彼女の呼吸の荒さからして……走ってきたんだろうなって思った。
彼女の手元を見れば、そこには僕のカバンがあった。中身は大したものは入ってないけど……これを持たせて走らせてしまったのなら、申し訳ないことをしたと少し反省している。
「……コロがね、見つけてくれたの。また前みたいに、藤堂君がいるってわかってたみたいで……」
「……そっか」
それきり、互いに言葉は中々出てこなかった。足元にいるコロだけが時折小さく鳴く程度。そんな沈黙に耐えられなくて、僕はずっとコロの頭を撫でたりしていた。
「……カバン、持ってきてくれたんだね。ありがと」
「あっ……ううん、いいの。ただ、その……」
「……別に、いいから。何もなかった。それでいいんだよ」
彼女からカバンを受け取って、立ち上がる。どうにも今は彼女と話したい気分じゃなかった。でも……。
「待って……!!」
逃げようとする僕の手を掴んで、離そうとしない彼女のせいで帰れなかった。振り向いてみれば、彼女の瞳にはなぜか涙が溜まっていたし、握る手は酷く震えている。それでも彼女は口を開いて、僕に待ったをかけてきた。
「相談、乗るから……」
「……相談?」
「っ……あの時、言ったよ」
「……そうだっけ」
「ッ……!!」
握る力が強くなる。でも、僕には何がなんだかよくわからない。あの時とは、どの時だ。
……頭が、痛い。
「あの時、今はそれほど問題じゃないって言ってた……。でも、今がその時なんじゃないの。今は、藤堂君の中で問題になってるんじゃないの……?」
「……問題。いや、何も」
あぁ、そうだ。何もない。何も、ないんだ。
「……何も、残っていないんだ。大切だと思っていたものが、今は何もかもが忌まわしく感じる」
「……それって、明日香さんのこと?」
「………」
何も言えなかった。でもそれは肯定の証でもある。彼女はそれを理解していて、ぼうっと立ったままの僕の前に立つと、その小さな指で僕の目元を拭っていった。
「……泣くほど、大切だったんだね」
「……そりゃ、そうだよ。何年も前からずっと、そうだったんだ」
そう、何年も前からずっと。あぁ、もうどれほど昔のことなのかすらも思い出せない。確かに僕は君と居て、一緒の時間を過ごす中で……いつしか恋に落ちていたんだ。
大事にしようと思っていた。この想いも、何もかも大事に育てていこうと思っていた。いずれも全て、過去のことだ。
「誕生日プレゼントは毎年買っていたし、よく一緒に家で遊ぶし。自分の姿なんて何も気にしてない。そんな気の知れた仲だっていうのに……アイツにとっては、ただの居心地のいい場所でしかなかったんだ。気にしてないってことは、関心がないってことだろ。僕のことなんて、何も思ってないんだ」
「……藤堂君」
「……彼女は化粧を覚えたよ。身だしなみの整え方を覚えて、学校に行く時には必ずどこか変じゃないか確認するようになった。それらは全部、僕のためじゃない。加賀さんも見ただろ。アイツの……あの男と話してる時の、嬉しそうな顔。あんなの、僕の前ですらそうそう見せることないんだ。なのに……」
……今でもあの光景を鮮明に思い出せる。ほんの少し前の時間のことだけど。僕のことなんて気がつかない君が、僕の知らない奴と楽しそうに笑っていた。その相手が、昔の僕に似ていたというんだから……それはもう、歯止めが利かなくなってもしょうがないじゃないか。
「僕の方が強いはずだ。僕の方がもっとオシャレにだって気を使ってるはずだ。彼女の好きな物も嫌いな物も、何もかも僕の方が知ってるはずだ。僕の方が……あんな奴よりも、彼女に相応しいはずなんだよ……!!」
「……あの、ね」
決壊したダムのように、零れ続ける僕の言葉を遮るように彼女は言った。
「相応しい、とか。相応しくない、とか。そんなの自分で勝手に決めたものだよ。誰を好きになるのも。どうやって好きになるのかも。他の誰にも、それは決められないんだよ」
「でも……僕は……」
「藤堂君は、明日香ちゃんのことをどうして好きになったの?」
「どう、して……?」
……そんなの、知らない。彼女のことが好きなことに、理由なんてなかったはずだ。でも、それでも、何かあったとするのなら……ひとつ、あったはず。けれど思い出せない。
「……やっぱり、幼馴染ってそういうものなの? 気がついたら好きになったりとか」
「……だって、ずっと一緒にいたから」
「ずるいなぁ、そういうの。藤堂君は、それが嫌だったんだ。ずっと一緒にいたから、それを取られたくなかったんだ。それなら藤堂君って……幼馴染だったら、誰でもよかったんじゃない?」
「ッ、そんなわけあるかッ!!」
握られていた手を振り払う。悲しげでもなく、無表情でもなく、ただ微笑んでそう言ってくる彼女に対して怒り以外の何の感情も湧かなかった。
「僕が好きになったのは、明日香だ!! 幼馴染だからじゃない、例え幼馴染じゃなくたって、僕は明日香のことを好きになっていたはずなんだ!!」
「……そっか」
また、彼女は笑った。何も可笑しいことなんてないのに。
でも……彼女の次の言葉には、僕は唖然とする他なかった。
「なら、それでいいんだよ。好きでいていい。ずっと想っていればいい。だから……こうやって、燻ってちゃダメだよ」
「っ………」
「堂々と言えるくらい好きなんでしょ? なら、それは誇らしいことなんだよ。だから……お願いだから下を向かないで。私が惨めになっちゃうよ」
彼女は笑っている。笑いながら、涙を流している。惨め? どうして彼女がそう思わなくてはいけないんだろう。
「……誰が誰を好きになるのも。誰がどうやって好きになるのも。関係ないよ。ただずっと……振り向いてくれるまで、近くにい続けるの。私に気づいてって」
「……加賀、さん?」
近寄ってきたかと思えば、額を胸に押しつけるように抱きついてきた。そのまま何度か額を擦らせると、背中に回された手が服を強く掴んでくる。
「……藤堂君は、今までのように好きでいていいんだよ。いつか明日香さんが振り向いてくれるように。諦めたくなったら、もう簡単に諦めていいんだよ。私が……ここにいるから」
「………」
諦めて、いい。そう考えると、何故か身体が軽くなった気がしてきた。とんだクソ野郎だ、僕は。
……あぁ、でも……もう、下は向けそうになかった。今下を向いてしまったら、彼女の姿が見えてしまう。
「……ごめんね、加賀さん。それと……ありがとう」
「……いいんだよ。私たち……まだ、友達だから」
強かな女の子だった。加賀さんは名残惜しそうに僕の身体から離れると、コロにリードをつけてからまた僕に向き直る。
「……もう、大丈夫?」
「……うん、大丈夫」
「そっか」
眼鏡をずらして、涙を拭っていた。赤く染った目元と耳が、嫌でも彼女がどういう気持ちを持っているのかを知らしめる。
……それでも、下は見ない。
「また、相談に乗ってもらっていい?」
酷い男だ。彼女にそんなこと、言うべきではないはずなのに。それでも彼女は笑って頷いてくれた。
「いいよ。そのかわり……私と一緒の時は、その話し方でいてね」
「……うん」
気がつけば、僕は僕として彼女と話していた。不特定の誰かと話す俺ではなく、あの頃の名残として残っていた僕として。それは明日香の前でしか見せなかったけど……今は、彼女の前でもその弱かった自分を見せてもいいかと思えていた。
日が暮れてくる。残された夕日が彼女の顔を明るく照らしていて、それがあまりにも眩しかった。彼女のあり方が。僕にはきっと、どうやってもそうはなれないんだろう。
「僕はきっと、これからも黒いことを考えてしまうんだ。明日僕は、何度も死ねと心の中で呟くよ」
「そんな君の愚痴を、私は何度も聞くよ」
「明日香と話すだけで変な優越感を覚えて、驕ってしまうかもしれない」
「私は今君と話していることを、誰かに自慢したいよ」
「……加賀さんは、変な人だね」
「君がよく知ってるはずだよ。私は……こういう人間なんだって」
笑っている彼女のその姿が脳裏に焼きついていく。あぁ、それでも僕は君のことを好きになれない。僕が好きなのは明日香だ。それはきっと変わらない。
ただもし、何か変な間違いがあって。僕の気持ちが変わってしまったのだとしたら……。いや、そんなことは考えるべきじゃない。明日香と真っ直ぐ向き合う為にも。彼女に対して真摯でいる為にも。
「藤堂君、今日のことは忘れないでね」
「忘れないよ。絶対に」
それは夏にあった出来事だった。僕と彼女のこれからの付き合いが少し濃くなったとも言えるもので……それと同時に、僕が明日香のことをもっと考えるようになってしまったとも言えるものでもあった。
忘れられないものとして、心の奥底深くに刻み込むような出来事だった。僕は……ほんの少しだけ前に、進めた気がする。
……あぁ、頭が痛い。
To be continued……
前回評価者云々と言い、ついに評価バーに色がつきました。誠に嬉しい限りです。評価してくださっ方々、並びに読んでくださってる方々。ありがとうございます。
……えぇ。日刊ランキングに乗ってたり、お気に入りが今までの比じゃないくらい増えたりしてちょっと嬉しさを超えて、やべぇと思っていた私です。
それでは皆様……コンゴトモヨロシク。
やる気出たよ。ありがとナス!!