貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
身体の芯が寒いと、心が訴えかけている気がする。いや心だけではない。身体も不調を訴えてきている。それは俺にはどうすることもできず、ただ時折くる目眩や吐き気等の感覚を耐えるだけだった。
魔術を使ったことによる弊害。それをいまいちどのようなものだと理解できていなかった。けど、今こうして派手に使った後だと……この魔術を使い続けることがどれだけ身体の負担になるのかがわかった。背筋を誰かがなぞっていくような気持ち悪さに身を震えさせ、しかしそんな不安な心境を悟られないように、俺はなるべく無表情で先輩達の後について行く。
「海音さん、気分悪くないっすか? 正直俺らでもキツいもんを見ちゃってたんで、だいぶ精神的にきてるんじゃないかと……」
「……はい。でも、少し良くなりました。見た時は本当に、どうしようかと……」
あのようなバケモノが日本中にいるんですよね、と車椅子に乗って俯きながら言った海音さん。確かに、俺も認めたくはない。だが現実、奴らは至る所に潜んでいる。それを人間が悪用したり、手引きしたり……。
仮にこの世界で俺達が何もせず、ただ無力なまでに生活していたとしたら、奴らは何をするんだろう。やはり俺達人間を殺そうとするのだろうか。でも、奴らは人間の手引きがない限りそう易々とは人の前に出てこれない。蛇人間のような手を使わない限りは。
……そう考えだすと、途端に人間にも非があるような気がしてならなかった。奴らを利用する人間がいるのも確かで、奴らの技術や魔術を使う輩がいるのも確かだ。なら……人間と神話生物。その両者にどんな差があるというのだろう。人も人を殺す。神話生物もきっとそうだ。
残虐性。それは人にも神話生物にも持ち得るもの。ただ俺達人間は運が良かっただけだ。運良く地上を得られ、運良くそこで生活基盤を整えられただけのこと。互いに善も悪もないのかもしれない。
「……氷兎君?」
「……あっ、悪い。どうかした?」
怪訝な顔で俺を見つめている七草さんがいた。どうやら考え事をしすぎたらしい。
「顔色悪いよ、大丈夫?」
「……ん、平気。俺は大丈夫だよ」
……痩せ我慢か。それとも七草さんの前でみっともない姿を見られたくなかったからか。吐いてしまえば楽になるのに、俺は意地を張った。彼女に笑いかけると、俺はまた無心で先輩達の後に続く。
そうして歩いていくこと数分、猟犬と戦った場所に辿りついた。床の至る所に銃弾の跡や、排莢された薬莢が転がっている。それと、あの猟犬の爪痕や液体によって溶かされた床や壁。どれだけの激戦を繰り広げたのかが見ただけでわかる。よく誰も死なずにいられたものだ。
「……今思えば、俺ひとりで勝てる相手ではなかったのかもしれんな」
西条さんは顎に手を当てたまま、その跡を見て呟いた。そんな彼を見て先輩がニヤッと笑う。
「お前も、ひとりじゃできないことがあるってわかったか?」
「……二人組を作れと言われた時もひとりでできたが……だがまぁ、わかったこともある。俺もまだ鍛錬が足りんということだな」
「いや、せめて二人組を作る時は
「知ったことか」
鼻で笑って西条さんはそっぽを向く。かわいくない奴だなぁ、と言った先輩はなるべく平らな場所を選んで海音さんの母親が眠っているカプセルの元へと向かう。
嫌に神経質になっているせいか、些細な音が耳に届いてくる。届く音を聞き分ければ、遠くの方からまた別の足音が聞こえてきている。この空間自体がやけに静かで、音が反響するせいかわかりやすい。また別の招待された人だろうか。
「……先輩、また誰か来たみたいですよ」
音のする方を見ながらそう伝えると、先輩は一段と苦々しい顔をしてため息をついた。
「……七草ちゃん。悪いけど見に行ってくれないか」
「えっ……私、ですか?」
「あぁ。相手も女の子相手の方が気が楽だろ。敵だと思ったら逃げていい。そうじゃないなら……俺達のところに連れてきてくれ」
「……なら、俺もついて行った方がいいんじゃないですか?」
「その必要はねぇよ」
どこか確信を持っているかのような口ぶりだった。先輩は来た人物に心当たりでもあるのだろうか。まぁ、別に先輩の意見に反対する気はない。敵はもう居ないはずなのだから、七草さんに行かせても大丈夫だろう。それに、民間人だって俺達みたいなのが行くよりも、見た目どころか中身まで整った七草さんの方が気が楽なのは確かだ。襲われないかは心配ではあるが。
少し悩んだ七草さんだったが、頷いてその場から駆け出していった。入口付近にいるだろう、ということを一応伝えておいたので、多分大丈夫だろう。
「誰が来たのか、わかっているのか?」
「……まぁ、多分な」
「………」
西条さんは怪訝な顔をするも、少しすると納得のいった顔になり、黙って歩き続けていた。西条さんも心当たりがあるらしい。先輩でも思いつきそうなことだ。それほど難しいことでもないんだろう。
だとするならば……考えられるのは、一人だけいる。先輩も話したがらないようだし、秘密にした方がいいのだろう。
そのまま足を進めると……ようやく、海音さんの母親の眠っているカプセルに辿りついた。掃除されていないのか、細部にはホコリや汚れがある。長らく稼働し続けたまま触られていないようだ。
先輩に押された海音さんがカプセルの中を覗き込むと……悔しそうに顔を歪ませた。中にいたのは母親で合っていたのだろう。
「……私達を置いて、こんなところで一人幸せな夢を見てるなんて……」
震えるその声には、確かな怒りの感情が込められていた。膝元で強く握られた両手は微かに振動し、肩には力が入っている。自分を置いて幸せになった母親を見て、どう思ったのか。俺には彼女の心の内にどれほどの負の感情が込み上げているのか察することはできない。
しかし……並大抵の感情ではないはずだ。仮にだが、もし俺の両親がそんなことをしたら……怒りと同時に悲しくもなる。俺は両親にとっていらない子だったのだろうか、と。
「……幸せになれる箱。蓋を開けてみてみれば、なんともまぁ嫌な現実だったものだな。技術革新は、確かに俺達の生活を便利にする。鍛え上げられた技術は良いことにも……また悪いことにも使われてしまう。悩ましいものだ」
カプセルを触りながら、西条さんは苦言を漏らした。明晰夢とはいうものの、それはものの例えかもしれない。VR技術を流用したと言っていた。ならば、夢ではなく情報で統括された電子世界に意識だけを情報として組み入れている可能性もある。
それ即ち、完全なVR。ヴァーチャル・リアリティー、仮想現実だ。これを大手の企業が今躍起になって作ろうとしている。ゲーム好きならば、やってみたいと思うことだろう。だが……恐ろしいものだ。仮想と現実は互いに存在し合っている。仮想にい続ければ、いつか現実が殺しにかかる。
それを世界中の人は体感し、体験しなければ考えもしないのだろう。仮想に逃げても、現実から逃れられたわけではないと。
「……それで、貴様はどうしてここに来た。招待状を受け取ったからか?」
西条さんの口から発する厳かな言葉が海音さんを突き刺す。親に怒られた子供が萎縮するように、彼女は身体を強ばらせて目線を逸らした。呆れたようなため息が聞こえてくる。
「……母親を探しに来たとでも言いたいのだろうが、俺にはそうは思えんな」
「っ……貴方に、私の何がわかるって言うんですか……」
「何もわからん。貴様の感じていることも、考えていることもな」
悲しみを感じさせる、今にも消えてしまいそうな彼女の声を、しかしバッサリと斬り捨てた。相変わらず容赦のないことだ。けれど……止めはしない。考えている通りだとするならば、俺はきっと西条さん側だろうから。
「痛みも、感情も、本人にしか理解できん。俺達は所詮外から眺めていただけの存在に過ぎない」
「だったら……」
「……だが」
感情論に対して、何ができるというのか。激昴してる人物には何の声も届かない。自分の感情を振り回している人に諭しても効果はない。
だが、それでも伝えなくてはならない。少しでも落ち着いた時に、その言葉を思い返せるように。
「外から眺めるということは、その風景を、周り諸共眺めるということだ。貴様は自分の主観に流され過ぎて、周りのものが見えていない。感情を振り回すのも大事だが、振り回されるだけの人間はロクなものではない」
「……そうやって言えるのは、貴方が私の立場になってないから……貴方もなってみれば、そんなこと言えなくなる」
「当たり前だ。俺はなってないから言えるのだ。そして、誰かが言わねばならん。本人にとって、それが憎たらしいことであってもな」
彼特有の鋭い目つきが海音さんを射抜いていく。有無を言わさぬその態度に、辺りは静まりかえっていた。そしてその静寂を終わらせたのは、俺達の元へと走ってくる誰かの足音だ。音のする方を見て、俺達は軽く落胆し、そして海音さんは驚きに目を見開いていた。
「氷兎君っ、白菊君が歩いてきてたよ!」
走ってきたのは七草さん。そして彼女に抱かれたまま連れてこられたのは、海音さんの弟の白菊君。なんともまぁ嫌な考えというのは当たるものだ。
「おねえちゃん……」
「アキくん……なんで、ここに……」
白菊君は手に持っている一枚の紙を見せてきた。大事そうに握られていたそれはくしゃくしゃになっていて、子供でもわかるような字で丁寧に地図が書かれていた。そして、その場所への行き方も。
「……すいません、海音さん。なんとなく、嫌な予感がしたので……白菊君の机に俺が書き残しました」
先輩が申し訳なさそうに言うが、ある意味ファインプレーになるかもしれない。なるほど、先輩が家を出る前に何かやっていたのは地図を書き残していたのか。先輩の嫌な予感というのはまず間違いなく、海音さんがここに来るだろうということ。
確証も何もない中、先輩がそれを考えたということは、先輩なりに海音さんと接触し仲を深めたということだろう。少なくとも、相手の考えていることが何となくわかるくらい濃い接触だったはずだ。
「おねえちゃん、ここにお母さんがいるの?」
七草さんに下ろしてもらった彼は海音さんの元まで歩いていくと、そう尋ねた。彼女は即答せず、しばらく黙ったままであったが、そのあとゆっくりと頷いて答えた。
「……ここにいるよ」
海音さんの視線の先には、カプセルの中に眠っている母親の姿。白菊君はたまらずそのカプセルの縁に捕まって中を覗き込んだ。
先輩も俺も苦々しく顔を歪め、西条さんの表情にもどこか陰りがある。唯一明るい表情を保っていたのは七草さんだけだった。
「………」
車椅子から身体を乗り出し、カプセルの蓋を開ける。中からはひんやりとした空気が吹き出していく。数秒もしないうちに、中で眠っていた海音さんの母親の身体がピクリと動く。次いで指が動き、瞼の裏側で眼球が動きだした。そして重たそうな瞼を開いていき……眩しさに目を眩ませた。
「お母さん……お母さんっ!」
カプセルの中に手を伸ばして、白菊君が身体を揺する。すると今度は掠れたような声が聞こえてきた。薄らと開かれた目は、外から覗き込んでいる白菊君を見ている。
「……しろ、あき……」
「お母さんっ、起きて! 一緒に帰ろうよ!」
しばらく口を利くこともなかったのか。母親の声は上手く出ていなかった。それだけの間この中に閉じこめられていたのだ。おそらく身体の筋肉もまともに動かないだろう。
「……お母さん、起きてください」
「……か、いね……ここ、は……」
細い腕を伸ばし、カプセルの中で身体を起こそうとする母親を白菊君が支えた。そうして身体を起こした母親は、目の前の光景を見たからか驚き口をカタカタと震えさせた。栄養が供給されていたとはいえ、筋肉は衰えるものだ。身体は細く、頬もややこけている。まるで病人のようだ。
「……わ、たし……かえって……」
「お母さんっ、一緒に帰ろうよ! ねぇ!」
母親に会えた喜びか、白菊君は笑顔で母親の手を引こうとする。これでしばらくすれば、彼女達の生活はゆっくりとだが……元通りになっていくのだろう。
……そう、思っていた。
「……ちが、う……ちがう、違う違う違う、違うのッ!!」
「あうっ……」
「なっ───」
驚きの声を上げたのは誰であったか。いや全員だったかもしれない。突如ヒステリックな声を上げ始めた母親は、なんと白菊君を手で払い除けて、弱々しくも突き飛ばした。
母親はそれに罪悪感を覚えた様子もなく、ただこの世の終わりを見たかのような醜い顔で泣き喚いていた。
「あんたたちは、私の子供じゃない……私の子供は普通の子なのッ……車椅子なんか乗らないし手を掛けさせないし私に面倒なことをさせないしあなただってずっと私の隣に居るし誰も私を悪く言わないし毎日がしあわせで私のことをみんな羨んで誰も彼もがわたしのことを崇めるの、私の家はここじゃない、私の家はもっと綺麗でちゃんと私の子がいて───」
「この、痴れ者がァッ!!」
……西条さんの蹴りが母親に直撃する。嫌な音をたててカプセルの縁に身体を叩きつけられ、そのまま支える力もなく身体をだらんとさせて動かなくなった。
「ッ、おい西条ッ!! お前、何やってんだよッ!!」
「こんなのが、こんなのが母親なわけがあるかッ!! 見ていただろう、貴様の目には一体今のが何に見えたのだッ!!」
「確かにそうだよ!! でも、それは今実の子供の前でやる事じゃねぇだろ!!」
「だというなら、貴様は今この場をどうするつもりだったのだッ!! この愚か者の戯言を、延々と聞かせるつもりかッ!!」
「それは……でも、やっぱダメなんだよ!! 俺達だけならいい。だけど、白菊君には見せたらダメだろうが!!」
「もう、やめてくださいッ!!」
互いに一触即発の状態にあった西条さんと先輩を、海音さんが止めた。俺はただ、七草さんが起こした涙目になっている白菊君と、時折痙攣している母親を見ていた。
「いいんです……もう、いいですから……」
「……チッ、ロクでなしが」
西条さんが母親を見て吐き捨てると、その場から少し離れた。先輩も同様に、バツが悪そうに肩を竦めていた。
「おかぁさん……おかぁさん……」
泣いてしまった白菊君は、母親を呼ぶ。しかし母親は目もくれない。先程までぐったりとしていたのに、それでもその目に狂気的な濁りを映しながら死にもの狂いでカプセルの中へと戻ろうとしていた。
「ちがう……私の家は、ここじゃない……帰る……帰らせて……」
カプセルの中へと戻り、内側から蓋をしめて閉じこもる。カチャリッと鉄の擦れる音がした。見れば、西条さんが刀を抜刀しかけている。その顔はいつもの仏頂面ではなく、怒りの一色のみだった。
「……こんなのが」
海音さんが呟いた。
「こんなのが、私達の母親だなんて……」
彼女の握りしめる手に力が入っていく。俺達は誰も、何も言えない。
「……バカみたいだ、何やってたんだろう、私」
瞼に溜まった涙を指ですくい、さっき通ってきた道の方を向いた。そして自分の手で車椅子を動かし、その場から去ろうとする。慌てて先輩が彼女を止めた。
「ちょっと待ってください海音さん!! どこ行く気なんすか!!」
「……いいじゃないですか、私がどこへ行こうと」
背を向けていた彼女が車椅子を動かして向き直る。その瞳には、光が灯っていない。薄汚れた彼女のガラス玉には、何も映っていない。
「……貴方は招待客だ。当然、貴方用の空いた席がある。まさかとは思いますが……カプセルの中に入るおつもりで?」
固めた拳の親指で、母親の眠ったカプセルを指差しながら俺は問うた。お前も母親と同じことをするのか、と。
俺の言葉に彼女は頷くことはなく、俯いて身体を震えさせるだけだった。
「……もう、いいでしょう。放っておいてください。私は……」
「放っておくも何も……流石に看過できない問題があるので、見過ごせませんね」
「……どうして……ッ」
徐々に力が込められていく彼女の身体は、とうとう決壊した。涙を堪えることなく、まるで滝のように流しながら彼女は誰にともなく訴えた。
「私の、何がいけないの!! 私には何も責任なんてないじゃない!! 産んだのは母親で、私は産まれてくることも、産まれてくる場所すらも選ぶ権利はなかったの!! 好きでこんな不自由な身体で産まれたわけじゃない!! 全部、全部お母さんのせいだ!! 私に責任なんて、何もないじゃない!!」
「………」
彼女の訴えは至極真っ当だ。それに関して、俺は何も言うつもりはない。そう、それに関してだけは。
「皆が幸せに歩き回る中、私には遊ぶ権利すらなかった!! 自分の好きなことをする時間も、好きな人と過ごす時間も、何も与えられなかった!! その上、お母さんは私を置いて逃げて……もう、これ以上私にどんな不幸を味合わせようというのッ!!」
俺達が感じる幸福と不幸。それは差によって感じることができる。だとするならば……不幸な彼女には、普通の人が余程幸せに見えたことだろう。ただ歩くことが。ただ話すことが。ただ自由な時間を過ごすことが。
望んで産まれたわけではない。しかし望んだ生活を送る術を持ちえなかった。彼女には、未来に進むための足がないのだから。
「私だって、歩きたいっ。地面を自分の足で走り回りたいっ。普通の生活を、送りたいだけなの……。だから……もう、いいじゃない。私だって……幸せになりたいのッ!!」
きっと誰も彼女を責めることはできない。誰も彼女を責める権利はない。彼女の訴えは、間違ってはいない。けれど……彼女は気がついていない。その方法こそが、最も間違っているのだと。
だから気がつかせなければならない。外からその風景を眺めていた、誰かが。
「……どうぞ、お好きになさるといい。俺は別に貴方を止めたりはしない。貴方の言うことは正しい。貴方には全くもって、非がないのですから。神がいるのだとしたら、なんともまぁ残酷なことをするものだ」
さも当然のことだ。俺はそう言いながら彼女に近づいていく。しかし……鏡で見れば、今の俺の顔や目つきというのは、そこらの不良ですら腰が引けるものだっただろう。
「けれど……アンタにはまだやらなきゃいけないことがある。そうだろう?」
「っ……これ以上、私に何をしろっていうの……」
「そもそも、アンタが行こうとしてるのは仮想現実。それがどういうところなのか……説明したはずだ」
車椅子に座る彼女を見下ろす形で俺は言う。
「望んだものが得られる世界。自分の考えたことが実現する世界。誰もがアンタの望んだ言葉を言い、誰もがアンタを賞賛する。そこには不幸なんてものは欠片もないだろう」
「何を、言って……」
「わからないのか?」
だんだんと荒くなっていく言葉。それでも俺は言うことをやめない。
「仮にアンタが、ほんのちょっとした気の迷いを起こしたとしよう。あぁ、例え満ち足りた世界であっても、俺達人間というのは、そんなことをふと考えてしまうものだ。もしも自分が死んだらどうなるのだろう。死んでみたい、と」
「……そんなこと、思うわけない」
「重要なのはそこじゃねぇんだよ。もし仮にアンタが死にたいと願ったら……周りの人全員が、アンタに笑顔で死ねと言って殺しにかかるんだ」
「─────っ」
息を呑む音が聞こえる。止まることなく俺は続けていった。
「望んだ言葉を言われる世界。誰もアンタを、死んで欲しくないという身勝手な想いで助けようとする奴はいないんだよ。薄っぺらい関係だと思わねぇか?」
「ッ……それでも……私は、生きたいのッ!! 幸せになりたいのッ!!」
「ふざけるなッ!!」
車椅子に座っている彼女の胸ぐらを掴みあげる。両手で必死に腕を引き離そうとするが、俺が全力で握った手はそう簡単には離れない。
「幸せになりたいんだったら、仮想に逃げたいのなら現実に憂いをなくしてから行けッ!! 今ここで……白菊君を殺せッ!!」
「なッ………」
彼女と、そして後ろの方で事の成り行きを見ていた先輩と七草さんの戸惑う声が聞こえる。けれど俺はやめる事はない。
「アンタがいなくなったら、白菊君は独りだッ!! まだ小学生の子が、独りでどうやって生きていくと言うんだッ!! どうせ仮想に行けば、アンタはまた白菊君に会える。だが、白菊君はもうアンタには会えねぇんだよッ!! アンタがいくら逃げても、現実じゃ白菊君が独りで生きてんだよッ!! 逃げたいのなら、独り残される白菊君を殺してからにしろ!!」
「そんなこと……できるわけないじゃないっ……!!」
「アンタがいなくなっても、俺達は白菊君を助けねぇよ。それに、事件の関係者は殺してもいいって決まってるんでな……。アンタがやらないのなら、俺が殺す。現実の白菊君ひとりを犠牲にするだけで、アンタは幸せになれるんだ。ひとりの命でひとりの人間が幸せになれるのなら……上等だろう?」
「─────」
彼女の目から怒りの感情は消え、新たに出てきたのは恐怖だ。言ったように、どうして俺達が白菊君をこんな理由で助けないといけないのか。彼女が現実から逃れるということは、現実の全てを手放すということと同義だ。自分がいなくなって支障が出るものは……全て失くすのが、道理ってもんだろう。
「あっ……ぅ……」
その先に続く言葉はない。俺は黙ったまま彼女を睨み続けていた。
そして……何かがゴンッと足にぶつかった。何度も何度も、足を蹴り、身体を殴りつけてくる。
「おねえちゃんを……おねえちゃんを、いじめるな!!」
足元でずっと腕や足を振るい続けているのは白菊君だった。何度も何度も、その小さな身体で出せる全力をぶつけてきている。
「……チッ」
わざとらしく舌打ちをして、俺は胸ぐらを掴んでいる手を離した。彼女が咳き込んでいるのを聞きつつ、俺はその場から離れていく。すると白菊君は俺を攻撃するのはやめて、彼女の元へと駆け寄っていく。
「おねえちゃん、大丈夫……?」
「……アキ、くん……なんで……私っ……」
咽び泣く声が背後から聞こえてくる。俺は振り返らずに、先輩達の間を通り抜けてその場から歩き出した。
「先輩、あと頼みました」
「なっ……ちょっ、氷兎……」
「……俺も行くとしよう。あとの事は二人で事足りる」
「西条まで……」
唖然としていた先輩と七草さんを置いて、俺は歩き続けていく。そのすぐ後ろを、西条さんもついてきていた。
だんだんと遠くなっていく泣き声が聞こえてくる。ごめんね、ごめんねと何度も繰り返す声が聞こえてきた。
「アキくん……ごめんなさい……私っ、アキくんのこと……」
「おねえちゃん……泣かないでよ」
「アキくん……こんな私で、ごめんね……」
……少し後ろを振り向けば、床に座り込んで白菊君を抱きしめている海音さんが見えた。白菊君は彼女が倒れないようにしっかりと支えている。
彼女をずっと支え続けた、小さなヒーロー。彼はずっと彼女を助けようと頑張っていた。それをようやく、彼女は理解できた。もう俺が手を出す必要もない。
「……まさか貴様がやるとはな」
「……意外でしたか?」
「多少はな。貴様がやらなくとも、俺がやっていただろうが」
後ろを歩いていた西条さんが隣までやってきた。考えていることはきっと同じだろう。
「汚れ役を買って出る奴だとは思っていなかった」
「……人の心を助けるためには、優しくするだけではダメなんですよ。時には叱らなくてはいけない。そういうもんです」
「実に反感を買いそうな言葉であったがな。仮に俺が言えば、鈴華が俺を殴り飛ばしていただろうよ」
「さて、どうですかね……。先輩もなんとなく、わかっていたと思いますよ。でなけりゃ、白菊君をここに誘導させません」
歩き続けて、辿り着いたのは眠っている人達の見ている夢が映っているモニターの場所。この機械は、ここにある全てのカプセルを制御している重要な装置であった。
映っている映像を見ながら、俺は憂鬱そうに言った。
「……嫌な任務だ」
隣にいる西条さんも、仏頂面ではなく顰めっ面でその映像を見ながら呟くように言った。
「俺達はここで眠っている連中をどうにかせねばならん」
「……ですが、起こしたところでってことですよね」
「そうだ。長い眠りで筋肉は衰え、本人は幸せな夢を見ていると来た。そんな連中にとってのリハビリは、とても過酷なものだ。飯も食っていないのだから胃も収縮している。味の薄い流動食しか食えないだろうな」
「……どれだけの人が、復帰できると思いますか?」
「むしろいると思っているのか?」
「………」
軽く目を伏せ、俺は西条さんの言葉に沈黙で返事を返した。どうしようもない現実が、目の前にはあったのだ。
「処理班がここにくれば、おそらくここにいる連中は殺されるだろうな」
「……起きたところで、社会復帰は難しく、また病院に連れて行ってもここで起きたことを狂言のように言い続ける。それがマスコミに流れれば……」
「それを危惧し、木原は殺せと命令するだろうな。第一、これだけの規模の人数を受け入れる病院がどこにあるというのか。それに加え、この人数が同じようなことを言い続けてみろ。世間はこの幸せになれる箱を手に入れようと躍起になるぞ」
「信憑性が増してしまうってことですか……」
片手で顔の半分を隠すように抑えた。深いため息をつきながら、目の前に映る幸せな映像から醜い欲望までの光景を見て、知らぬ間に歯を食いしばっていた。
「……どの道死ぬほかない。だが……ひとつだけ、幸せに死ねる方法がある」
「……栄養供給を止める、ですよね」
「その通りだ」
考えていたことが次々に的中し、何もかもが嫌に思えてきて仕方がない。目の端に溜まってきた涙を拭って、俺は機械を弄っている西条さんを見た。
「栄養供給を止めれば、そのまま栄養失調で死ぬ。おそらくは幸せな夢を見たまま、な」
「………」
「……設定の変更は、あとはこの画面を触るだけで終わる。俺には痛む心もない。貴様は先に戻っていろ」
「……いいえ」
西条さんの言葉に俺は首を振った。そして画面に掲げられた西条さんの手の近くに俺も手をかざしながら言う。
「……貴方だけに、責任は負わせません」
「……余計なお世話だ。俺ひとりでも何も変わらん。貴様が背負ったところで……」
「……もう、決めたことですから。それに……そういうのって、何ともないと思っていても心のどこかに残ってしまうものなんですよ。だから……俺も、やります」
「……勝手にしろ」
画面に表示されたボタンを押す。カプセルの状態を表していたモニターに、異常を知らせる赤いマークが次々と点滅していく。
栄養の供給は止まり、俺達が報告する時間をずらせば……処理班が来る前に死ぬ事だろう。
それはさながら『幸せの片道切符』だ。その切符で往復はできない。行ってしまえば最後……帰っては来れないのだ。
……こうして俺はまた、自分の手を汚していく。気持ち悪さはない。だが……この後悔や、やるせなさは……きっとずっと抱えていくことになる。
誰も助けられなかった罰だ。これは俺への戒めだ。
俺は自分の犯した罪を、忘れることはないだろう。
To be continued……