貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
まだ、私が子供だった頃の話。私には幼馴染の男の子がいました。格好よくはなかったけど、優しい子で、頭が良かった。よく本を読んでいて、それで得た知識をわかりやすく話してくれたりして、そうやって一緒に話したりするのが好きだった。
二人で夜に抜け出して、月がよく見える場所でたくさんのお話をした。そして昼には、互いを追いかけて遊んでいた。いつしか……そんな彼に惹かれていた。彼の両親が唐突にいなくなって、より一層私と彼は一緒にいるようになった。
でも……それはいつしか苦痛を伴うようになってきてしまった。彼は、決して格好よくはないのだ。けど、それを補い余りあるくらい優しく、人当たりが良い。だから、気がつけば彼を取ろうとする女の子が増えてきてしまった。
彼は気がついていない。それがより一層私を恐怖に陥れた。気がついてしまえば、きっと彼は意識してしまう。意識してしまえば……取られてしまう。なんとか私に意識を向けさせなければ。
けれど、どんな事をしても彼は私に振り向いてくれなかった。いや……ずっと私に振り向いていてくれていた。だから意識なんてものをしてくれなかったのだ。
だったら……私と同じ想いになれば、きっとわかってくれるんじゃないか。そう思ってしまった。嫉妬に駆られ、焦燥感に煽られた私は、やってはいけないことだとわかってはいても、それをやってしまったのだ。
『ねぇ、私の彼氏の振りをしてくれない?』
私の周りにいた一人の男の人を捕まえて、彼氏の振りをさせた。そしてそれを、彼に見せた。
私の頭の中では、もう幸せな日常が描かれていた。ふざけるな、って彼が怒鳴り散らしながら私をひったくって、彼女は俺のものだ、なんて言ってくれたり。そして晴れて付き合った私達は、結婚して子供も出来て……。
……けど、そんな妄想は崩れ去った。彼にそれを見せた時、彼はただ無表情のまま言った。
『おめでとう、そしてどうか幸せに』
違う。私が欲しかった言葉はそれではなかったのに。なんで。どうして。何がいけなかったの。ぐるぐると心の中で言葉が混ざり合う。
そうして何も出来ず、私も真実を伝えられず、気がついたら……彼はいなくなっていた。連絡をしても、返事は中々返ってこなかった。マメな彼は、必ずその日に返すのに、返ってくるのは決まって数日経ってからだった。
彼がいなくなってから、友達から聞いた話を思い出した。
彼氏が本当に好きでいてくれてるのかわからない。だから、嫉妬させてみた。そしたら喧嘩になって、別れちゃったって。
あぁ……私はそれをしてしまったのか。
空いてしまった穴を埋めるように……私は彼氏の振りをしてくれた彼と、付き合うことにした。
……付き合った彼もまた、優しかった。私のその話を聞いても、隣にいてくれた。それでもいいから、隣にいさせてくれと彼は言った。
今では……私は、彼を愛している。空いた部分にすっぽり埋まってくれた、彼のことを愛しているんだ。
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
心を落ち着かせるようなジャズと呼ばれる音楽が店内に流れている。机を挟んで対面に座っている彼は、ゆっくりと珈琲の入ったカップを傾けた。その仕草がやけに様になっていて、あまりに自分とかけ離れているので劣等感に苛まれた。
それでも、僕は表情を崩さないように珈琲を一口飲んだ。特有の酸味と苦味が口の中を蹂躙していく。それらが喉を通っていくと、少しだけホッとするような気持ちになった。
「まさか、林田さんが誘ってくれるとは思っていませんでしたよ。しかも、良い所を知っているんですね。地元にいても、ここは知らなかったですよ」
爽やかな顔つきの彼……狩浦さんは、特に緊張した様子もなさそうだった。いつものように髪を整え、身だしなみもしっかりしている。彼を呼び出したのは僕で、今いる喫茶店は僕のお気に入りの店の一つだ。もっとも、一番気に入っていた店は紗奈が言っていたように潰れてしまっていたが。あの店はよかった。ゆったりと寛げて、騒音もない。それに金額も安かった。当時の僕にとってはありがたいことだらけだった。
「ハハッ、まぁ……僕も昔から住んでいたからね。喫茶店とか好きだから、そういった所を手当り次第回って好みの店を探していたんだ」
「なるほど……自分はあまり喫茶店とか来ないんですけど、紗奈がよく来たがるんですよ。前もよく別の喫茶店に行っていたんですが……残念ながら、潰れてしまったんですよ」
彼の言葉に、少しだけ身体がビクリとなった。なんで、紗奈はその潰れた喫茶店に行ったんだろう。きっとその店は、僕のお気に入りの場所だったところだ。彼女もよく一緒に行っていた。彼女もあの場所が好きだったのか。それとも……なんて、そんなことがある訳が無い、か。
彼にバレないように小さくため息をついてから、顔を窓の外へと向けた。人の通りは少ない。都会ではないが、さほど田舎でもない。不便だと思うことは、あまりない。強いて言うなら今の仕事を続けるにはこの場所は適さない、といったところか。
「林田さんは、小説家になったんですよね? お話聞かせてもらえませんか。こんなところだと、最新作の本すらまともに書店に並びませんからね」
「……僕なんかの話でよければ、ね」
他愛のない世間話を混ぜながら、僕は外の世界に出てからの軌跡を話した。都会での生活は、中々に疲れる。外を出歩くだけで犯罪に巻き込まれそうで怖かった、なんて昔の話をしてみる。
それらの話を聞きながら、彼は相槌を打ち、時に笑いながら会話を弾ませた。優しげに微笑む彼に、ふと気がつくとモヤモヤとしたものが心の中に溜まっていた。
少しだけ視線をずらせば、偶然入ってきた女子高生達が彼の事を見て笑っていた。嘲るような笑いではない。きっと、格好いいとか、そんなことを話しているのだろう。羨ましいものだ、クソがっと心の中で毒づいた。
彼は知らない。目の前の男が決して誠実ではないことを。君の目の前で笑っている男は、心の中ではお前に不幸であれと願っているのだと。そして……そんな自分が、紗奈とは釣り合うわけがないのだと、笑っている彼を見て実感した。
「………」
何がいけなかったのだろうか。確かに僕は、圧倒的に彼に劣っている。容姿、家柄、身体能力。それらはどう足掻いても彼には勝てないものだ。
けど……彼女と、紗奈と過ごした時間は僕の方が何倍も多いはずだ。彼女も笑っていた。幸せな時を過ごしたはずだ。その時間は……彼の持っていたモノには勝てなかったということなのだろうか。神がいるとするならば、なんて残酷なのだろう。
恵まれている者には、更に多くの幸せを。恵まれぬ者には、更に多くの試練を。神は死んだ、とはニーチェの言葉だったか。今それを痛感したような気がする。もっとも、ニーチェの言った意味はまったく別のものだが。
「……紗奈とは、どう? 仲良くやれているかい?」
苦々しい顔を見せないように、僕は彼に聞いた。それに対し彼は、やはり爽やかに笑って答えてきた。
「えぇ、仲は良いですよ。とても……幸せです」
「……そうか」
珈琲と一緒に頼んだ焼きたてのパンを口に運んだ。何か食べなければ、腹の中から何か得体の知れないものが出てきそうだったから。腹の中に収まったパンは、その何かと混ざって余計に気分が悪くなった気がする。
「顔色が優れないですね。大丈夫ですか?」
覗き込むように見てきた彼に、僕は両手を軽く振って大丈夫だと答えた。病は気からというが、もはやプラシーボ効果みたいになってきている。何も無いはずなのに、何かあるような気がして、それが身体を害していた。
「お仕事大変なんですか?」
「いえ……確かに、大変ですけど……もうなんともありません」
書こうと思えば、いくらでも話は書ける。それらがハッピーエンドとなることはないだろうが。
「そうですか……安静にしていてくださいね。倒れたら紗奈も心配するでしょうし。時間があれば、病院に送っていけるんですが……」
彼はチラチラと時計を確認していた。もうじき空が暗くなってくる時間帯だ。何かこの後、重要な用事でもあるんだろう。例えば……紗奈と、デートとか。
そう考えただけで、少しだけ戻しそうになってしまった。これは重症だ。早いところどうにかしなくては。
「……すいません、そろそろ自分は帰りますね」
そう言って彼は立ち上がり、僕に向かって軽く礼をしてから喫茶店を出ていった。
「………」
まだ残っていた珈琲を飲み干し、少ししてから僕も席を立った。
あぁ、自分でもどうかしていると思う。けど、不安で仕方ないのだ。気になってどうしようもないのだ。せめて、終止符を打たねば。その終わりがどうであれ、僕はそれをしなくてはならないんだ。
喫茶店から出た僕は、彼の後ろ姿を見つけてバレないように後をつけていく。どうしてか、彼は賑やかな中央部ではなく、外れの方に向かおうとしていた。紗奈とそんな場所で待ち合わせでもしているのだろうか。
「……なんでこんな場所にまで」
小さく呟いた。とうとう彼は外れも外れ。近くに森のような場所しかない所まで歩いていった。先程から随分忙しなく周りの状況を確認しているような気がする。
なるべくバレないように、死角になりそうな場所に隠れながら、ゆっくりと後をつけていく。
彼は周りに特に注目している人がいないことを確認すると、早足でその場から移動していった。それも、森の方に。彼の後ろ姿が見えなくなってから、僕もその森の中へと入っていく。
ここまで来たのだ。流石に気になってくる。まさか紗奈がこんな場所にいるはずもないだろうが……。いや、そういったプレイを彼らが望んでいたとするならば、話は別だが。
……考えていて気持ち悪くなってきた。足元に気をつけながら音を立てないようにして奥へと進んでいく。
「………」
少しだけ奥に進んだ場所に、彼はいた。呆然と立ちながら、どこか遠くを見つめているようだった。近くには誰もいない。
幾許かすると、彼の周りの空気がさざめき立っている気がした。周りの木の葉が揺れ動き、草がカサカサと音を立てている。
「─────ッ」
息を飲んだ。それはまるで超常現象だ。彼の頭が溶けるようになくなっていき、その下から緑色の甲殻のような皮膚が浮き出てきたのだ。
なんだ、これは。夢でも見ているのか。
自分の足を抓ってみた。痛い。つまり、これは夢ではない。目の前で起きていることは……現実、なのか。
「………ふぅ」
彼の声ではない。やけにガラガラとした声が聞こえてきた。彼が少しだけ顔を横にずらす。その顔つきは……
「─────」
蛇だ。目付きが鋭く、やけにギョロギョロとしている。人の顔の造形ではなく、完全に蛇だった。鼻のような出っ張りもなく、突き出している部分に穴が空いているだけ。
よく見れば、顔だけではない。手も緑色の皮膚に変わっており、それはどう見ても人間ではなかった。
「─────」
声が出ない。足が竦む。漏れでる息がバレないように、両手で自分の口と鼻を抑えた。
「偉大なる父……我が身を……」
小さな声で、彼は何かを呟いた。すると、どうだろうか。みるみるうちに彼の身体が変化し、戻っていくではないか。そこにいたのは、先程自分と会話をしていた狩浦さん本人で、彼はまた周りを見回してから動き出した。
「─────ッ」
すぐさま隠れた。身体を低くし、バレない位置に移動して彼の視線から逃れる。間一髪、彼にはバレなかったようだ。目の前を一人の人間が歩いていき、やがてまた見えなくなる。
十数分が経ち、僕の身体はその場に崩れ落ちた。
なんだアレは。人なのか。いや、違う。人じゃない。バケモノだ。助けを呼ばなくては。いやでも、誰に。こんな話を信じてくれる人なんて、誰も……
「……紗奈……まさか……」
思い浮かんできたのは、幼馴染だ。彼女なら自分の言うことを信じてくれるかもしれない。しかし、そこまで考えて、紗奈が危ない状況にいるのではと考えついた。
「紗奈の奴、もしかしたら騙されてるんじゃ……」
あぁ、ダメだ。ダメだダメだダメだダメだ。助けなくちゃ。早く、紗奈を助けなくちゃ。
なんだっていい。誰だっていい。誰か、誰か力を貸してくれ。
暗くなる道を、僕は全力で走り抜けていく。頼れそうな人は……家にいる彼らしか、思いつかなかったんだ。
To be continued……