貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos- 作:柳野 守利
「流石に私達の村の調査をしてくれるとはいえ、個人情報を開示する訳には……」
女将さんは困ったように伝えてくる。湖から戻ってすぐに民宿に駆け込み、女将さんに頼み込んでみたが断られてしまった。流石に国家組織とはいえ、俺達は警察権限を持っている訳では無い。仕方が無いとはいえ、唯一の手掛かりをここでなくすのはあまりにも惜しい。
「部屋に何か残っていたりはしなかったんですか?」
先輩がここで引くわけにはいかない、といった様子で詰め寄るが、女将さんは何もなかったとのこと。一応、名前は教えて貰えた。
……名前がわかったところで、顔がわからなければどうにもならないのだが。
「……どうするべきだ。このまま振村を探すか。それとも、この村の現状をどうにかするか」
先輩のその言葉に、俺は頭を悩ました。あまりにも人手が足りない。あと何人か、せめて俺達以外に一人動ける人がいればどうにかなるかもしれない。だが、紫暮さんはダメだ。
流石にこの村に誰か一人を残すというのは危険すぎる。かといって、誰か一人で振村を探すのは困難極まる。
詰み。その二文字が頭をよぎった。手立てがない。何かないか。この状況を打破できる何か……
「……本部に連絡をして、応援を呼ぶのはどうでしょうか。何人か人が増えれば、どうにかなる可能性もあります」
「いや、応援はダメだ。俺達は人数が少ないから互いを監視して危険が及ばないようにしているが、人が増えればそれだけ被害者が増える。内部で敵が発生した場合、全体がどうなるのかは目に見えて明らかだ。ここは、俺達は現状打破に回り、本部は振村を探すという手分けの手段を取った方がいいのかもしれない」
……確かに。先輩のその発言には一理ある。三人という少ない単位だからこそ、俺達に被害は出ていないのだ。さて、本部に連絡を取って振村を探さなければならないのだが……名前だけではどうにもならないだろう。いくら国家組織とはいえ、名前だけで個人の特定をするのは厳しい。
「……氷兎、本部に連絡を頼む。詳細を聞かれるだろうが、事細かに伝えた方がいいかもしれない。隠しても、現状何もならないだろう」
「わかりました」
民宿から出て、俺は一人少しだけ離れて本部に電話をかけた。数コールもしない間に本部の連絡係の人が電話に出た。緊急事態だという旨を伝え、木原さんに代わってもらうように頼んだ。連絡係の人は、すんなりとその頼みを了承し、木原さんに回線を繋いでくれた。電話の向こうから、彼女特有の少しだけ冷めた声が聞こえてくる。
『木原だ。唯野には……山奥村での調査を頼んでいたな。何があった』
「現状についての説明と、ある人物の捜索をしてほしいという申し出です」
『……話してみろ』
木原さんにこの村で起きていることを事細かに説明した。その説明には、俺達が予想したことも含め、そうだった場合どうなるのかということも話した。人を殺して増殖している神話生物の名前を、仮に
『村で起きた出来事及び捜索願いに関しては了承しよう。君達はその場で誰も村から出ないように監視していたまえ。勿論、紫暮諜報員には何も伝えずにだ』
「……監視、ですか? 現状の解決ではなく?」
『そうだ』
……その先の言葉を、俺は空耳であったと聞き流してしまいたかった。俺は、忘れていた訳では無い。天在村で加藤さんが言っていたあの言葉。
───私達は正義の味方ではなく、『人間の味方』なの。
あの言葉は、しっかりと耳に残り……胸に焼きつけたはずだった。だが、その認識は全く持って甘かったのだということを思い知らされる。
『───これより、山奥村住民の"処理"を決行する』
処理。その言葉に目を見開き、危うく携帯を落としそうになってしまった。聞き間違えではないのか。いや、もしかしたらなにか別の意味なのかもしれない。悪い方に考えるのは俺の悪い癖だ。一抹の希望に縋るように、俺は木原さんに聞き返した。
「……あ、あの……処理、とは?」
『処理は処理だ。村人と紫暮を含めた全員を抹殺する』
「なっ……そ、そんな馬鹿なこと出来るわけがないでしょう!?」
すぐ近くで俺の会話の経緯を見ていた先輩が、俺の慌てふためく様子を見て少しだけ嫌な顔をした。俺の言葉に対し、木原さんはなんてことは無いとでも言いたげな感じで淡々と言葉を述べていく。
『お前はさっきから綺麗事ばかり考えていそうだがな、よく考えるんだ。本当にその神話生物……沼男だったか。その沼男が人間以外を喰らって増殖するという可能性は考慮しないのか?』
「っ……い、いや、でもそれはまだ予想の範疇で……」
『予想だろうがなんだろうが、最早そこまで予見できるほどに情報が現地で集まったんだ。なら、後するべき事は世の為人の為に沼男をここで完全に抹殺する。それが正解だ』
「何人いると思ってるんですか! 大人だけじゃない、子どもだっているんですよ!」
『話を聞く限り、感染源は子供らしいじゃないか。なら感染経路は両親、及び一緒に遊んだ子供だろうよ。ほら、もう誰も許容できない。綺麗事じゃ世界は回らない。致し方のない犠牲だ。コラテラルダメージ、というものだよ』
ただ冷酷に告げられていく、死刑宣告のようなその言葉に対し俺は何も決定的な反論ができない。下手な言葉ではあっさりと返されてしまう。何かないのか。せめて、誰でもいいから助けられるような状況を作れないか。
暑いはずなのに、冷や汗ばかりが流れる。背筋はまるで氷でも入れられたかのように冷たい。俺のこの会話で、人の生き死にが左右される。そう理解すると、最早恐怖という言葉では表せない感情が心の中で渦巻いていた。
「……沼男を見分ける方法なら、あるじゃないですか。ほら、自分達が受けた起源判別用の機械を使えば……」
『それこそ、何人いると思っている? それに、それをするということは本部にそいつらを招き入れるということだ。時間も、被害もデカすぎる。それと、もう沼男になった奴は判別できないだろう? お前達が判別できているのは、人間だった時に検査をしたからだ』
「な、ならせめてもう少し時間をください! なんとかして、沼男を見分ける方法を探し出してみせますから!」
『猶予がないということを理解しているのではなかったのか? それが田舎だからよかったものを、都会にソレが流出してみろ。世界は完全に崩壊する』
……ダメだ。どう言おうにも全て反論されてしまう。どうにもならない現状に、次第にイラつきが募り始めた。携帯を握る手に力が入る。少しだけ、ミシッと音が聞こえた。
「……ふざけないでくださいよ。そんな、人殺しとか、俺達に許容しろというんですか!?」
『許容も何も無い。それに、手を下すのはお前達ではなくこれから派遣する"処理班"だ。処理班がそちらに到着するまで、村人に悟られることなく、誰も外に出さず、監視をしていろ。これは、命令だ』
「待て、まだ話は……っ、クソがっ!!」
ブツリッと一方的に電話は切られてしまった。掛け直しても無駄だろう。話を聞く気すらない雰囲気だった。
……本部からここまで数時間。タイムリミットはそれだけだった。先輩と七草さんが、心配そうな顔で近づいてくる。
「……ダメだったか」
「むしろ、悪化ですよ……」
先程の会話の内容を、二人に話した。現状がどれだけ悪いものなのかを理解した先輩は、苦々しく顔を歪めて、どうすんだよこれ……と悔しそうに呟いた。
「……先輩、処理班ってなんなんですかね」
「処理班……聞いたことはある。後処理や口封じの為に派遣される特殊部隊だ。殺人慣れしてる連中ばかりだって噂だ」
「……冗談じゃない。本気でやるつもりなのか」
「私達、どうすればいいの? このままだと、皆死んじゃうんでしょ? そんなの、ダメだよ!」
「どうしようったって……あぁもうッ!!」
先輩は苛立ちのあまり頭を両手で掻きむしった。何かしなければならないという使命感と、どうにも出来ないという無力感が合わさって、最早どうしようもないのだとわかっていてもじっとしてはいられなかった。
「……何か、ないか。沼男を見分ける方法は……」
「……電気を流してみる、とか」
「原子レベルで同じ生命体だったなら、何もわからんだろ」
「それはあくまで俺達が沼男だと定義付けしたから発生しているものです。本来、奴らは完全に同じモノなのか判明しちゃいないんですよ」
「でもよ、記憶も、服も、持ち物も全部……丸っきり同じなんだ。身体の構造も……」
……身体の、構造。そういえば奴らはどうやって人を殺しているんだろう。子供が大人を殺すのは中々に大変だ。しかも年は幼い。俺がお婆さんの死体を見た時は……肉片が飛び散っているだけだったのだから。少なくともとてつもない重量の何かが物凄い勢いで叩きつけられなきゃ、あぁはならないだろう。
「……諦める、しかないのか?」
「そんな、見殺しなんて出来ませんよ!」
「俺だってしたくねぇよ! でも何も出来ねぇんだよ!」
「二人とも、喧嘩はやめて!!」
今にも取っ組みかかりそうなくらい、精神状態が不安定な俺と先輩の間に入ってきた七草さんが仲裁してくれた。彼女のその必死な顔つきにハッとなり、少しだけ落ち着いたが……だがダメだ。焦りは全然なくならない。
「クソッ……言いなりになるしかねぇのかよ……」
「諦めるんですか!?」
「諦めたくねぇよ。けどよ……もし、沼男がこの村から出ていったら……本当に、まずいことになる。手がつけられない事態になっちまうんだよ」
「けど……」
……あぁ、わかっている。先輩の言っていることが正しい事なんだって、理解している。けどそれを許容したくないのだ。それを許してしまったら……俺は、きっとどうにかなってしまう。助けられるかもしれなかった人を見捨てて、殺してしまうことを俺は心の奥でずっと悩み悔やみ続けることになるかもしれない。そんなのは……嫌だ。
「……一旦部屋に戻ろう。外で話してたら、熱中症になっちまう」
「………」
「悠長なことを言ってんのはわかるよ。でもよ、氷兎……俺も本当は諦めたくねぇんだ。それはわかってくれ」
「……すいません」
……先輩は幾分か大人だ。俺よりも、ずっと。きっと心のどこかで折り合いがついているに違いない。俺にはそんなことは出来そうもない。
民宿に戻り、部屋に戻ろうとすると女将さんに呼び止められた。
……この人も、何の罪もないのに殺されてしまうのか。そんな言葉が頭の中をよぎっていく。すぐにかぶりを振ってそんな馬鹿げた言葉をかき消した。
「何か用ですか?」
「いえ、先程紫暮さんが慌てた様子で出ていってしまったので、何かあったのかと……。急に裏口を使わせてくれと言って飛び出していったんです」
「紫暮さんが……?」
「……あっ……まさか……」
俺は何もわからないが、先輩は何か心当たりがあるみたいだった。女将さんに、自分達の方で紫暮さんを探すと伝えると、先輩はそのまま部屋には戻らずにすぐさま外に出ていった。俺と七草さんも後に続いて外に出る。
「先輩、何かあったんですか?」
「紫暮さんだよ!! あの人の起源、視覚や聴覚を研ぎ澄ませる『感覚強化』の能力なんだ!!」
「……まさか、聞かれた?」
「かもしれん。急いで追うぞ! 本部に連絡を入れて紫暮さんの現在位置を送ってもらえ! 裏口から出たなら、きっと逃れるために森の中に入ったに違いない。そっちに向かうぞ!」
「っ……はい!」
七草さんも少しだけあたふたしながら、俺達のあとに続いた。本部に連絡を入れて紫暮さんのいる場所を特定してもらう。送られてきた場所をGPSを使って特定し、そこに向かって走っていく。先輩の読み通り、その場所は民宿のすぐ裏手にあった森の奥の方だった。紫暮さんだと思われる信号は、だんだん奥の方へと進んでいっていた。
「ねぇ氷兎君……紫暮さん、どうするの?」
「どうするのって、それは……」
……どうすればいいのだろうか。俺にはもう何も出来ないような気すらしてきた。七草さんの言葉に答えられず、ただ俺は心の中で祈った。追いついたらどうにかならないものか、と。
葉っぱが大量に落ちた森林地帯を走り抜ける。そう時間も経たないうちに、おそらく紫暮さんのものであろう痕跡が残されていた。そのままスピードを緩めずに追いかけていく。
やがて、彼の後ろ姿を捉えることに成功した。
……成功、してしまった。
「な、なんで僕の位置がッ……」
向こうも俺達に気がついたようだった。それでも必死の形相でその場から逃げようと走るが、葉っぱに隠された木の根に足を躓かせてしまい、そのまま勢いよく転んでしまった。その隙に、俺達は紫暮さんのすぐ側まで近づいていく。
「く、来るなぁッ!!」
ヒュウッと風を切る音が聞こえた。見ると、小さな小太刀を片手に持って振り回していた。無闇に近づけば、その刃が肉を断ち怪我をしてしまうだろう。少しだけ距離をとって、紫暮さんに話しかけようとするのだが……紫暮さんは、焦点の定まらない瞳のままこちらを見て震えている口を開いた。
「お、お前ら僕を殺す気なんだろ!! 知ってるんだよ、聞こえんだよ!! 可笑しいじゃないか!! これの、どこがバケモノだって言うんだよ!!」
自分の身体が何でもないのだと証明するように、彼は身体のあちこちを見せるように動いた。けれど、少しでも近づこうとするとすぐに小太刀の切っ先を向けてきた。
「お前ら皆、頭おかしいんだよ!! そうだ、僕は正常だ!! 普通だ!! どこも可笑しくなんてない!! どっからどう見たって、人間そのものだろぉぉッ!!」
……ボコリッという音が聞こえそうなくらい、紫暮さんの左腕が膨れ上がった。筋肉ではない。ただ質量が一部分一気に肥大化したのだ。
流石に目を疑った。少しだけ後ずさろうとしたが、すぐ後ろに七草さんがいることを思い出してなんとか踏みとどまる。
「違う、違う違う、違う違う違う違うぅぅぅぅぁぁぁぁッ!!!」
紫暮さんの両眼から、涙がまるで滝のように流れていく。どんどん彼の身体は変化していった。細めの体型であった彼の身体はもはや……ところどころがボコボコと盛り上がった均等の取れていない不釣り合いな身体へと変貌した。身の丈は大きくなり、小太刀を持つ手は普通の大きさだが、もう片方の手はまるで建物を壊すための鉄球みたいに見える。
彼は吠えた。自分の存在を主張した。そして泣いた。
「僕は、死にたくない……死にたくないんだよォォォォォッ!!!」
その太くなった腕を振るう。木にその腕が衝突すると、亀裂が入っていきそのまま倒れていった。
隣で立っている先輩が、とても苦しそうな声で俺と七草さんに指示を出してくる。
「構えろ……これは、もう……紫暮さんじゃない……」
……背中に背負った槍を、ゆっくりと構える。掴んでいる手が震える。足はうまく動くかわからないくらい固まっている。目の前の存在を、俺は……どうしても、人としか認識出来なかった。例えそれが、人からかけ離れてしまっていたとしても。こうして対峙するのは、とてもじゃないが……耐えられるものではなかった。
彼は吠えた。今度はもっと大きく。出せる限りの大声で。自分の存在を、疑いたくないのだと言わんばかりに声を張り上げた。
……それは、開戦の合図となった。
「僕は、本物だぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
彼の心からの叫びが、森林に響いた。
To be continued……