貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos-   作:柳野 守利

131 / 136
前回のあらすじ

天井を見上げると、蠢く赤子がこちらを見ていた。

できそこないが出現した (ruina風)


第131話 撤退戦

 天井に蠢く集合体。それだけで人によっては腰を抜かしてしまうだろう。まして、それが人の赤ん坊のような顔をしているとなれば、より一層気味が悪い。これは正しく、あの人蜘蛛の子供だ。

 

 鈴華と唯野のあげた小さな悲鳴に、その蜘蛛たちは一斉に奇声を上げた。シワシワで、目もまともに開いていないような顔からは想像つかないような、人の声ではない絶叫にも似た声。赤子が知らせるサイン。親を呼んでいるのは間違いなかった。

 

 集まって固まっていた蜘蛛は奇声と共に動き始める。四方八方、蜘蛛の子を散らすという言葉の意味が目に見えて理解できる様だ。多足の拳程の小さな生物がぐちゃぐちゃと蠢く様子は、彼らに生理的な嫌悪感と鳥肌を起こさせる。足は自然に来た道を戻り始めていた。

 

「おい、やべぇって……こんな声出されたらバレるだろ……」

 

「広場ならともかく、この穴の中で戦うなんて無茶ですよ……!」

 

「鈴華、焼夷手榴弾で奴らを焼き殺せ」

 

「い、いや無理だ……だって、赤ん坊なんだぜ!?」

 

「だが化物だ。顔が人間に近かろうと、奴らはもはや人ではない」

 

 いくら人の形を生していないとはいえ、殺すのに躊躇いが生まれる。翔平も鈴華も、それらに対して攻撃をしようとは思えなかった。いや……その一線を超えるのに戸惑っているとも言える。奴らは天井に集まっているだけで、こちらに対して危害を加えたり、降って襲いかかってくることはない。ただ目の前の未知、恐怖に対して泣き叫んでいるだけだ。

 

 それはもう人の赤子と変わらない。それを撃ち殺す、ないし焼き殺すというのは人の倫理に逆らうようで、やろうとは思えなかった。

 

「西条、一旦引こう! 先に進んでも囲まれるだけだし、今引けば一本道の通路を逃げるだけで済むよ!」

 

「……引くには、少々遅かったかもしれんな」

 

「えっ?」

 

 薊の言葉に、彼らは揃って神経を集中させる。耳に届いてくる絶叫以外の音。壁を伝う、カタカタという音。そして他国の言語。入り交じるその声を翻訳するのは不可能だ。ただ……おそらく、我が子を思う言葉なのではないだろうか。あの大蜘蛛、アトラク=ナクアの眷属になってしまった彼女らに、我が子を思うような心が残っているのかは定かではないが。

 

 少しずつ、彼らはその場から後退していく。その姿を隠すよりも先に……彼女たちは姿を現した。一糸纏わぬ姿で、しかし下半身は蜘蛛。口からは尖った牙のようなものが見え隠れしている。目に白目との区別はなく、眼球全てが紅く染まっていた。

 

 そんな彼女らが穴の出口を塞ぐように、何人、いや何匹と這い登ってくる。天井に張り付くように、壁を這うように、地面を歩くように、彼らのいる巨大な穴の通路を埋め尽くさんとしていた。

 

 変異した姿は、一般人よりも大きく見える。その下半身のせいだろう。力比べをしたら負けると思わせるような、威圧感を感じさせるものだ。例えその上半身が日頃見慣れないような、情欲をそそる姿であっても……死と恐怖の前に、それらは思考の隅からも追いやられてしまう。

 

「杀死入侵者」

 

「Cibo per quella persona」

 

「Давайте поймать это живым」

 

 金髪、褐色、色白。様々な人種の成れの果て。それらは元同胞であっても、殺意を剥き出しにしていた。背中を向けて逃げ出しても、おそらく速度的には向こうの方が上だろう。地面を走るだけの彼らより、壁を走れる彼女らの方が地形的に有利だ。

 

「侵入者を殺すか、生け捕りにしてエサにするつもりらしいな」

 

「エ、エサってどっちの!? 赤ん坊、それともあのでっかい奴!?」

 

「どっちも変わらんでしょうが! あの化蜘蛛が興味を持つ前に、とっとと逃げましょうよ!」

 

 後退しながら今後のことを相談するが、彼女たちはそれを許容してくれたりはしない。牙の見える口を大きく開き、切る事もなく伸びた爪で引き裂こうと、壁にいた一匹が飛びかかってきた。

 

 それが着地するよりも速く、西条が前に出て刀を振り抜く。魔力を込めて伸びた刀身は、彼女の上半身と下半身を分けるように切断した。緑色の体液が撒き散らされ、上半身が彼らの近くに転がってくる。

 

「──────ッ!!」

 

 上半身の目はまだ開いており、言葉にならない奇声と共に、伸ばした腕で斬りつけようとしてくる。元人間であったとは思えない生命力だった。変質して黒くなった爪は、皮膚を容易く引き裂くだろう。当たらなかった爪が固い壁に鋭利な傷跡を残していたのが、より一層強くそう思わせる。

 

 一匹殺された事で、残りの蜘蛛たちは殺意を増した。穴の出口からはまだわらわらと集まってきている。

 

「鈴華、スタンを投げろ! でないと逃げきれん!」

 

「この洞窟の中で爆発物投げるのはマジィ気がするんだけどよ、平気なのか!? 俺たち地球防衛軍のEDFじゃねぇんだぞ!?」

 

「スタンなら平気だ、耳を塞ぐのを忘れるなよ!」

 

 翔平がスタングレネードを取り出そうとするが、それよりも早く彼女たちは襲いかかってくる。天井から攻撃してこようとする蜘蛛を、鈴華がデザートイーグルで撃ち抜く。身体を撃っても止まらない彼女に、仕方なく脳天を撃ち抜くことで殺した。

 

 天井から落ちてくる蜘蛛を、今度は氷兎が槍で『ヨグ=ソトースの拳』を使用して吹き飛ばす。魔術を込めた吹き飛ばしに、巻き添えを喰らって何匹かは後方に飛んでいった。

 

 壁から近づいてくる蜘蛛は薊と唯野が前に出て、唯野が彼女らの足を払って転んでる間に、薊が首を斬り飛ばす。彼女たちの一撃が致命になりかねないので、彼らは慎重に攻撃と防御を重ねていく。それでも数が多い方が有利だ。徐々に押されていく彼らは、前衛陣が撤退する事が出来なくなっていた。

 

 翔平がスタングレネードを投げようにも、前衛が一度引かないといけない。しかしその隙を作ることができない。彼女らは床壁天井のどこからでも襲いかかってくるのだから。そして死体に見向きもしない。仲間意識はないのだろう。

 

(この距離でスタンは気絶する可能性が高い。かといってあの西条さん二人でも、数が多すぎる。あまり長引けばアトラク=ナクアの気を引く可能性も高い。そうなったら間違いなく死ぬ)

 

 氷兎は殺すのではなく吹き飛ばすことで数を減らしながら、現状について思考する。最悪の状況というのはあの神性がここまでやってくることに他ならない。

 

 魔導書の知識がいくらか流れ込んできているとはいえ、そこに弱点であったり、攻撃手段がわかったりするわけではない。そもそも無差別に頭の中に入り込んでくるせいで、戦闘中なのに意識が逸れる。勘弁して欲しい、と舌打ちをしてまた蜘蛛を弾き飛ばした。

 

 劣勢なのは変わらない。どうするべきか。男性陣がそう悩み始めた時……前線に出ていた唯野が後方に下がり始める。

 

「氷兎、頼むよ!」

 

「了解!」

 

 鈴華がカバンから瓶を取り出して、彼らにぶつけないように投げつける。地面に落ちた衝撃で破裂し、中から液体が飛び散った。

 

 それを確認した唯野が、ポケットからライターを取り出す。そして火をつけると、腕を前に伸ばしきって高らかに叫んだ。

 

「燃えろっ!!」

 

 小さな炎が揺らめく。それは次第に大きくなり、手元を離れて空中に漂い始めた。突然現れた火炎に、彼女たちは行動を止める。その隙に前線のメンバーは後方にまで戻ることができた。

 

 膨れ上がった火炎は、そのまま火炎流となり目の前の壁を燃やしていく。先程の液体に引火して、壁、更には天井にまで火の粉は上がっていった。

 

「よし来た、投げるぞ!」

 

 千載一遇のチャンスとばかりに、翔平がスタングレネードを投擲する。各々が閃光と爆音に対策を取り、その場から全力で逃げ出した。

 

 緑色に発行する壁は少なくなり、やがて土壁が増えてくる。その頃になると、後方から凄まじい怒声が聞こえてきた。どうやら頭にきた彼女たちが追いかけてきているらしい。追いつかれてしまうのも時間の問題だろう。

 

「おいおい、ちょっとしか時間稼ぎにならねぇな……てか、さっきの氷兎ちゃんのアレはなんだ? 魔術か?」

 

「『魔術師』の起源を借りただけですよ。そっちの自分もできるでしょう?」

 

「魔術師って……加藤さんの起源か? 俺にはそんな芸当できねぇぞ」

 

「えっ、できないの!? それでよくここまで生きてこられたね……」

 

 どうやらこちら側の唯野には、氷兎では使えない能力があるらしい。聞く限りでは他人の力の一部を行使することができるようだが。オリジナルに比べれば見劣りするものの、様々な能力を扱えるらしい。なんて羨ましいものを、と氷兎は心の中で呟いた。

 

 しかし悠長に話していられるのもここまでだ。彼らが後ろを少し振り向くと、蜘蛛の先頭集団が見え始めている。驚異的なスピードだ。出口に辿り着けるかどうか、微妙な距離だろう。

 

「そもそも、このまま逃げ切ったとして、どうすんだ!? あの穴から出たところで、状況は大して変わらねぇと思うんだけど!」

 

「こんな上からも襲いかかられるような状況に比べたら遥かにマシだ。囲まれる可能性もあるが、外に出た方が戦いやすいだろう」

 

 ともかく外に出なければ、と彼らは言う。しかし、出たところで状況が優勢になるかといえば、そうではない。

 

 あの穴を閉じることができれば……その方法があるのだろうか。走りながら氷兎は考え続け、あの穴がどういったものだったのかを思い返す。空間を無理やり左向きに捻って穴を開けたような、そんなものだった。

 

 空間を捻じ曲げることくらいなら、おそらく『ヨグ=ソトースの拳』でできるだろう。見た限りそこまで出来のいい穴ではない。

 

 ただ問題は、穴を閉じるのにどの方向に捻じ曲げるのか。左向きに更に捻じることで穴を塞ぐのか、それとも逆方向に捻じることで空間を元に戻せるのか。

 

「……もしかしたら、穴を塞げるかもしれません」

 

「マジか!?」

 

「ですが、多分魔術の行使じゃなく詠唱が必要です。一度外に出て、止まった状態でやらなければいけない。そしてその間……中で、食い止めてもらう必要があります。それで魔術の詠唱が完了したと同時に、外に出てきてもらうしか……」

 

「できるんだな?」

 

「……おそらく」

 

「ならやるぞ。悩む暇も惜しい。もう少し進んだら、もう一度火炎を撒いて、穴の外まで脱出だ。食い止めるなんて無謀なことはするな。外からありったけの鉛玉と手榴弾を投げ込んでやれ」

 

 西条の作戦に頷いて、彼らの走る速さを更に上げる。途中で唯野と鈴華の二人でまた炎をばら撒いたが……彼女たちは身体が多少燃えたところでは勢いを落とすことはなかった。それ程までに、捕まえてエサにしたいらしい。

 

 想像していたよりも嫌な事態に、翔平は最後のスタングレネードを投擲する。それでも少ししか彼女らの足を止めることはできない。けれども、その少しの時間が彼らにとっては状況を左右するものだった。

 

 見え始めた空間の穴。大きさ的に蜘蛛一匹程度しか通り抜けられないだろう。全員で脱出し、出てきた場合に備えて西条二人で最前線に。唯野と翔平二人の計三人は銃と手榴弾を構える。そして一番後方に、氷兎が陣取り魔術の詠唱を始めた。

 

「来たぞ!」

 

 薊の声が響く。暗がりの奥から全速力で向かってくる蜘蛛。それに向けて、後方三人は一斉に射撃を開始した。鈴華が穴の入口付近に手榴弾を投擲し、その手榴弾を翔平が弾丸で弾くことで更に奥へと運ぶ。蜘蛛の集団の中心付近で炸裂し、悲鳴が穴の奥から響いた。

 

 それでも向かってくるのを辞めることはない。そして、まさかの仲間の死体を盾にすることで弾丸を防ぎ、外へ出てこようとする者もいた。死体ごと西条が斬り捨てることで難を逃れたが、そう長くもちこたえるのは難しい。なにしろ生命力が段違いだ。

 

「『ヨグ=ソトースの拳』ッ!!」

 

 時間にして三十秒程度。氷兎の詠唱が完了した。右手を前に向け、穴を掴むように手で空間を握りしめる。そして……腕を左向きに捻じ曲げた。

 

 腕に連動して、左向きに空間の穴が捻れる。まるで中心の一点に向かうように回りながら閉じていく。今まさに閉じようとしていた穴から……一匹の蜘蛛が飛び出そうとした。上半身を穴から出したものの、下半身が大きすぎるせいで通り抜けられない。

 

「捻れて……戻れッ!」

 

 魔術を止めることはない。何かに突っかかるように腕は回ろうとしなかったが……力に無理を言わせる形で、無理やり腕を左に回しきった。

 

 そして……裂ける音がした。次いで、地面に重いものが落ちる音。上半身だけの蜘蛛が……いや、人間の上半身が、地面に赤色の血を流しながら転がっていた。空間の穴は、中心に向けて回るように閉じきっている。それを今度は右向きに捻じることで、空間を元に戻した。そこに空いていたはずの穴は、元から存在しなかったように元通りになっている。

 

「……この女は」

 

 地面に転がっている死体に西条が近づく。赤い血の色。上半身にはまだ服がある。顔つきも、人間らしい。いやそもそも、その顔は日本人のもの。しかもそれを……見たことがある。

 

「……救えないどころか……殺して、しまいましたか……」

 

 その女性は、氷兎たちが監視していた風俗嬢だった。既に事切れていて、目からは涙が流れている。

 

 自分たちを殺しに来たのか。それとも、外に出るために走ってきたのか。その真相は定かではない。あまりにも後味が悪く、氷兎は自分の手で殺してしまった彼女の開ききった瞼を閉じた。

 

「……救われただろう。化物に堕ちるよりは、な。そう思っておけ」

 

「………」

 

 西条の言葉に、氷兎は何も返さない。彼女を捻じきった右手を閉じては開くことを数度繰り返し……彼女に黙祷を捧げて、心の中で謝罪した。

 

 穴の中でもっと多くの人を、蜘蛛を殺したというのに、目の前の彼女だけに祈りと謝罪を捧げるべきなのか。殺しにかかってきた連中に、祈りは必要ないのか。

 

 道徳観や倫理が、少しづつ薄れているような気がして、悪寒を覚えていた。

 

 

 

 

To be continued……




恋愛ホラー小説を書き始めたので、良かったら読んでもらえると嬉しいです。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。