貴方が隣にいる世界 -Cthulhu Mythos-   作:柳野 守利

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序章 失う代わりに手に入れる
第1話 日常


 力を手に入れるには、何かを失わなければならない。それは当然のことだろう。無償で手に入る力なんてものは、高が知れている。

 

 

 それでも、力を望むというのなら……誰かを救いたいと思うのなら、声を上げろ。心の内にある渇望を叫べ。理性を超え、内にある本能を呼び覚ませ。

 

 

 そうすれば君は、力を得るに値するだろう。

 

 

 ……けれども、君は一体何を捨てたのだろうね。

 

 

 

─────────────────────

 

 

 

 

 21世紀、東京。技術革新によって進歩していた都市の風景は、今まさに未知の巨大な化物に破壊されようとしていた。辺りでは火災によって煙が立ち上り、逃げようとする人々の悲鳴が響く。ビルよりも大きな、化物。それが腕を振り抜くと、建物は倒壊し、構造体が辺りに飛び散っていく。

 

 あぁ、なんて酷い夢だ。そう思わずにはいられない。実際そこまで怖くないのも、これが夢だとわかっているからだ。現実で起きたら、なんて考えたくもない。

 

 夢の中の自分は、地面に這いつくばったまま動かなかった。動かそうとしても、力が抜けて伏せてしまう。そんなことを繰り返していると、すぐ右隣から苦痛の声が聞こえてくる。自分ではない、聞いたこともない誰かの声だ。

 

「うっ……くっ、そ……あんだよ、あれ……」

 

 首を隣に向ける。俺と同じように立ち上がろうとしている男の人がいた。けれど、顔が真っ黒でどんな人なのか分からない。

 

 彼は何とか身体を動かし、這うように近づいてくる。黒色のローブのような服が、汚れや傷でボロボロになっていて、血が滲んでいた。

 

「おい、氷兎(ひょうと)……生きてる、よな……?」

 

 大丈夫だ。そう言い返そうにも、言葉が出なかった。仕方なく、彼の腕を掴むことで、生きていると伝える。顔はわからなくても、安堵した様子が見て取れた。そして今度は左の方を向いて「良かった、お前も……生きてたか」と言葉をもらす。反対側にも、誰かがいるらしい。この人とは違って、鋭さを感じる声が聞こえてきた。

 

 その人も同じように、顔は塗りつぶされている。ただ、眼鏡をかけていることはわかった。確か最近テレビでやってる……様々な便利機能を搭載した眼鏡……EyePhone(アイフォン)だったか。お金持ちしか持たない便利な携帯だ。痛む身体を抑えている彼は、そんな富裕層の人には見えないが。

 

「生きてはいるが……全身、痛みでどうにかなりそうだ……」

 

「我慢してでも、なんとかここから逃げねぇと……」

 

「逃げる……? いいや……無理だ。どの道、勝たねば死ぬ。こんな身体で、核の範囲外まで逃げられると思うのか……?」

 

「勝つって……無理に決まってんだろ! あんな、化物なんかに……俺たちみてぇな人間が、勝てるわけねぇだろ!! 他の連中だってそうだ!! 俺たちがここで命張って守ってやる価値なんて、あるわけねぇだろ!!」

 

 泣き出しそうな声で、彼は怒鳴った。あまりにも理不尽で、勝ち目のない化物から、なんとか逃げるべきだと言う。

 

 彼の言っていることは、きっと正しい。人間が勝てるような相手ではない。けれども、また別の男は……勝たなければならない、と言う。苦痛の声を漏らしながら、納刀された刀を杖代わりにして立ち上がって化物を睨みつける。そんな無謀なことをして、どうしようと言うのか。

 

 あぁ……まったく、酷い夢だ。早く覚めてくれ。いつものように、魔王を倒す勇者の冒険譚のような夢を見させてくれ。才能もない、何にもなれない自分が、英雄(ヒーロー)になる夢を見させてくれ。

 

 心の中で何度も懇願するが、この夢が覚めることはない。

 

 俺はいつになったら、英雄(ヒーロー)のようになれるのだろうか。せめて夢の中でくらい、そのような人間でいさせてくれよ。

 

「おい……やべえって……アイツ、俺たちのこと気づきやがった……」

 

「クソッ……満足に、歩くことすらできんか……」

 

「氷兎、立て! 急いで逃げねぇと、このままじゃ……」

 

 焦る声。怒りの孕んだ声。二人は、俺の腕を肩に回してなんとか逃げようとする。引きずられるように動きながらも、視線は化物から逸れない。

 

 巨大な……人のような化物だ。ソレの顔の部分もまた、真っ黒に塗り潰されている。けれども、俺たちのことを見ているのだということはわかった。

 

「──────────ッ!!」

 

 金切り声のような、聞くに耐えない声が空気を震わせる。化物の巨体から放たれた声は、空気を介して身体すらも震わせた。そして次に化物は……倒壊したビルの一部をおもむろに拾い上げると、それをこちら目掛けて投げつけてきた。

 

 人の何倍もの大きさの破片。それが頭上にまで飛んできている。逃げられない。あと数秒もしない内に、潰れて死ぬだろう。

 

 けれど、その瞬間はやってこなかった。時間が止まったように、目に映る世界の何もかもが停止していた。俺の身体を引きずる二人も、破片も、化物も。全て動かなくなっていた。あれ程うるさかった周りの音も、完全に無音になる。

 

 そんな動きひとつない無音の世界に、誰のものとも形容し難い声が響く。

 

「……やぁ。なかなか、酷い有様だね」

 

 まるで旧友にでもあったかのような、軽々しさ。どこからともなく、クスクスと。囁くような笑い声が聞こえてくる。

 

「俺たちみてぇな人間が、勝てるわけないだろ……か。まるで、人間じゃなければ勝てるとでも言いたげだね」

 

 しわがれた老女のような声。透き通るような女性の声。幼い子供の声。そのどれもが声として聞こえてくる。

 

 その声の主であろう人物は、いつの間にか視線の先に存在していた。あたかも、元からそこにいたように。

 

 ひたすらに黒い、誰か。身体の起伏と、地面スレスレまで伸びた髪の毛のおかげで、女性なのだろうと判断できる程度。顔は、穴でも空いているのかと思えるような、漆黒の貌。そこに手を伸ばせば、その顔の穴の奥へと進んでいってしまいそうな気がしてくる。その空虚な貌には、確かに目や鼻の輪郭のようなものがあった。けれども、それらが上手く認識できない。人の顔として見れない。

 

 正直に言って、怖いという感想しか思いつかなかった。見ているだけで動悸が早くなって、息苦しさを覚える。ソレは恐怖を煽るようにゆっくりと近づいてきた。風もないのにユラユラと揺れ動く髪の毛が、どうにも俺を挑発しているように思える。負の感情しか抱かない、気味の悪い存在だった。

 

「あと一年あるかないか。それが君に残された時間だ。人間らしく足掻くか……それとも獣に堕ちるのか。どちらにしても、私を愉しませてくれなければ、そこで君は終わるのだと記憶しておいてほしい」

 

 空洞のような顔に、薄らと紅い三日月が浮かび上がる。笑っている。いや、嘲笑している。見下して、蔑んで、嘲笑(わら)っているのだ。

 

 近寄りたくない。けれどソレは目の前まで歩み寄ってくると、手を伸ばして顔を包み込んでくる。目に映るのは、空虚な空洞。見ていると吸い込まれそうだ。それに、さっきよりも息苦しさを感じる。

 

 どうでもいいから……早く離して欲しい。そう思わずにはいられなかった。そんな俺の想いを知っているのか、ここぞとばかりに頬を撫で、顔を近づけてくる。ダメだ、頭痛までしてきた。これ以上コレと関わり合いたくない。

 

「くっ、ふふっ……そんなに怯えることはないだろう。私は君だ。けれども、君は私ではない。普段から抑圧している本能を、君に思い出させてあげようとしているだけさ」

 

「ッ……」

 

 必死の思いで腕を振り払う。そのままソレを見ながら、後ろにゆっくりと後退していく。停止した世界に、自分の足が擦れる音と、ソレの歩み寄る硬い音が響いている。なんとかして逃げたい。逃げなくてはならない。誰か助けてくれ。そんな願いが通じたのか……いつもの夢が覚める合図が聞こえてきた。

 

 

───くん。

 

 

 聞きなれた声。安心すらも覚える幼馴染の声だ。それに反応して、少しづつ自分の身体の感覚のようなものが薄れていくのがわかる。

 

 

───ひーくん。起きて。

 

 

 彼女の声を聞きながら、身体は地面をすり抜けて真っ白な空間へと落ちていく。徐々に消えゆく意識の中で……アレはずっと、俺のことを見て嘲笑(わら)っていた。

 

 

 

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

 

 

 

 何度も耳元で繰り返される声に、ようやく現実に引き戻された。机に突っ伏して寝ていたせいで、背中あたりがポキポキと音をたてる。その様子をいつものように、彼女は笑って見ていた。

 

「部活終わったよ。帰ろう?」

 

「……あぁ」

 

 短く返事をして、再度身体を伸ばす。視界に映っている彼女の貧相な身体を見ていると、同じように反らしても起伏が目立たないんだろうなぁと思えてしまう。つくづく昔から成長しない。

 

「ひーくん、人の胸見て哀れむような目をするのやめてくれない?」

 

「いや別に胸のことなんて考えてないし……初期設定弄れないかなって」

 

「キャラメイクからやり直せって言いたいの?」

 

「そこまでは……いや俺はやり直したいけど。主に名前」

 

「それは成人するまでの辛抱でしょ。あとちょっとだよ」

 

 まだ十七歳なんだよなぁ……。少なくともあと三年は必要だ。こんなキラキラネームまがいの名前、どうしてつけたのか。

 

 親への愚痴をこぼしながら、机の横に引っ掛けていたリュックを手に取って背負う。彼女の手を繋いで教室から出るところで、振り返ってもう一度教室を見る。誰もいないせいで、寂しさをも感じさせる閑散さだ。夏で日が伸びているとはいえ、菜沙(なずな)の部活が終わるまで待ってるのは少しばかり退屈に思う。

 

「そういえばさ、今日はどんな夢見てたの?」

 

 帰り道でいつものように彼女は尋ねてきた。どんな夢なのか答えようとしたけど……どうにも思い出せない。無理に思い出そうとすると、背筋を誰かになぞられたような、気味の悪い感覚があった。思わず身震いしてしまい、菜沙が不安げに見てくる。

 

「どうしたの?」

 

「いや……なんでもない。どうも思い出せないけど、どうせいつものだよ。俺ヒーロー。悪役倒す。お姫様助けて終わりってね」

 

 いつもいつも、そんな夢ばかりだ。誰かに賞賛され、代わりのいない唯一の自分でいられる。そして……いつも彼女の声で起きる。その度に、これが現実なら良かったのにと思ってしまう。

 

 思い返せばいつだって、俺は周りから劣っていた。好きだったバレーでさえ、中学の奴らには敵わない。高校では帰宅部になったと伝えた時には怒られたけど……俺は惨めな思いはもうごめんだ。絶対に。

 

「私もね、今日は夢見たんだよ」

 

「へぇ、どんな?」

 

「ひーくんと一緒にいる夢」

 

「……それは、つまらないな」

 

 握った手を強く握り返しながら、彼女は嬉しそうに言う。けれど、そんなのいつもと同じだ。今まで通り繰り返してきた日々と、全く同じ。手を繋いで歩いて、俺の家に帰り、一緒に飯を作って風呂の時間に帰る。夜寝る前には、向かいの窓から顔を出して、おやすみと言って眠る。習慣化された、つまらない日々だ。

 

「そうかな。私は素敵だと思うよ」

 

「夢ってのは現実との乖離こそが至高だと思うけどね。空を飛びたい。魔法を使いたい。そんな、現実離れした理想の世界だ。夢の中まで現実だなんて、つまらなすぎるよ」

 

 夢というのは不思議なもので、起きて少しすると忘れてしまうことが多い。夢は人の記憶の奥底深くにあるものを映し出すこともあったり、記憶の整理であったりと様々だ。だが、それは果たして夢と断言出来るものであろうか。

 

 例えば、だ。もし、俺が世界を救っていて、世界をあるべき形に戻したとしよう。その時、俺の記憶や周りの記憶も全て消え去って代わりのものが植え付けられたとするならば、それに疑問は抱かないだろう。つまり、俺は世界を救った可能性すらあるわけだ。昔の荘子って人も胡蝶の夢でそんなこと言ってたんだから、俺の理論は認められるべき。

 

「ひーくんってそうやって考えるの好きだよね」

 

「お前にはわからんよ。才能のない奴の気持ちなんてな。夢見ることしか出来ないんだよ。この前書いてた絵だって、入選してたろ? 俺にはそんな自慢できるようなもの、ないからな」

 

「そんなに卑下することないと思うよ。ひーくんには、ひーくんにしか出来ないこともきっとあるんだから」

 

 彼女は笑って俺を慰めてくる。別に傷ついていた訳では無いが。あぁ、それでも俺はずっと考え続けているのだ。夢が現実であればいいのに、と。

 

「例えば、同じ夢を見ている人がいたとするなら、それは証明にならないのかな」

 

「大勢の人が覚えていたら、証明になるのかもしれないね」

 

 こうやって俺の話にちゃんと答えてくれる彼女には感謝している。普通こんなアホみたいな話に付き合ってくれる人はそうそういないだろう。

 

 夢が夢であると証明できないのならば、現実を現実と証明できるものもない。もしかしたら、科学がよりいっそう進んでいて、俺達は過去の出来事を体験できたり、誰かの記憶の中に入り込んだりしているのかもしれない。

 

 現実を否定できるのならば……俺が見ていた夢というのは、まさしく俺にとって現実となるのだろう。残念ながら、今のところその証明はできないが。

 

「悪役を倒した証明ができたのなら、夢が現実だったと証明出来るのに」

 

「けど、それは証明できないし、私は貴方の隣にいる……でしょ?」

 

「となると、お前は俺にとって現実である証明にでもなるのかね」

 

 そう言ったら彼女はまた顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。昔から変わらないその仕草に、少しだけ胸が軽くなったような気がする。

 

「そ、そういうこと言うの恥ずかしくないの……?」

 

「逆にお前、今のこの状況恥ずかしくないの? もう慣れたし、周りの連中も何も言わなくなったけどさ。幼稚園の頃から手繋いで一緒にいるだろ。普通、こう……幼馴染とはいえ、なんか違くない?」

 

「恥ずかしくは……ない、かな。うん。慣れた」

 

「慣れて欲しくなかったな……。俺に彼女ができないの、多分お前のせいだろ」

 

「私だってできないもん」

 

 できない、とか言ってるけど……何度男を振ってきたのかわかんないんだよなぁ。髪型ショート、ちょっとキツめの目付き、眼鏡。器量よし、顔よし。俺といる時の笑顔をもう少し周りに振り巻けば、もっとモテるだろうに。惜しむらくは、胸の大きさか。芸術センスと引き換えに、胸を失ったらしい。

 

 彼女のことをからかいながら河川敷の辺りまで来ると……急に菜沙が立ち止まった。何かあったのかと尋ねてみれば、彼女は河川敷を渡る橋のあたりを指で示す。

 

 不良のたまり場になりやすい場所だ。誰かイジメにでもあってるのかと思えば……何人かの男に囲まれて、橋の下まで連れていかれている女の子の姿が見えた。思わず背筋に寒気が走る。

 

「あれ……女の子だよね?」

 

「女装した不良かもしれない」

 

 現実逃避しようとしていたら、菜沙が制服の袖を強く引っ張ってきた。思考を逸らすなと言いたいんだろう。一般人に無茶言わないで欲しい。

 

 大通りから離れてるし、夕方だから人が見当たらねぇし。どうしろと。

 

「ひーくん、どうしよう……?」

 

「……流石にすぐ通報ってのもなぁ。間違いだったらヤバいし、いやでも確認しに行きたくねぇなぁ……」

 

「誰か大人の人呼びに行ったほうがいい?」

 

「……近くの民家に声かけるのも、それはそれで……」

 

 悩んでる間に、女の子は橋の下まで連れていかれてしまった。壁に追い込まれてるし、完全に黒だろう。これは流石に……時間がない。

 

「……菜沙、離れた場所から録画。ヤバくなったらすぐに通報して」

 

「ひーくんが行くの!?」

 

「行きたくねぇけど時間ねぇよ。お前がちゃんと通報してくれたら、死にはしない……はず」

 

「でも……」

 

「気づいちまったもんは仕方ねぇだろ。頼むよ、菜沙」

 

 心底嫌そうに顔を歪めてから、彼女は手を離す。嫌なのは俺の方だというのに。それを顔に出さないよう、努めて冷静に、ゆっくりと息を吐きながら河川敷を下っていく。川の土手に降りて、不良グループらしき人物達の元へと向かう。

 

 深呼吸。胸を抑えて、どうするべきかを考える。心臓は今にも破裂してしまいそうだ。あぁ、嫌だ。どうして俺なんだ。でもこれが正解のはずだろう。きっと、そうだ。そうであってほしい。逃げるのは間違いだ。さんざん、勇者だの英雄だのになりたいと願っていただろう。だったら、逃げるな。

 

 心の中で何度も自分を鼓舞して、ようやく彼らの元へと辿り着く。橋を支える壁に背中を預けている女の子に、明るい様子は見受けられない。

 

「………」

 

 その女の子と、遠目から目が合ってしまう。彼女は視線で助けを求めているようには見えないが、ただただ面倒そうな、気だるげな目をしていた。それでも、これでもう逃げられない。無様な姿を晒すかもしれないけど……やるしかなかった。

 

「すいません、そこで何をしているんですか……?」

 

 意を決して、俺は彼らに話しかけた。いつも通りの無表情……という訳でもなく、少しだけ眉をひそめて不機嫌そうに。少しは威嚇になっただろうか。

 

「あぁ? テメェには関係ねぇだろ、とっとと帰れや」

 

 返ってきたのはドスの効いた低い声だった。睨みつける眼光も鋭く、ピアスなんてものもガラの悪さを強調していた。しかしここで逃げる訳にもいかない。壁際にいる女の子は髪が長く、遠目からでもわかる端正な顔立ちだった。こりゃ連れ込まれる訳だ。一応確認だけでもしておこうと思い、その女の子に話しかける。

 

「君は何かしたの?」

 

「何もしてないよ。ただ遊ぼうってここに無理やり連れてこられて……水切りでもするの?」

 

 ……なんて? この状況でこの子何言ってるんです?

 

 見てわかるほどに、男達の顔つきが厳つくなった。そんな挑発的な言葉を言わないでほしい。

 

 もうダメだ。菜沙、早く警察呼んで!! 心の中で叫んだが、しかし誰も来なかった。硬直した外面とは裏腹に、内面は酷く動揺しまくっている。そんな俺に気もくれず、不良の一人が女の子の言った言葉に対して怒り出した。

 

「水切りだァ? 女のクセにナメたような口きくんじゃねぇよ!!」

 

「おっと……そこまでにしといた方がいいですよ。警察呼びますけど、いいんですか?」

 

 ポケットの中にしまいこんだ携帯を見せるようにしながら、俺は意を決して男達に告げる。そのすぐあと、目の前にいた一人が目の前まで詰め寄ってきて、胸ぐらを掴んできた。タバコ臭い、早く離してくれないかな。心の中で独り言を何度も呟いて、精神的に落ち着けようとしていた。これはもうダメかもしれない。

 

「テメェもよぉ、さっきからうざってぇんだよ。邪魔なんだからとっとと───」

 

 失せろ。そう言おうとしたのだろうが、その言葉は突然響いてきた大きな音によってかき消された。

 

 誰かが硬い壁に叩きつけられる音。誰かが水の中に落とされる音。そして……誰かの嘔吐(えずく)音。

 

「あぁ? お前らなにやって……」

 

 その方向を見た俺とその男は……完全に言葉を失っていた。

 

 そこにいたのは、あの女の子だったからだ。壁に顔面を叩きつけられて動けなくなっている男、身体の下半身だけが川の中に落ちている男。そして蹲って動けなくなっている男。見た限り……あの女の子がこれをやったんだろう。にわかには信じられないが。

 

 でも……そんな事態になってくれたおかげで、胸ぐらを掴んでいる男の注意が逸れてくれた。

 

「……ッ!!」

 

「うぉッ!?」

 

 男の腕を、自分の腕を回しこんで無理やり外す。すぐに掌で男の顎に向かって振り上げるように打ち抜く。素人が拳で殴っちゃいけないって、漫画に書かれてたのを思い出せてよかった。実践してみたはいいものの……男は少しよろめくだけで、大したダメージにはなっていないようだ。当たり前だ。帰宅部にそんな筋力はない。

 

「ってぇな……ふざけてんじゃ───」

 

 ……またも、その男の言葉が聞こえることは無かった。後ろから近寄ってきていた女の子の綺麗なハイキックが、男の頭を蹴り抜く。まるでアニメのように男が横にすっ飛んでいき、動かなくなる。現実離れした光景に、言葉が出ない。

 

「……大丈夫?」

 

 件の女の子が俺の前までやってきて、掴まれていた部分に怪我がないのかをじっと見てきた。こうして近くまで寄ってこられると……さっき遠目から見たものとはまったく違っているのだと気付く。その容姿は間違いなく、俺が今まで見てきた女の子の中で一番かわいいだろうと断言できるものだ。そしてプロポーションも菜沙とは大違いで、出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいる。髪の毛も長めで、清楚感すらも感じさせた。

 

 まさしく男性女性、両方の描いた理想のような女の子が目の前にいた。それを認識すると同時に、さっきとは別の理由で脈が一気に早くなってしまう。こんな時でもそういったことに考えが及んでしまうあたり……俺もまだ思春期なのだ。そういうことにしておく。

 

 浅はかな事を考えている自分に対する言い訳を考えていると、女の子は少し目を細めて俺に尋ねてきた。

 

「……貴方も、私になにかする?」

 

「いやなにも」

 

 女の子とはいえ、あんなに強いのに戦いたいとは思わないだろう。一旦落ち着けるように深呼吸をしてから、周りを見回した。川の中で上半身だけが出ている男、壁に寄りかかるように倒れている男、そして地面に寝っ転がってる男が二人。

 

 一応川の中の奴だけは助けておこう。窒息されても困るし。なんとか引き上げて地面に寝かしつけ、一応生きているのか確認しておく。触った感じ脈はあったから、全員大丈夫だろうということにしておいた。どのみち自業自得だろう。俺が男達の安否確認をしているのを見た女の子は、なんてことはないと言いたげな顔で見てきた。

 

「加減はしたから、大丈夫」

 

「加減って、人間が吹っ飛んでるんですがそれは……」

 

 加減でこの程度だというのなら、本気はどれほどのものなのか。霊長類最強は交代ですね、間違いない。

 

「……君は大丈夫だった?」

 

「見て分からない?」

 

「いやわかるけど」

 

 主に俺の方が大丈夫じゃない。精神的に。

 

 けど実際、お互いに傷一つなし。女の子の手とか確認してみたけど、赤くなったりもしていない。治療の必要もなし。最高の結果だろう、あの状況から考えれば。本当に最高なのは、話し合いで逃げ出すことだろうけど。

 

「そんなに確認しなくても大丈夫。私、強いから」

 

「見りゃわかる。にしても、凄かったなぁアレ」

 

 見事なまでのハイキックだった。そう伝えると、女の子はポカンとした表情で、不思議そうに俺のことを見てくる。俺は何か変なことを言っただろうか。

 

 ……いや言ったか。女の子に対してハイキック凄いですねは流石にない。先程の自分の言葉を恥じた。何かスポーツとかやってるのって聞くべきだったか。結構ガッチリしてるけど。

 

「……変に思わないの?」

 

「何が?」

 

「私のこと」

 

 呆気らかんとした表情で尋ねてくる彼女に、俺は別に何も思っていない、と返した。彼女はどうやらまだ俺のことを警戒しているらしい。まぁ、そりゃそうか。今しがた男に絡まれたばかりだからな。

 

 ……それにしたって、不思議な女の子だ。その姿はまさしく俺の描いていたヒーローと同じようなものだろう。絡まれている人を助けようとした人を助けるなんて、いやまったく……世界はどうにも俺に優しくない。

 

 自分の中では恒例となった世界への嫌味を吐いていると、土手の上の方から菜沙の声が聞こえてきた。どうやら大丈夫そうだと思ったのか迎えに来たらしい。

 

「ひーくん、大丈夫!?」

 

 菜沙が俺の名前を呼びながら土手を駆け下りてくる。そんな速度で下りてきたら流石に危ないと思うんだが……と思ったのも束の間。

 

「うわっ」

 

 案の定菜沙は足を滑らせてそのままの勢いで下に倒れるように落ちようとしていた。流石にこのまま顔面からいくのはまずい。やらかすだろうと思っていたから、なんとか彼女を抱きとめることに成功した。かわりにケツから地面に落ちてヒリヒリするが。

 

「あ、ありがとひーくん……」

 

 腕の中にいる菜沙は頬を赤らめながらお礼を言ってきた。まぁ、満更でもない。彼女がおっちょこちょいなのは知っていたことだ。こんな場面が今まで何度あったことか。

 

「貴方、ひーくんっていうの?」

 

「いや違う」

 

 そんな恥ずかしい呼び方は菜沙だけで十分だ。すぐさま否定したのだが……何故か菜沙に不機嫌そうな顔をされた。

 

 幼馴染の反応に意味わからないと愚痴を零したくなったが……それより先に自己紹介くらいはした方がいいだろう。その方が彼女も少しは接しやすくなるかもしれない。とりあえず自分から進んで自己紹介をした方がいいか。

 

「俺の名前は唯野(ただの)……氷兎(ひょうと)だ。こっちは、俺の幼馴染の高海(たかうみ) 菜沙」

 

「氷兎……。だから、ひーくん?」

 

「……そういう訳じゃないんだけど、俺は自分の名前が嫌いでね」

 

「なんで? 良いじゃない。氷兎、なんか可愛らしい名前だね」

 

「………」

 

 気恥ずかしくなって、片手で頬を掻いた。別にそういう訳じゃないが……本当、不便だ。こんな名前、早く変えてしまいたい。

 

 名付けに関して心の中で愚痴を零していると、今度は女の子の方から尋ねてきた。

 

「……貴方たちは、私のこと、助けに来てくれたの?」

 

「一応……助ける必要もなかったかなぁこれ」

 

「そういえば、警察に電話した方がいい?」

 

「いや……面倒ごとは嫌だな。どうせコイツらも警察の厄介にはなりに行かないだろうし、もしそうなったとしても、録画してあるから大丈夫だろ」

 

 でも、この男達がいつまでも気絶しているわけじゃない。そろそろこの場から離れた方がいいだろう。吉と出るか凶と出るかは知らないけど……どの道訴えられても勝つのはこっちだ。

 

「……とりあえず、場所を移すか。こいつらがいつ起きるかわかんねぇし」

 

「そうだね。そういえば、貴方の名前は?」

 

「……七草(ななくさ) 桜華(おうか)

 

 どこかぎこちなく自己紹介を終え、とりあえずは七草さんの家がある方へと歩き出す。

 

 いつもの日常からちょっと外れた、不思議な日。この日あったことは、きっとそう簡単には忘れられないだろう。

 

 

 

 

To be continued……




 唯野 氷兎

 平凡な男子高校生。特に目立った能力はなく、平凡としか言いようがない。何かに特化しない。


 高海 菜沙

 主人公である氷兎の幼馴染。昔からの付き合いで、氷兎の両親とは仲もよく、両親同士の付き合いも良い。基本的に氷兎の家に入り浸っている。家は氷兎の家の隣にある。

 七草 桜華

 髪の毛が肩くらいに長い女の子。体術が得意のようで、身体能力が高い。

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