今後の方針を決めた昴は執務室に美羽と七乃を呼んだ。本来は太守である美羽のための仕事部屋なのだが、今となっては仕事をしない美羽のおやつ部屋と化している。通常廊下の扉の前に兵がいるだけのため、密談をするための部屋としてちょうどよかったのだ。本来は朝議で切り出すべきだが、天の御遣いとして最初に失敗をするわけにはいかず、この二人への根回しが大切と考えたのだ。
昴がこの世界に降り立ってまだ三日。朝議はこれまでどおり実質的に七乃が取り仕切っている。しかし、朝議の流れを覚えたら、昴が七乃のかわりに朝議を取り仕切ることになっている。それによって名実と共に昴はナンバー2になるのだ。
「しばらくは、南陽にはびこる賊の討伐に注力します」
昴はキリッとした表情で言ったが、二人の反応は微妙なものだった。
「賊と言っても都を襲っているわけではないのじゃろ?」
「ええ、お嬢さま。この都は防備をかためてあるので、賊が襲ってくることはありません」
「それなら問題ないのじゃ!」
「それに兵を雇うのにお金がかかりますから……」
ぼそっと七乃が本音を呟く。報告にある限り賊の規模は小さいので大人数を雇う必要はないが、それでも少なからぬ支出が必要になる。
「いや、正規軍を使うつもりですから、新たに兵を雇う必要はありません」
この時代は戸籍に登録された一般市民から徴兵をするか、金で兵士を雇うのが兵を集める一般的な手段だ。ただ、各地の豪族は私兵を抱えていて規模は小さいものの軍閥となっている。その中でも袁術軍の規模は相当大きなものであり、各地を荒らしている小規模な賊程度なら難なく討伐できるはずだ。
「たかが賊を相手にするのに、正規軍を動かすのは恥なのじゃ! そんな名誉のない戦いに妾の軍を動かすのは嫌なのじゃ!」
「それならお嬢さま、孫策さんを使うのはどうでしょうか? あの人はそこそこの数の兵を抱えていますし」
「おお、それはいい考えなのじゃ! 戦うのが孫策なら、妾の兵に損害が出ないしの! せいぜい使い潰してやるのじゃ!」
「さすがお嬢さま! そういう小ずるい計算はすぐできるんですね!」
「うははー! 七乃、もっと褒めるのじゃー!」
その会話に聞き捨てならないものが複数あって昴は頭を抱える。
「ま、待って下さい! 色々聞きたいことがありますが、孫策さんは今どこにいるんですか?」
「長沙ですね。孫策さんと、孫策さんの仲間の数人が長沙の客将として住んでいます。あそこの太守は私たちの息がかかっているので監視も兼ねています」
「……監視ってどういうことですか?」
「孫呉の方たちは孫策さんを筆頭にとても優秀なんですよね。もうお亡くなりになっていますが、孫策さんのお母上の孫堅さんは江東の虎と呼ばれるほど武勇の誉れ高き人で、孫策さんもその血を多分に引いているのか相当強いと聞きます」
それだけで監視するというのは話のつながりが分からないと言うと、七乃は小さく頷く。
「はい、それだけなら確かに監視する理由としては弱いですよね。監視するにはそれなりの理由があるんですよ。孫堅さんを亡くして混乱している孫策さんたちを私たちが吸収したとき、孫策さんがお嬢さまに仕える条件として揚州の呉郡の太守にしてほしいと言ってきまして……」
孫策は呉郡出身であり、彼女を中心とする孫呉と呼ばれる軍閥は呉郡をはじめとする揚州出身者が多い。孫策が呉郡の太守を欲するのも当然と言える。そして、美羽の力があれば、この時代においては重要視されていない呉郡の太守の首をすげかえることは決して難しくはない。
「少し強いからと言って田舎者風情が生意気なのじゃ! あんな田舎のことなぞどうでもよいが、それでも漢王朝の土地。田舎者に統治させるわけにはいかないと昴殿も思うじゃろ?」
「えーと、でも、孫策さんを配下にしているということは、その条件を受け入れたんですよね?」
「考えておくとは言ったのじゃ。ただ、あくまでも妾は考えておくと言っただけで、本当に太守にするとは一言も言っておらん」
「お嬢さま、そういうところは頭が回りますよねー」
昴は再び頭を抱える。袁術が悲惨な最期を遂げたのも、孫策に独立されたことが大きいと思っている。袁術は少なくとも孫堅とはうまくやっていたし、扱い方さえ間違えなければ孫策ともうまくやっていけたはずだというのが昴の考えだ。戦上手の孫策と精強な孫呉の兵、そして優秀な文官。それらの統制を取ることが、これから先うまくやっていくために絶対に必要だ。
そのためにはすぐ孫策と連絡を取って関係を改善していく必要があるが、まず自分に一定の実績が必要だ。ただ天の御遣いという名前だけで面会しても、実績が伴わなければ侮られる可能性が高いと踏んでいるのだ。
賊討伐は、治安の改善も大きな目的の一つであるが、城内での自分の立場の補強と他の諸侯に向けてのデビューという目的も同じくらい大きなものとなっている。
(孫策に対する扱いをすぐに改めるように言っておいた方がいいかな……、いや、ここに来て三日しか経っていないのに、孫策に会ったこともない俺がそんなことを言い出すのはおかしいか)
少し悩んだあと、孫呉については今は置いておくことにする。もちろん、早急に何とかしなければいけない案件であるのだが。
「いや、正規軍を動かすことに意味があります」
「というと?」
「我々が賊の掃討に対して本気であると示すことができます。それに、名誉のない戦いではありません。民を守ることで仁の……」
そこまで言って昴は口をつぐむ。この時代なら儒教の影響が大きく、儒教の中でも大きな徳とされる仁に訴えかければいいのではと思ったのだが、美羽がはたして儒教の徳について知っているか、知っていたとしても民に対しての仁にどのぐらいの意味を感じてくれるか心もとないと思ったのだ。
「……こほん。ええとですね、賊を討伐することで南陽の治安を向上させます。それによって人が多く南陽に来るようになることが期待されます。もちろん、ただ流民として来られるだけではよくありません。農地を整備して農民として働いてもらうなどがいいですかね。商人が多く来るようになれば経済が活性化しますし、何らかの才能を持つ人が集まるようになれば取り立てることによってますます南陽を豊かにできるでしょう」
「んー……つまり、どういうことなのじゃ?」
「南陽が豊かになれば、税収が増えて美羽が蜂蜜水を飲める回数が多くなったり、名君として敬われるということです。……まあ、そうなるまで時間がかかりますけど」
「蜂蜜水がたくさん飲めると! さすが天の御遣い殿なのじゃ!」
美羽は花のような笑顔を浮かべてきゃいきゃいと喜ぶ。
あくまで皮算用がうまくいった場合であり、そこにたどり着くまでにどれだけの労力と時間がかかるか分からないため、昴としては気まずい表情にならざるをえない。
「昴様は、もうお嬢さまのお扱いに慣れたようで」
対して、七乃はややジト目で昴を見る。
「私としては正規兵は貴重なので賊退治ぐらいで軽々に動かしたくはないのですが……、昴様がおっしゃるなら手配しましょう」
「手配する前に、二つ確認したいことがあります」
「何でしょう?」
「ここの正規兵……袁術軍と呼称するとして、美羽をのぞけば指揮する人間は誰ですか?」
当然組織のトップである美羽が指揮権を持っているのだが、美羽が現場に出て指揮するようなタイプではないことは一目瞭然だ。もちろん大掛かりな作戦行動では現場に出るかもしれないが、その場合でも彼女に指揮権を委ねることはできないだろう。
「基本的に私ですね」
七乃がそう答える。正史、演義共に袁術軍の大将軍である張勲が軍の指揮をとるのは至極当然のことなので、昴は自分の知識に対する確認と共に小さく頷く。
だが、昴の興味は別の人物だ。
その名は紀霊。袁術配下の武将の中では、演義において関羽と30合渡り合ったという華々しいエピソードがある。結局自分から休戦を申し込んだ上に再戦の申し出を拒否したため事実上の敗北とも言えるのだが。それでも、有名な三国志シミュレーションゲームなどでは武力が高く設定されることが多く、袁術陣営でプレイするときは間違いなくエースだ。
「ただ、私はお嬢さまのお世話が仕事ですので、一定以上の規模で軍を動かすようなことがない限りは紀霊さんが指揮をとります」
「……なるほど」
今考えていた人物の名前が出てきたので、昴は思わず顔を上げそうになるのを必死で自制した。
「現状報告されている規模の賊討伐であれば紀霊さんに指揮を任せることになると思います」
「そうですか。では、紀霊さんに面会したいのですが、どこに行けばよろしいでしょうか」
「今の時間なら調練を行っているはずです。兵舎に行けば会えると思いますけど」
「それではこれから私は兵舎に行きます。お二人とも、お忙しい中時間を割いていただきありがとうございます」
そう言って席を立とうとする昴を七乃は慌てて止める。
「あの、二つ確認したいことがあると言っていましたけど、まだ一つしか確認していないようですが」
「ああ、二つ目は紀霊さんに確認してもらいます」
「紀霊さんにですか?」
「はい。私の武術の腕がどのぐらいのものなのか確認したいんです」
その昴の言葉に七乃は意外そうな表情になる。
「昴様は武術の心得があるのですか?」
「はい。ただ、自分の腕前がここではどのぐらいの位置にあるのか、どこまで通用するのか、そこらへんが分からないのです」
本当は武術の腕前はからっきしのはずだった。中高生の頃に体育の授業で柔剣道をやったが、あくまで体育でやるレベルであり、今でも柔道着や剣道の防具を身につける手順は覚えているという程度だ。いや、剣道の防具の付け方はもう自信がない。
この世界に来たとき、なぜ現代日本からこの世界に来ることになったのかの理由はさっぱり分からず、現代日本での最後の記憶は就職の面接のために棒社を訪問していたということだ。そこで何が起こり今こうして三国志まがいの世界に自分がいるのかはまったくの謎だ。
ただ、自分になぜか特別な能力が二つ備わったことだけは覚えている。
そのうちの一つが武力であり、一通りの武器の扱い方、体術のこなし方、馬の操り方などがまるで自分が長年かけて身に着けたかのように分かる。そして、この世界では一部の武将が抜きん出て強いこと、そうした武将の中で自分の強さがおそらく中の上ぐらいということもなぜか頭の中に残っている。
この不自然な能力と記憶から、昴は自分が何者かの意思でこの世界に転移させられたのではという可能性を考えたが、色々な可能性を考えてもどれも荒唐無稽であり考えるだけ無駄だと結論を出した。
今は、自分にそういう力があるという事実が重要だ。
「自分の武術が十分通用すると感じたら、私が兵を率いたいのです」
そう言った昴に、美羽と七乃は目を見開く。
「昴殿の身に万が一が起きたら困るのじゃ! わざわざ戦いに行く必要はないと思うがの」
「後方から指揮をするのはかまいませんが、前線に立たれる気ならさすがに止めたいのですが……」
昴は、自分に指揮権を預けることを却下されるかもしれないとはと考えていたが、前線に立つことを止められることは想像していなかった。
「もちろん、無闇に前線に立つことはしません。ただ、兵を率いて戦場に立つことは必須だと考えています」
昴が考えている絵図では、美羽か自分が兵を率いて賊を討伐することが必須だ。美羽にそれができない以上、自分がやるしかない。ただ、自分が戦場に立てるだけの武力が本当にあるかどうかを確認することが先決だ。
「それは本当に必要なことですか?」
「はい。私の考えについては後ほど説明します。今は、紀霊さんに取り次いでいただければ……」
昴の意思が固いと分かると、七乃は小さくため息をついた。
「分かりました。私も付き添いますので、すぐに兵舎の方に向かいましょう」
「妾も! 妾も行くのじゃ!」
こうして、三人は兵舎へと向かうのであった。