「先生!」
倒れる雷十太に由太郎が駆け寄る。あのような醜態を見た後だというのに心配しているのか。やはり由太郎にとっては雷十太は特別な存在なのだろう。
膝を突き、目に涙を浮かべながら雷十太の怪我の具合を心配し確認するその様子に、こちらも言葉を失ってしまう。
「ぬぉぉぉぉぉ!」
唐突に叫び声が響く。意識を失ったかに見えた雷十太は、勢いよく立ち上がると由太郎の左足を掴み持ち上げる。まだ動ける元気があるとは思わず、油断してしまった。
「うっ、動くな! 動けばこのガキを殺す!」
「てめぇの弟子を人質に取る馬鹿がいるかよ!」
弥彦の叫びに雷十太は、血走った目を向け叫び返す。
「吾輩が本気でそんな
「てめぇ!」
左之助が叫び飛び掛かろうとするのだが、人質を前に歯噛みしている。迂闊に動けないようだ。
狂言強盗ということは、由太郎が先ほど話していた賊のことだろう。助けられたと由太郎は思っていたのだろうが、すべて茶番だったわけか。
何が真古流だ。とんだ屑野郎じゃないか。
「先生…」
泣きながら絶望に染まる由太郎の顔が目に入り、思わず顔を逸らしそうになる。
「…本当に由太郎君を殺すつもりですか」
雷十太の目を見つめ、私はゆっくりと語り掛ける。
「わっ、吾輩は…」
「殺すんですか」
私は再度問いかけた。雷十太の表情が、怒りから恐れに変わる。こんな信念のない男に、由太郎はひどい目に遭わされたのかと思うと、腹が立って仕方がない。
だから私は、自分が思う言葉をそのまま雷十太にぶつける。
「もし殺したら、私は絶対にあなたを許しません。絶対に」
「うっ、うっ、うぐぅぅぅ」
そこまで言うと、雷十太を由太郎を手放し、頭を抱えてその場に蹲った。
「はぁ。出来もしないことなんて、最初から言うんもんじゃないんですよ。全く。…由太郎君、怪我はないかい」
情けない雷十太の姿を見ていると、腹を立てていたことが馬鹿らしくなる。まぁいいや。
そんなことより、由太郎が心配だ。右足を庇いながら、木刀を杖がわりにひょこひょこ歩き、由太郎の元へと向かう。
「浜口! 無理すんじゃねぇよ」
「あぁ、スイマセン」
駆け寄る左之助が肩を貸してくれた。結構いいとこあるじゃんね。
「うぅ…。竜之介さん…」
「大丈夫だよ、もう大丈夫だから…」
泣きじゃくる由太郎を、そっと抱きしめ頭を撫でる。裏切られたり、人質にされたり、今日は何かと大変だっただろう。
その後、私は左之助に背負われて、高荷さんが助手をしている医師の元へと連れていってもらった。少し恥ずかしかったのだが、肩を貸して歩いていくと遅いと言われると、何も言い返せない。
「どうも、お久しぶりですね、高荷さん」
「お馬鹿! どうせ会いに来るなら怪我や病気以外で来て頂戴!」
久しぶりに高荷さんに会ったので、左之助の背の上から挨拶したのだが、怒られてしまった。むぅ、今度お菓子でも持って遊びに来るか。
直ぐに治療が始まったのだが、幸いなことに、神経や筋を傷つけていないため、少し安静にしていれば後遺症なく治ると診断された。
数針縫い、軟膏を塗り、包帯を巻かれて治療は完了。麻酔により少し歩きづらいが、特に問題はなさそうだ。治療室を出ると、皆が待合室で待っていた。
「いやぁ、すぐ治るみたいだし、後遺症もないそうですよ、心配かけてすみませんでしたね」
開口一番、とりあえず怪我の状況を報告すると、皆がホッと胸を撫でおろす。でも、待合室のどこかから、不穏な空気を感じるんだよなぁ。
「バカッ!」
「ヒッ!」
左之助の背後から、さよが飛び出す。大声を出すもんだからびっくりしちゃったよ。
「もう、心配したんだから…」
私の元へ駆け寄り、抱き着かれてしまうんだけど、今私踏ん張れないんですよ。ごめん、私が悪かったからやめて…。
頭を撫でながらすすり泣くさよを宥めていると、由太郎と見知らぬ男性が近寄ってくる。
「ごめんなさい! 竜之介さんは俺を庇って怪我したんだ! だから、俺が悪いんだ」
「私からも謝らせてください。この度は息子を守るために怪我をさせてしまい申し訳ありませんでした」
ああ、この人が由太郎のお父様か。清潔そうな身なりの、感じの良い方だな。
親子揃って頭を下げられて、少し困ってしまう。さよもキョトンとしている。
「竜さん?」
「違いますよ、これは。私がドンくさくて避け損ねただけですから。ほら、頭を上げてください」
できるだけ明るい声で、二人に笑いかける。
「でっ、でも…」
「なんだい? 由太郎君。私が嘘をついているとでも言いたいのかい?」
顔を上げ困惑する由太郎君に追い打ちをかけ、話をうやむやにする。ちょっと怪我しただけで気に病まれても、ちっとも嬉しくない。さっさと忘れてくれたほうが、こちらとしてもありがたいのだ。
「…浜口さん、ありがとうございます。さっ、由太郎、帰るよ。いつまでも居ても、浜口さんに迷惑だろう」
由太郎の父は、もう一度深々と頭を下げると由太郎を連れて部屋を出ていく。優しそうな笑顔だった。由太郎の方は、少し不満そうな顔をしていたけどね。
「由太郎君!」
部屋を出る間際、私は由太郎を呼び止める。
「また、道場でね」
「うん!」
元気な返事をした由太郎に手をひらひらと振り見送る。退室間際、二人はもう一度頭を下げて出ていった。
「さっ、私達も帰ろっか」
夜遅くまで待っていてもらった、神谷道場の面々にお礼を言い、私達は帰路についた。足を痛めている私のため、左之助は再度私を背負い、家まで運んでくれた。
「あっ、ここで大丈夫ですよ。ありがとうございます。左之助さん」
「なんでぇ、さん付けなんてらしくねぇじゃねぇか」
「まぁね。今日は弱ってるから。今度酒でも奢りますよ」
「おっ、そいつは楽しみだ。高いヤツで頼むよ」
左之助と二人で笑いあう。こういう左之助のサッパリしているところは、結構好きだったりする。本人には絶対に言わないが。
「左之助さん、今日は本当にありがとうございました」
横にいるさよが、深々とお辞儀をする。
「いいってことよ。いつも浜口サンには世話ンなってるからな」
「そうそう、食い逃げもするしね」
「なっ、もうしてねーっての」
頭を掻きながらバツが悪そうにしている左之助を見て、さよと二人で噴き出してしまう。そんな私達を見て、左之助も笑っている。随分と優しそうな顔だ。
「んじゃ、あんま遅くなっても悪ィからよ」
「ええ、それではまた」
「おう」
それだけ言うと、左之助はそのまま夜の闇に消えていった。
「それじゃあ遅くなったし、さっさと寝ようか」
家の中に入り、待っていたたけさんに怪我の具合を報告すると、欠伸をしながら自分の部屋に戻っていった。もう少しこう、お小言をもらうかと思っていたので拍子抜けだ。
そのあとすぐに寝室に行き、さよと一緒に布団に入る。その時になり、何かずっと忘れていたことがある気がして、こう、喉の奥に魚の小骨が刺さったような気持ち悪さがあって眠れない。
「竜さん、眠れないのかい?」
「うん、何か忘れている気がしてね」
先ほどまで疲れで直ぐにでも眠れそうな気持だったのに、何だろう。今日あった出来事を振り返りながら、引っかかっていることを考える。
「あっ!」
「わっ、びっくりするなぁ」
「さよさぁ。今日の夕飯なんだったの?」
しばし、沈黙が流れる。狸寝入りじゃないよな。
「怒らないで聞いてね」
「わかってるよ。そんなにいいモノ食べたのかい?」
「別に、高いモノじゃないんだけどさ。…鰻」
「えっ?」
「鰻だよ、
私の一番の好物を、あえて私のいないときに食べるかぁ?怒っても仕方がないことだと理解しつつ、私は枕を涙で濡らすのであった。
たぶん、閑話を一つ二つ挟んで、斎藤編に入ります。
月岡編はちょっと飛ばします。原作を読んでいる方は、画面外で同様の出来事が起きたと思ってください。
原作を読んでいない方は(そもそも原作を読まれていない方に配慮されていない本作を、ここまで読んでいないとは思いますが)気にしなくても問題ありません。