まず、出社した武内Pが最初におこなう行動からして違っている。エレベーターの〝上がる〟ボタンを押した武内Pに、伊華雌は思わず言ってしまった。
〝武ちゃん、ボタン間違えてるぜ。我々は地下帝国の住民だ。下のボタンを押さないと〟
もしかするとまだ酒が残っているのか、もしくはおかゆが残っているのかもしれない。昨日、千川ちひろ、佐久間まゆ、島村卯月(ママ)、ウサミンの四名によるおかゆを一人大食い選手権するはめになった武内Pは、その全てを完食してアイドルと事務員の笑顔を守ったのだけど、その代償として食べすぎによる胃もたれに苦しんだ。それは夜通しうーんと唸ってしまうほどの胃もたれで、だから武内Pはまだ本調子じゃなくて、それで事務室の場所すら分からなくなってしまったのかと思った。
しかし、事務室の場所を分かっていなかったのは伊華雌のほうだった。
「実は、マイクさんがいない間に引越しをしたんです」
他の社員に怪しく思われないように、武内Pは小声で教えてくれた。
移籍騒動を前後して大幅に所属アイドルの増えたシンデレラプロジェクトを社内カースト最下位の地下室に押し込めておくのはよろしくないと、美城常務の鶴の一声が炸裂し、シンデレラプロジェクトはその何の通りシンデレラ的大躍進を遂げたのだ――と、言葉で説明されてもイマイチ実感がもてない。百聞は一見にしかずという格言を思い出しながら、伊華雌は半信半疑で武内Pの説明に生返事をしていた。
そして武内Pは最上階に近いフロアでエレベーターを降りて、つい最近までプロジェクトクローネの事務室だった部屋の前で足を止めて、誇らしいのか気恥ずかしいのか、はにかみながらドアを開いた。
「ここが、シンデレラプロジェクトの事務室です」
その光景が、怒涛の〝実感〟となって押し寄せてきた。
都内を一望できる素晴らしい展望が、モデルルームを思わせる洗練された室内が、ごうごうと音をたてて快調に動作する空調が――。素晴らしい設備を与えられているという事実がつまり、〝武内Pがプロデューサーとして評価されている〟ことを証明してくれて、どうしようもなく嬉しくて泣けてきてしまう。
だって、ずっと粗悪な地下室で頑張ってきたのだ。それがついに会社に評価されて、こんなに良い部屋をもらえて……ッ!
〝武ちゃん、良かったなぁ……。頑張ってきたもんなぁ……っ!〟
伊華雌は、大成してメジャーになった地下アイドルを見上げるファンみたいな気持ちで武内Pへ熱い視点を送ってしまう。そして感激の嬉し涙を流す感覚に翻弄されながら事務室の壁へ視線を向ける。
346プロには〝所属アイドルのポスターを事務室の壁に貼る〟という習慣があって、その事務室の壁を見ればその部署の戦闘力が一目で分かる。
シンデレラプロジェクト発足当時はポツンと佐久間まゆのソロデビューを応援するポスターが貼ってあるだけだった。これだけだと寂しいので島村さんのポスターを貼るのはどうでしょう、とか言い出した武内Pを全力で止めた覚えがある。
それが今は、所狭しと壁中にアイドルのポスターが貼ってある。まゆのポスターがあって、アスタリスクのポスターがあって、ファミリアツイン、トライアドプリムス、ポジティブパッション、ピンクチェックスクール。
――なんだよこれ、俺の部屋かよ……。
伊華雌が前世の自室を思い出してしまうほどにシンデレラプロジェクトの事務室の壁はカラフルな色彩を放っていた。これだけのアイドルが所属しているということは、つまりこれだけのアイドルから武内Pが信頼されているということであり、ずっと武内Pを応援してきた伊華雌としては相棒の
そして伊華雌は、ピンクチェックスクールのポスターを見つめて、その真ん中でエンジェリック☆スマイル(天使の笑顔)を輝かせる島村卯月と視線を交わして、しみじみと噛み締めてしまう。
――俺達、島村卯月の担当になれたんだなぁ……。
どうやら〝心の底から嬉しい事〟というやつは喜びが炭火のように持続するらしい。恋愛ドラマで告白を成功させたリア充野郎が女の子と別れて一人になってから時間差ではしゃいだりするけど、伊華雌はその気持ちを理解できてしまった。
これから先、武内Pと一緒に卯月をプロデュースできると思うと、とまらないワクワクでありもしない心臓が爆発するんじゃないかと思う。もしも自分が人間だったら、喜びのあまり服を脱いで不思議な躍りを躍ってしまうかもしれない。そしてたまたま入室してきた美城常務のMPを吸い上げてしまって怒りの懲戒免職……。
――いや、クビになってるよ! 何で俺は妄想の世界ですらバッドエンドを目指しちゃうんだよっ!
伊華雌が卑屈すぎる己の妄想に呆れていると、武内Pがこほっと空咳をついて、告白でもするかのように全身を強張らせた。
「実は今日、これからプロデューサー会議なんです……」
伊華雌は妄想モードを終了させて、武内Pの顔を見つめた。その真剣な横顔に見覚えがある。仁奈のプロデュースをしている時にこんな顔をしていた。あれは確か、パレードの企画を考えた時だったか。
〝武ちゃん、何かあるんだな? 会議で通したい企画が〟
伊華雌の予想は、果たして的中する。武内Pはブリーフケースから書類を取りだして、それを机の上に広げた。
「マイクさんはどう思いますか? 是非、意見を頂きたいのですが……」
武内Pは、346プロ最上部に位置する部署のプロデューサーになった今でも、伊華雌と出合ったばかりの頃に見せていた弱気な部分を残している。偉くなっても謙虚であることは美徳であると思うけど、もう少し普段から強気であっていいと思う。この人はノーマルモードと本気モードの落差があまりに激しいのだ。さながら良い子モードとヤンデレモードの落差が激しいまゆのように。
――どれどれ、どんな企画かな……。
伊華雌は差し出された企画書に視線を向けて、読み進めて――。そして全身に鳥肌の立つ感覚を覚えてしまう。
――何これ、すごい……っ!
赤羽根Pの言う通り、武内Pは〝天才〟かもしれないと思ってしまうほどに独創的な企画だった。それはライブの常識を覆す企画であると言っても過言ではないかもしれない。
普通ライブは、ファンを笑顔にすることを目的とする。ライブとはつまり、チケットを買って足を運んでくれたファンを満足させるための興行であるから、その考え方はライブの企画として常識であり王道だ。
しかし武内Pの企画は〝アイドルを笑顔にすること〟が企画の根幹をなしている。
アイドルを嘘偽りのない〝いい笑顔〟にして、それを見たファンに笑顔になってもらう。まわりくどいやり方であると指摘されてしまうかもしれない。最終的にファンを笑顔にするのが目的であるなら、最初からファンを笑顔にするためのライブを企画したほうがいいと反対意見が飛んでくるのは目に見えている。
しかし――
ファンを笑顔にするための企画。
アイドルを笑顔にして、その笑顔を見たファンに笑顔になってもらう企画。
この二つは似ているようで全然違う……。
決して同じ結果にならない!
シンデレラプロジェクトの活動を通じて〝いい笑顔〟を間近に見てきた伊華雌はその力を信じることが出来る。ただの笑顔といい笑顔は、同じようで違うのだ。輝きがまるで違うのだ!
アイドルを笑顔にするプロデュースを信念にかかげるプロデューサーによる、アイドルを笑顔にしてファンに笑顔になってもらうための企画。
これはまさに武内Pにしかできない企画だと思う。
赤羽根Pの言葉を借りれば、〝天才〟による唯一無二の企画である!
〝最高にいい企画だぜ、武ちゃん。これはまさに、武ちゃんの企画だ……。シンデレラプロジェクトの企画だっ!〟
伊華雌が絶賛すると、武内Pはむずがゆそうに口を動かして、伊華雌から視線をそらした。その動作の意味するところを、伊華雌はもちろん読み取ることができる。
〝武ちゃん、照れんなって!〟
親しげに背中を叩く感覚をつくりながら声をかけると、武内Pは照れ隠しとばかりにコホっと空咳をついた。そして書類をブリーフケースに入れた。
「マイクさんのおかげで自信がつきました」
立ち上がった武内Pは、銃を手にして戦場へ向かう兵士のように、勇ましい表情で事務室を後にする。
確かに、武内Pは戦場へ向かっている。
しかし手にしているのは銃ではない。
総合エンターテイメント企画――シンデレラの舞踏会。
武内Pは渾身の企画書を手にして、プロデューサー会議という名の戦場へ向かうのだった。
* * *
346プロの会議室に、かつてない緊張感が張りつめている。
一様に渋面を浮かべるプロデューサーの視線が、立ち上がり発言をしている武内Pに突き刺ささる。議長たる美城常務も、かすかに眉根をよせて静観している。
大勢の人間がたった一人を見据えるという光景は、見ているだけでも胸が苦しくなるほどの圧迫感を覚えてしまい、伊華雌は小学校時代の悲劇を思い出してしまう。
それは後に〝オナラ裁判〟と呼ばれる、人という種族の闇を浮き彫りにする悲惨な事件である。
初めに結論を言ってしまうと、これは
それは、すごく可愛い女子だった。クラスで一番、いや、学年で一番可愛い女子かもしれない。そんな女の子の隣の席に座ることができて、伊華雌少年は席替えの神様に感謝していた。
その可愛い女子が、可愛さのかけらもない毒ガスをケツの穴から発射してクラスメイトを無差別攻撃するまでは……っ!
そのオナラはあまりにも強烈で、男子は毒ガステロだと騒いで、女子はハンカチで鼻を押さえて実行犯の特定・死刑を声高に叫んだ。クラスメイトは犯人の特定に
学校一の美少女と、学校一の不細工。
もう、勝ち目がなかった。誰しも伊華雌の犯行だと思っている。常識的に考えて、スカンクみたいにくっさいオナラを発射するのは不細工の所業であって、美少女はハンカチを鼻にあててしかめっ面をするのが世の理である。
みんな、そうあって欲しいと思っている。
だから伊華雌へ威圧的な視線を向けて自白をうながしてきた。
しかし伊華雌は知っている。自分がやってないことも、真犯人がクラス一の美少女であることも。
だから、行動した。
美少女の前日の行動を探って、そして――、とある中華料理店で決定的な証拠を掴んだ。オナラ事件の前日、美少女は家族と中華料理店に入っている。そこで餃子を食べていた。ニンニクのたっぷり入った餃子を!
伊華雌は意気揚々と逆転判決につながる証言を並べた。あの日、あの場所で、あそこまで激烈な臭気を放つオナラを発射できたのは、前日にニンニクを食べていたお前しかいない……。真実はいつも一つ!
それは橘ありすをもって〝論理的ですね〟と認めてもらえるほどの磐石な推理であって、伊華雌は逆転無罪を確信していた。
そして、絶対絶命の窮地に立たされた美少女は――
ふえーんと、泣き始めた。
『伊華雌くん酷いよぉ……』と、嗚咽の合間に伊華雌を批難しながら泣きじゃくることによってクラスメイトの同情を引き出し、もはやオナラのことなんてどうでもいいお前が謝れ! という空気を構築し、クラス全員から威圧的な視線を向けられた伊華雌少年はその迫力に負けて謝罪したのだった。
――しかもあの毒ガス女、嘘泣きだったんだよなぁ……ッ!
伊華雌は苦い思い出を噛み締めながら、武内Pを全力で応援する。あの時のクラスメイトを
そして武内Pは、プロデューサー達の
「自分はアイドルの〝いい笑顔〟を引き出して、ファンにも笑顔になってもらいたいと考えております。そのためにはアイドルの個性を活かしたライブ構成を考える必要があります。具体的には、企画段階からアイドルの意見を積極的に取り入れて、アイドルが〝やりたい!〟と思えるライブを目指します。もちろん、アイドルはライブ構成に関して素人でありますので、実現可能なライブに出来るように担当プロデューサーが調整します」
武内Pの説明を受けたプロデューサーの意見は真っ二つに分かれる。
「挑戦することを悪いとはいいませんが、無茶というか、無謀というか……」
「アイドルにもプロデューサーにも、負担が大き過ぎるかなと……」
保守派のプロデューサーは、苦笑しながら美城常務に同意を求めた。
「面白い企画だな。オレはアリだと思う!」
「これをみんなが聞いたら収集がつかなくなるくらいの騒ぎになりそうだけど……、盛り上がるのは間違いない!」
間島Pと米内Pは、武内Pに笑みを向けた。
勢力的には五分五分である。
移籍騒動を引き起こした961プロに一泡ふかせてやりたいと意気込むプロデューサーは武内Pの企画に賛成して、移籍騒動を対岸から眺めていたプロデューサーが反対している。そんな感じの情勢であると読み取り、伊華雌はもどかしく思った。
――これは絶対、すごい企画なのに……っ!
この企画が成功すれば961プロに一泡ふかせるのはもちろん、アイドル業界の勢力図を塗り換えるきっかけになるかもしれない。シンデレラの舞踏会をきっかけに、346プロのアイドルは笑顔の輝きが違うとファンに認知してもらえる可能性がある。それはつまり、武内Pが信念に掲げる〝アイドルを笑顔にするプロデュース〟がファンに認めてもらえる、ということであって、彼の信念が実を結ぶ瞬間である。
だから伊華雌は、この企画を是が非でも通したいと思う。
アイドルの笑顔のために。そして何よりも、武内Pの笑顔のために!
〝武ちゃん、負けんな……。押し通せ! あんたの企画は、絶対に成功するっ!〟
反対派の意見を前にうつむいていた武内Pが、顔をあげた。
右から左に、不満顔のプロデューサーへ視線を送って、言い放つ。
「自分が、責任をとります」
そして武内Pは、本気の眼差しを美城常務へ向ける。
「失敗したら、その時は自分が責任をとります。やらせてください……ッ!」
怒鳴りつけるような声が、ゆっくりと会議室の沈黙にのまれていく。天井の空調がうなる音が聞こえて、口元を強張らせたプロデューサー達の視線が美城常務へ集中する。
美城常務はしばし
「駄目だ」
伊華雌は耳を疑った。こんなに凄い企画を、これほどの熱意を持ったプロデューサーが、己の進退を賭けて挑もうとしているのに、何でこの人はそれが分からないのか!
しかしそれは、早とちりだった。
美城常務は企画を否定したわけではなくて――
「責任は私が取る。君は企画を成功させることだけを考えろ」
何を言われたのか、すぐに分からなかった。
美城常務の口元に笑みあって、それを見た瞬間に、理解した。
企画が、通った!
「次回の定期ライブは〝シンデレラの舞踏会〟と名前をあらためて公演する。武内は総括プロデューサーとして各プロデューサーの指揮を取れ。この企画はアイドルとプロデューサー、そしてプロデューサー同士の連携が成功の要となる。各自、武内の指示にしたがってもらいたい」
美城常務の目配せをうけて、武内Pが立ち上がる。
「美城常務のおっしゃったとおり、今回の企画は、プロデューサー同士の連携が重要であります。……あのっ」
武内Pが、深々と頭を下げた。
プロデューサー達は戸惑って視線を交わす。
「皆さんの力を、自分に貸していただけませんでしょうか!」
頭を下げ続ける武内Pがいて、それでもプロデューサー達は迷っている。
パチ……、パチ……。
間島Pが拍手をして、米内Pがそれに続いた。
その音は次第に大きくなる――。反対していたプロデューサー達も、肩をすくめて苦笑して、そして手を叩いてくれた。
伊華雌は自分に手が無いことを悔しく思いながら、しかし誰よりも大きな拍手を送る感覚をもって武内Pを祝福するのだった。