総力戦でいこうと思った。
赤羽根Pが長年をかけて築き上げた〝プライド〟という名前の壁を打ち壊し、再びイケメンとして復活させるには、自分達の力だけでは駄目かもしれない。
自分達だけで駄目なら助けを呼べばいい。
誰かに助けを求めることに、もはや遠慮や躊躇は全く無い。自分の力だけで何とかしたいとか、誰かに頼るのは恥ずかしいとか、そんな安っぽいプライドなんてとっくに捨ててる。そうでなければ、シンデレラプロジェクトの担当なんて務まらない。
問題は、誰に助けを求めるか?
武内Pと
〝まあ、そうなるよな〟
「ええ。早速電話してみます」
相手はすぐに電話に出て、協力を約束してくれた。
あの人に限っては武内Pの頼みを断らないと思ったし、赤羽根Pとも知らない仲じゃない。助っ人として適任だと思った。
〝さあ、行こうか武ちゃん……〟
「はい、考えを改めてもらいます!」
武内Pはいつにも増して気合い充分で、身内に渦巻く熱い気持ちが、冬の冷気とぶつかって湯気になっていた。
朝から降り続いている氷雨は、いつの間にか雪に変わっている。
* * *
武内Pは、赤羽根Pの待っている個室に戻るなり、首の後ろをさわって長すぎる退席のいいわけをした。
「すみません、仕事の電話が入ってしまいまして……」
すると赤羽根Pは、苦笑しながら言うのだった。
「あぁ、プロデューサーをやってると、よくあるからな」
その口調は、まるで現役を退いたアスリートが昔を振り返っているかのようで、伊華雌は寂しさと腹立たしさを同時に覚えていた。
――隠居を気取るには早すぎるぜ。まだまだ現役でやれるってことを、今から分からせてやるからな……っ!
「では、まずは乾杯を」
武内Pは、泡の消えたビールジョッキを持ち上げて、赤羽根Pも同じようにジョッキを持ち上げて、優しくぶつけてカチンと音をだした。
果たしてそれは、試合開始のゴングになった。
武内Pは、ファイティングポーズをとりながらリング中央へ向かうボクサーのような目付きで、様子見のジャブを放った。
「961プロは、どうですか?」
対する赤羽根Pは、表情を崩すことなくビールを飲んで、浮かない顔でこたえる。
「まあ、ぼちぼち、だな……」
その言葉に、伊華雌は赤羽根Pの思惑を悟る。
――こいつ、隠すつもりか!
どうやら赤羽根Pの着ているスーツは、真実を隠すための隠れ蓑で、同期の友人である武内Pにすら胸襟を開いて近況を語るつもりはないらしい。
――これだからリア充あがりは……っ!
友人にまで見栄を張って体裁を保とうとするのは、リア充の悪い癖だと伊華雌は思う。
伊華雌はちゃんと報告していた。
どんな嫌なことがあっても、辛いことがあっても、キツいことがあっても、その全てを島村卯月等身大ポスターに報告していた。島村卯月等身大ポスターは、伊華雌の悲惨な体験談を笑顔で受け止めてくれた。
ポスターじゃなくて友人に報告しろ――という苦情は勘弁してもらいたい。
だって友達とか、架空の生き物だと思っていたし……。ぴにゃこら太やブリッツェンの仲間だと、思って、いた、から……。……、…………っ!
赤羽根Pを
――思い出しただけでメンタルが死ぬとか、俺の前世はどんだけ悲惨なんだよ……。
自爆して瀕死になっている伊華雌を尻目に、武内Pは目付きを強めて、言い放つ。
「実は、赤羽根さんは961プロを辞めたと、聞いたのですが……」
それは赤羽根Pの逃げ道をふさぐ一言であって、もはやどちらかが降伏するまで終わらない口論を覚悟させる宣戦布告であった。
「……知っていたのか」
ビールジョッキを机に置いた赤羽根Pは、しかしもう笑顔ではない。
「美城常務から、聞きました」
武内Pも、厳かにこたえる。
全て美城常務からの情報であると、そういうことにしておこうと決めてある。まさか、マイクが監視してたんですよ――とは言えない……。実はマイクに意思があるとか――絶対に言ってはいけない! そんなことを言ったが最後、武内Pの言葉は永遠に説得力を失ってしまう。
「じゃあ、高木社長のことも知っているのか?」
赤羽根Pは、捕獲した敵国のスパイを訊問するような口調で訊いてきた。
武内Pは、捕獲されても迫力を失わない殺し屋を思わせる落ち着いた声でこたえる。
「新しく立ち上げる芸能事務所のプロデューサーとして誘われていると、聞いています」
「そうか。全部、知ってるんだな……」
赤羽根Pがジョッキに手を伸ばして、ビールを飲み干した。通りかかった店員におかわりを頼み、唐揚げと枝豆も注文する。
〝武ちゃん、一気にたたみかけろ! 酔っぱらってうやむやにされる前にっ!〟
伊華雌は、ラウンド終了間際のトレーナーがボクサーをけしかけるかのように、武内Pをけしかけた。
劣勢のボクサーがゴングに救われようと相手から逃げるように、赤羽根Pはアルコールをがぶりと飲んで、ベロベロになって武内Pの追及から逃れようとしているのだと思った。言うなれば〝ベロベロ大作戦〟とでも言うべき油断ならない作戦である。
そして〝ベロベロ大作戦〟という言葉が、伊華雌の紳士スイッチを起動してしまう!
――語感的には〝ペロペロ大作戦〟のほうがいいな。何ていうか、夢が広がる……。
うっかり紳士スイッチを入れてしまった伊華雌は、〝妄想の世界〟という名前の闇に飲まれて戻ってこない。
しかし伊華雌は役目を果たしていた。
すでに武内Pの本気スイッチは起動している。
「高木社長の話、受けないんですか?」
その口調は、もはや極道の域に達しているといっても、許される。
武内Pは、それ程までの〝本気〟を言葉に乗せて、赤羽根Pの心に届けとばかりに声を張り上げる!
「絶対に、受けるべきだと思います!」
潔く言い切った武内Pは、真剣を振り下ろした侍が返り血を浴びながら相手を睨み残心をつくるように、赤羽根Pから目を離さない。
強い言葉を叩きつけられて、強い視線に貫かれた赤羽根Pは、〝お前、本当に武内か?〟といわんばかりに眉根をよせてメガネを触った。動揺しているのだろうか、その手が微かに震えている。
それはしかし、無理もないリアクションだと、ペロペロ大作戦にまつわる妄想から無事に生還した伊華雌は思う。
武内Pは、本田未央のプロデュースを通じて学んだのだ。
その人がどうすれば笑顔になれるか、分かっているなら迷う必要はない。強引に手を引いてでも、笑顔になれる道を歩ませるべきである。
今ここにいる武内Pは、赤羽根Pの知っている武内Pではない。
シンデレラプロジェクトという地獄の戦場で鍛えられて、もはや別人といってもいいほどに強い意思と信念をもったプロデューサーなのだ。
そして伊華雌も、昔の伊華雌ではない。
まさか〝ペロペロ大作戦〟という単語から、これほどまでに伸び伸びと妄想の翼を広げることができるとは思わなかった。イグアナのヒョウくんに憑依転生してアイドルをヒョウくんペロペロ無双するとか、そんな妄想が出来てしまう自分はもはや後戻りの出来ないほどに〝紳士〟なのだと自覚した。
信念をもったプロデューサーと、紳士なマイク。
後者はクソの役にも立たないのだけど、この二人に見据えられた赤羽根Pは、過酷な取り調べの末に観念した犯人のように肩を落として、言うのだった。
「オレには、無理だ……」
それは、赤羽根Pと思えないほどの弱気な表情だった。
リア充として、イケメンとして、張り巡らせていた〝プライド〟という城壁が、ついに崩れ落ちたのだと伊華雌は確信した。
今、武内Pの目の前で見せている泣きそうな表情こそが、赤羽根Pの本心であり、武内Pと伊華雌の最終攻撃目標である。ここに熱い言葉を叩き込み、いけ好かないイケメンとして復活させるのがこの作戦の目的である!
「黒井社長は、オレを事務員として雇いたいと言った。プロデューサーとしての魅力が無いと言われた。最初は騙されたと思ったけど、でも――、一人でしばらく考えて……」
言葉を詰まらせた赤羽根Pを見つめて、伊華雌は思い出す。
黒井社長にプロデューサーとしての才覚を否定された赤羽根Pは、落ち込んでいた。部屋で一人で落ち込んで、見るからに辛そうだった。
――でも、辛いのはあんただけじゃなかったんだぜ……。
ちょうどその頃だった。伊華雌が〝エア友達〟のスキルを習得したのは。
誰とも会話できない辛さに耐えられなくて、到達してはいけない世界に足を踏み入れてしまった。最後の方は本当に賑やかだった。携帯電話の〝アバズレ〟や、空気清浄機の〝オイニー〟は氷山の一角に過ぎない。踏まれることが大好きな足拭きマットの〝ドエム〟。全裸な俺を見ろといわんばかりに裸体をさらしている観葉植物の〝ロシュツ・キョウ〟。全てのジャンルの変態が集合するのも時間の問題であると確信できるほどに、エア友達が増えていた。
――お前らのことは、なるべく早く忘れたいのに、何故か忘れることが出来ない……。オイニー、元気にしてるかな……。
伊華雌が辛い時期を一緒に乗り越えた友人(エア)のことを思い出して、しみじみと在りし日の思い出に浸っている間にも、二人のプロデューサーのドラマはクライマックスを迎えようとしている。
「オレには、やっぱりプロデューサーとしての魅力が無かったんだよ。黒井社長がプロデューサーとして使いたいと思えるほどの、〝オレにしかできないプロデュース〟ってやつが無かったんだよ……っ!」
正直に気持ちを打ち明けてくれた赤羽根Pに、武内Pも真剣に向き合う。復活して欲しいと願う気持ちを、強い眼差しに込めて伝える。
「それなら尚更、高木社長の元へいくべきです! 高木社長の元で、赤羽根さんのプロデュースを見つければ――」
しかし赤羽根Pは、武内Pの言葉を遮るように首を左右に振って、強めた語気に気持ちを込めて――
「オレは秀才にはなれるけど、天才にはなれないんだ! お前みたいには、なれないんだ……」
「……どういう、意味ですか?」
赤羽根Pと武内Pの、視線が交わる。
二人の視線が、ぴったりと重なって、おいこれ告白するんじゃねえか! と伊華雌が焦った瞬間――、赤羽根Pは、実際に告白をする。
ずっと思っていたけど、しかし言えなかったんだと、その
「お前は〝天才〟だと思う」
予想だにしない言葉を差し出された武内Pは、ポカンとして、すぐにかぶりを振って、反論しようと口を開いたところに、しかし赤羽根Pから言葉を畳み掛けられる。
「〝秀才〟ってのは、言われたことを完璧にこなせる人間だ。〝天才〟は、誰にも出来ないことが出来る人間だ。シンデレラプロジェクトのプロデューサー。あれは、お前にしか出来ない。お前が信念に掲げる〝アイドルを笑顔にするプロデュース〟。あれは、お前にしか出来ない……。つまりお前は、唯一無二の天才で、オレはいくらでも代わりがいる秀才なんだよ……ッ!」
理路整然と語る赤羽根Pに、やはりこの人はどこまでも優秀なのだと、伊華雌は思う。誰が何を出来るか、自分が何を出来るか、客観的に物事をとらえて、最善手を打つことが出来る。
だから、高木社長の元へ行けない。
だから、天才になれない。
自分が天才になるためには、何が必要なのか、分かっているから、一歩踏み出すことができない。
「高木社長は、天才を求めている。誰もやったことのないプロデュースを、輝きの向こう側を見ることのできるプロデュースを目指している! ……そんなの、オレじゃ無理だ。絶対に、失敗する……」
そう、失敗する。
誰もやったことのないことをやろうとしたら、きっと失敗してしまう。
だからみんな、誰かが通った道を歩こうとする。
だから赤羽根Pは、天才になることが出来ない。
彼の中に〝失敗をしてはいけない〟という鉄の掟がある限り、赤羽根Pは優秀であるがゆえに失敗を避けようとして、その結果――、天才になれない。
でも、赤羽根Pは天才を目指すべきである。
高木社長の元へ行くべきである。
一歩、踏み出さなければならない。
〝武ちゃん、教えてやれ。武ちゃんだから言えることを、言ってやれッ!〟
武内Pなら、……いや、武内Pにしか、赤羽根Pを縛り付けている〝常識〟という名前の鎖を引きちぎることは出来ないと思う。
だって、一緒に乗り越ええてきたから。
山ほど積み重ねてきたから。
その結果、赤羽根Pも認める〝天才〟になれた武内Pだからこそ、その言葉に重みを持たせることができる。
赤羽根Pに捧げる言葉は、たった一言。
「失敗、すればいいと思います」
まさかの言葉に、赤羽根Pはぎょっとして武内Pを強く見つめる。
「お前、何を言って……?」
その反応は、当然であって、しかし当然であってはいけない。
天才を目指すのであれば、〝失敗〟は避けて通ることのできない試練であると、理解してもらう必要である。
だから武内Pは、赤羽根Pの中にある常識を打ち破るために、机に手をつき、身を乗り出して――
「自分は、散々失敗しました。佐久間さんをプロデュースしようとした時、最初は相手にしてもらえませんでした。市原さんをプロデュースしようとした時は、お母さんを怒らせてしまい、状況を悪化させてしまいました。前川さんと多田さんの時だって、間違ったソロデビューをさせてしまって、二人を落ち込ませてしまいました! 本田さんの時だって、肝心な判断を彼女に押し付けて混乱させてしまいましたっ!」
そして、結論する。
正しい道を、教えてやる。
赤羽根Pが何と言おうと、お前の進むべき道はこちらであると、強引に手を引くように!
「赤羽根さんが言うところの〝自分だけのプロデュース〟は、おびただしい数の失敗を乗り越えて、初めて手にすることができるものだと思います。赤羽根さんは高木社長の元へ行って、たくさん失敗してください。そして、自分だけのプロデュースを見つけてください。そしたらきっと――」
武内Pは、笑みを浮かべる。赤羽根Pが目を見開いてしまうくらいの笑顔で、そんな風に笑ってほしいと、願いを込めて――
「赤羽根さんは、いい笑顔になれます!」
これが、武内Pと伊華雌の結論だった。
成果なんてクソくらえ。その人がどうすれば笑顔になれるか? それを考えて実行するのがシンデレラプロジェクト担当プロデューサー&マイクの仕事である。
「笑顔、か……」
赤羽根Pは、もう武内Pのプロデュースを笑ったりしない。成果が出ないと失笑しないのはもちろん、それどころか、憧れの選手を見上げるサッカー少年みたいな目付きで武内Pを見つめている。
その視線に、伊華雌は満足する。
武内Pの言葉はちゃんと、赤羽根Pの心に届いたのだと思う。
――やれるだけのことは、やったぜ……。
しかし復活できるかどうかは、赤羽根P次第である。
ちゃんと復活できるかどうか、伊華雌には分からない。リア充でイケメンだった人の繊細な心が、果たして再生可能な代物であるのかどうか、そこまでは分からない。リア充に詳しいといっても、リア充と友達だったわけじゃないから……。
――っていうか、誰も友達だったわけじゃ……。
これ以上考えるとメンタルのライフがゼロになってしまうので、伊華雌は考えを中断した。ネトゲで負けそうになった人がランケーブルを引っこ抜くように、思考を切断した。
つまり何が言いたいかというと、赤羽根Pが復活できるかどうか不安であるから、ここからは助っ人のターンが始まる、ということである。
〝武ちゃん、例の人を特殊召喚だ!〟
伊華雌の声に武内Pはうなずいて、スーツのポケットから携帯電話を取り出した。例の人は店内に待機しているようで、すぐに向かうと言ってくれた。
そして――
「じゃんっ♪」
千川ちひろが現れた!
赤羽根Pは混乱した!
「ちょっと二人とも、私だけ仲間外れにするなんてひどいんじゃない? 私たち三人は同期の桜でしょ?」
武内Pが言いたいことをガツンと言って、ちひろにガツンと励ましてもらう。破壊と再生のダブルコンボで赤羽根Pを復活させる。
それが伊華雌と武内Pの作戦であり、ここまでは予想通りであった。
しかし、策士が策に溺れると格言にあるように、現実は思い通りに運ばない。まさかの展開に伊華雌と武内Pは度肝を抜かれることになる。
「みなさーん、お願いしまーす」
千川ちひろは仲間をよんだ。
川島瑞樹が現れた!
片桐早苗が現れた!
姫川友紀が現れた!
三船美優が現れた!
佐藤心が現れた!
赤羽根Pはさらに混乱した!
武内Pも混乱した!
伊華雌も混乱した!
こんな話は聞いてない。来るのはちひろだけだと思っていた。赤羽根Pを励ますにはそれで充分だった。むしろ、千川ちひろ一人でも充分すぎてお釣りがくるぐらいなのに、この面子はオーバーキルにも程がある……。
――これは、アカンやつや……っ!
伊華雌がエセ関西弁で戦慄している間にも、346プロのお姉さまアイドルが群れを成して赤羽根Pに襲いかかる。どこかで一杯ひっかけてきたのか、みな一様に頬が赤く、機嫌が良い。
「まったく、346プロを引っ掻き回してくれちゃって!」
「どういうつもりなのか、キッチリ事情聴取させてもらうからね!」
赤羽根Pの左に川島瑞樹が、右に片桐早苗が座った。笑みをひきつらせる赤羽根Pは、もはやパトカーの後部座席で護送される哀れな犯人にしか見えない。
「とりあえず飲もうぜ! 飲めよ☆」
「あの、なんかすいません……」
「なに謝ってんだよみゆちゃん☆ ほら、みゆちゃんもぐーとっ!」
佐藤心はすでに出来上がっていて、三船美優が人柱のように絡まれている。
「プレイボールっ!」
姫川友紀が持ち込んだ携帯ラジオの電源を入れて、試合が始まる。
赤羽根P対346プロお姉さまアイドル(酒乱状態)という、悪夢のような戦いが……っ!
「店員さーん! お酒とつまみ、じゃんじゃんもってきてーっ!」
川島瑞樹が声を張り上げて、店員は負けじと体育会系の声を張り上げる。
「……実は、武内君から電話をもらった時、ちょうど〝しんでれら〟って居酒屋で女子会をしてたの」
はにかむちひろに、伊華雌は全力でツッコみたい。
――これ、女子会とかいう生ぬるい面子じゃないから! 全然スウィーティーじゃないからっ!
酒気に帯びたお姉さまがたを呆然と眺める伊華雌の脳裏に、過去の飲み会の記憶がよみがえった。346プロのお姉さまと飲んで、果たして相方が無事であった試しはない。いい加減、学習すべきだと思う。居酒屋でお姉さまアイドルと遭遇したら全力で逃げろ! 決して振り向いてはいけないっ!
〝武ちゃん、戦略的撤退だ。この宴会、肝臓がいくつあっても足りないから……っ!〟
武内Pも身の危険を感じていたのか、青ざめた顔でうなずいて、こっそりと立ち上がる。
お姉さま達の視線が赤羽根Pへ向けられている今なら、こっそり抜け出すことが出来るかもしれない。いやむしろ、逃げるなら今しかチャンスは無い。今こそ、最大にして最後のチャンスなのだ……。
武内Pは忍者のような忍び足で、個室から出ようとして、そして〝絶望〟と対面する。
高垣楓が現れた。
武内Pは逃げ出した――。
しかし、まわりこまれてしまったっ!
個室の出入り口を塞ぐ高垣楓に、伊華雌は〝女帝〟という言葉を思い浮かべてしまう。頬を僅かに上気させ、一升瓶をぶら下げて微笑む立ち姿は〝優雅〟の一語に尽きるのだけど、何故だろう……、ラスボスを思わせる迫力に、ひざが震える感覚を思い出してしまう。
「帰れませんよ」
楓は、一升瓶を持ってないほうの手で窓を指差した。
凍てつく外気がガラスを強く曇らせて、降りしきる雪がべったりと張り付いている。どうやら武内Pと赤羽根Pが熱いやり取りをしている
「こんな夜は、夜通し飲まナイト」
武内Pの笑みがひきつっているのは、楓のダジャレが微妙だから、という理由だけではないと思う。
――肝臓死亡のお知らせ……。
伊華雌は心の中でつぶやいて、武内Pの肝臓の冥福を祈った。
* * *
居酒屋で一夜を明かした武内Pが外に出ると、一面の銀世界が広がっていた。
北国めいた光景を前に、ここは本当に新橋なのかと、伊華雌は疑ってしまう。
「うへー、降ったわねー……」
片桐早苗が、子供のように無邪気に笑って白い息を盛大に吐き出した。
「早苗ちゃん、それっ」
川島瑞樹が、雪だまを投げた。
「あっ、やったわね!」
早苗がやり返して、キャッキャウフフなやり取りが始まる。
「あっ、あたしもやるーっ!」
野球大好きな姫川友紀が飛び入り参加して、佐藤心と三船美優は遠巻きに元気なお姉さんを眺めて笑みを浮かべている。
そんな、元気一杯なお姉さまとは対照的に、プロデューサー2人は死んでいた。
ちひろに手を引かれて歩く2人は、まさに〝生ける屍〟という比喩がふさわしい状態で、白坂小梅の審美眼を持ってしてもレベルの高い〝ゾンビ〟であると評価してもらえるんじゃないかと思えるほどにぐったりしていた。耳を澄ませば吐き気を抑えるために「うー……」と唸る声が聞こえて、それがまたゾンビっぽさに拍車をかけている。
「大丈夫ですか?」
上品な笑みを浮かべて気遣う高垣楓が、しかしこの中で一番飲んでいるという事実が伊華雌には信じられない。
肝臓を強化する手術を受けた改造人間なんです、とでも言われたらあっさり信じてしまう。っていうかむしろ、そうでも言ってもらわなければ納得が出来ないほどの、強靭な肝臓であると思う。
――実はこの人、チート転生者で、神さまに〝肝臓を強くしてください〟ってお願いしたんじゃないか? いやでも、それだったらもっと別なもん強くしてもらうか。ピンポイントで〝肝臓〟を強化するとか、どんだけ酒が飲みたいんだって話だし……。
伊華雌が楓の〝酒豪〟スキルについて考察を深めている間に、武内Pと赤羽根Pはクライマックスを迎えていた。
二人仲良く、電信柱に手をついて――。
砲門開け! 射撃準備……、撃てーっ!
おえー…………キラキラキラキラ。
その光景は、しかし珍しくなかった。朝の新橋をぐるり見渡せば、どこかで誰かが電信柱に吐いている。
新橋は、そういう町なのだ。
たまったうっぷんを、飲み過ぎた酒と一緒に吐き出してすっきりさせてくれる、そんな優しい町なのだ。
吐くものを吐いて、お姉さまアイドル達から介抱されている赤羽根Pは、きっと吐き出すことが出来たのだと伊華雌は思う。
だって、朝日に照らされた赤羽根Pの横顔に、生理的な嫌悪感を覚えてしまったから。
伊華雌に理由なく嫌われるということは、つまり〝イケメン〟として復活しつつあるという証拠なのだから。