劇場には〝控え室〟と〝出演者控え室〟がある。
控え室は、それぞれのアイドルがそれぞれのやり方で出演時間まで気持ちを落ち着ける場所である。お菓子を囲んで雑談したり、読みかけていた本を読んだり、TVを見て笑ったり。
出演者控え室は、ステージに直結した部屋であり、張り詰めた緊張感に支配されている。格納庫でエンジンを暖める戦闘機のように、アイドル達は〝ライブステージ〟という戦場に向けてメイクを施し、士気を高めて、観客の視線を一身に浴びる覚悟をきめる。
「お疲れ様です」
出演者控え室に入った武内Pの視線の先。その少女を見て
〝綺麗だ……〟
赤いドレスに身を包み、抜けるほど白い肩を見せる。
「プロデューサーさん、お疲れ様です……」
武内Pを見上げる佐久間まゆは、しかし普段と様子が違っている。もっとも、それが当たり前かもしれない。いかに実戦経験豊富な兵士であっても、休日の住宅街を歩くように戦場を歩くことは出来ない。
特にまゆは、新曲でピアノ弾き語りで、つまりは踏んだことのない大地に足をおろそうとしている。いくらレッスンを重ねたところで、これが〝初めての実戦〟であることに変わりはない。
「震えが、とまらなくて……」
まゆが細い指を伸ばす。小さく、しかし根強い震えが居座っている。
「普段は、こんなこと、ないんですけど……」
このタイミング、だと思った。まゆの緊張をほぐすためにも、今しかないと思って武内Pに伝える。
武内Pはうなずいて、スーツの懐に手を入れて――
「実は、クリスマスプレゼントを用意しました。ですので、その……、メリークリスマス?」
もう伊華雌はツッコまなかった。メリークリスマス? と訊いてしまうのは、プレゼントに不慣れであるために仕方のないことであって、言われて直せるものではない。
それに――
ぎこちないメリークリスマスだからこそ伝わるものがあるかもしれない。慣れないことを頑張っている姿はプレゼントに一層の価値を追加してくれるかもしれない。
「まゆにクリスマスプレゼント、ですか? 嬉しい……」
まゆはプレゼントを受けとると、包装紙を丁寧に開いて、中の箱からネックレスを取り出した。
「可愛いネックレス……」
まゆは武内Pを見上げると、椅子の上を動いて背中を向けて――
「まゆに付けてください、プロデューサーさん……」
武内Pにネックレスを渡すと、後ろ髪を横にずらした。裸の肩が、首が、透き通るほどに白かった。これほどに美しい〝うなじ〟を見たのは初めてだった。〝うなじフェチ〟と書かれた性癖の扉がゆっくりと開いていく……。
「失礼、します」
触れただけで崩れてしまう雪細工のようなうなじに武内Pの手が触れる。彼女の白い首にピンク色のネックレスはよく似合った。
「ありがとうございます、プロデューサーさん。まゆも、お返ししないといけませんね……」
立ち上がったまゆは、いつものまゆだった。愛情の深すぎる笑みに伊華雌は背筋が冷える感覚を思い出してしまう。
「まゆのこと、見ていてくださいね……。ずっと、見ていてくださいね……」
「佐久間さんから目を離しません。約束、します」
まゆも、ゆっくりとうなずいて小指を立てた。その小指は、武内Pの約束を力強く受け止める。さっきまで震えていたのが嘘のように。
「佐久間さん! スタンバイお願いしまーす!」
スタッフの声にまゆはうなずく。赤いドレスをひるがえし、ステージへ続く暗い廊下に歩を進める。
ステージに続く最後の通路である。
数え切れないほどのアイドルが、震える足で通過した。みんな自分に言い聞かせた。絶対大丈夫……。絶対大丈夫……。
姫を守る騎士のようにまゆの横を歩いていた武内Pが、足をとめた。
ここまで、である。プロデューサーの仕事は、ステージの明かりがかすかに届く最後の廊下の切れ目までアイドルを連れてくることである。
あとは、何も出来ない。
交戦直前の戦闘機乗りが仲間に向かって〝グッドラック〟の一言を捧げるように、最後の言葉をもってアイドルの背中を押すことでプロデューサーはその使命を
「ここで、見ています」
光と闇の境界で、まゆはサナギからかえった蝶が誇らしく羽を広げるように微笑んで――
「行ってきます……」
佐久間まゆがステージにあがる。ペンライトの色がドレスと同じ赤で統一されてまゆに熱狂する準備が整う。
「今日は皆さんに、新曲をきいてもらいたいと思います……」
会場が破裂してしまいそうな歓声。それはしかし、すぐに戸惑いのざわめきに代わる。
きっと誰もが思っていた。別の人が座るのだと。クリスマスライブは生演奏のバックバンドが
――その席に、アイドル佐久間まゆが座った。
人の頭はパソコンと同じで、同時に多すぎる情報を入力されると固まってしまう。
赤いドレスで、新曲で、そしてピアノを……ッ?
さっきまで歓声をあげていた口を半開きにしたまま、ペンライトを振るのも忘れて固唾をのむ。もしかしたら、すごいことが始まるのではないかという期待に心臓が強い音を出した瞬間――
「聞いてください。マイスイートハネムーン……」
魂を抜かれてしまったように呆然とまゆを見つめる観客たち。その視線を横顔に受けて、まゆは見つめる――
武内Pが、うなずいた。
ピアノがステージに出現してから。まゆが椅子に座ってから。無意識のうちに待ち焦がれていた音が観客の耳に届く。一音も聞き逃すまいと、観客は耳を澄ませる。どんな歌にもコールとペンライトをかかさない観客が、まゆの奏でるピアノの音にねじ伏せられる。
嫌でも、思い出す。レッスンルームで鍵盤に向かっていた横顔。プロデューサーが来ても気付かないほどに、真剣に、必死に――。
それが今、実を結んでいる。今日のために積み重ねてきたレッスンが、熱意が、今この瞬間の静寂を作りあげている。
歓声をあげることすらためらわれる演奏が、歌声が、心の深いところまで染み込んできて、耳だけでなく、その全身に佐久間まゆの奏でる愛情を感じて――
今、泣いて――?
伊華雌は自分がマイクであることを忘れた。完全に人間の感覚で不意にこぼれた涙に動揺するが、もちろん涙はこぼれていない。あまりにもたくさんの感情が込み上げてきて、それをこらえることが出来なくて、あふれてしまう。
――人はそれを〝感動〟と呼ぶ。
泣けると話題の映画をみても退屈なあくびでしか泣けない伊華雌が、まゆの演奏が続く限り
それでも、曲は終わる。
あっという間だったような、永遠の長きに渡っていたような。
幸せな夢が終わるように、まゆの指が最後の鍵盤に触れてその余韻がゆっくりと頭から爪先を抜けると、
「ありがとうッ!」
誰かが、叫んだ。涙声だった。
続いて何人も何人も、それこそ全員分かもしれない「ありがとうッ!」がまゆへ送られた。
――そして、椅子から立ち上がって頭を下げる彼女へ、壮絶な拍手が送られた。
水しぶきを上げる巨大な滝。爆発する活火山。それは、想像しうる巨大な音を遥かに上回る拍手であって、鳴り止む気配を見せないどころかまゆが微笑むとさらに勢いを増す始末で、引くに引けないまゆは視線でプロデューサーに助けを求めた。
「そろそろ進行をお願いします」
武内Pは無線で川島瑞樹と十時愛梨に助けを求めた。
「はぁーい! 素晴らしい演奏でしたねー!」
「みんなが興奮するのもわかるわー! だけどちょっと落ち着いてねー! 次のアイドルが出番を待ってるのー!」
それでも歓声はとまらない。手を振りながら退場するまゆに再び「ありがとうッ!」の声が重なり、まゆコールがそれに続いた。
「まゆちゃん、す、すごいな……」
次の出演者――星輝子がフヒっと笑う。彼女は完全武装していた。普段からパンクな衣装でステージに上がる彼女だが、今日はいつにも増して気合いが入っている。そのまま世紀末の世界でモヒカンのならず者と一緒にヒャッハーできそうだった。
「き、今日はクリスマスだからな。ほ、本気でやらないと、やられる……ッ!」
わかるわー! 伊華雌の心の中に川島瑞樹が降臨する。そう、クリスマスは完全武装で挑まなければならないのだ。本気で闘わなければならないのだ!
「次のアイドルはー」
「この人よ!」
ステージに向かう星輝子は、まるでリングにあがるプロレスラーのように勇ましい。彼女と入れ替わりに、まゆが戻ってきた。武内Pの前で足をとめると、口元に笑みを残したまま、じっと見つめて――
「まゆ、プロデューサーさんの望むまゆになれましたか……?」
武内Pは、愛の告白でもするかのように真剣な顔で――
「夢中になって、しまいました」
するとまゆは、ぶわっと愛情を膨らませて――
「まゆに、夢中に……ッ!」
――こ、こいつら、いちゃいちゃしやがって!
伊華雌の中に流れる非リアの血が覚醒する。込み上げて渦を巻くどす黒い気持ちを、ステージで叫ぶ彼女が代弁してくれる――
「クリスマスなんてぶっ潰してやるぜぇぇええ――ッ!」
やっぱり輝子ちゃんは最高だぜ!