「マスター、本を読んで欲しいわ」
そういって彼女――ナーサリー・ライムがやってきたのは、夜も更けてそろそろ寝ようかと考えていた頃だった。
チラリと流し見た時刻は午後11時前。普通に暮らしていた頃なら平気で起きていた時間だが、今となってはそうは行かない。レイシフトの疲れを残したまま、次の日を迎えるのは好ましくない。マスターの寝不足でサーヴァントが全力を出せないなんて、笑い話にもならない。
さて、どうやって切り抜けようか……。
「ほら、早く早く」
「あ、こら」
こちらの制止の声も聞かず、ナーサリーはとてとてとベッドに向かってその縁に腰掛けた。両手に大事そうに絵本を抱え、じっとこちらを見つめてくる。足をパタパタさせながら待つ姿は言外に急かされているようで落ち着かない。
「はぁ、しょうがないなぁ」
こうなってしまってはどうしようもない。追い返すのにも一苦労だろうし、何より可哀想だ。それに、期待の眼差しを向ける彼女を裏切るのは性根のまっすぐなマスターには難しかった。
彼女の隣に腰掛けて絵本を受け取ると、ナーサリーは改めて主人の膝の上へと座り直す。これが彼女の読み聞かせの定位置だ。
絵本の表紙にはファンシーなフォントで書かれた『不思議の国のアリス』というタイトル。ナーサリーのお気に入りの絵本であり、すでに何十回と読み聞かせたことのある物語だった。
見慣れた表紙へと目を落とし、絵本を開く。いつものように読み始めると、ナーサリーの瞳がキラキラと輝き出したのを感じる。もう幾度となく読んで聞かせた絵本だろうと、彼女はいつもいつも楽しそうに物語の中へと入り込んでしまうのだ。
φ……
「――お姉さんの声で夢から目覚めたアリスは、とても楽しそうについ先程の夢の話を始めたのでした」
めでたしめでたし、と言って物語は幕を降ろす。パタンと本を閉じると、ぷぅと頬を膨らませた彼女がこちらを振り返る。
「もうマスター、このお話はめでたしめでたしじゃ締まらないわ! いつも言ってるじゃない!」
「あはは、ごめんごめん」
どうにもこの手の童話や昔話には口をついて出てしまう。故郷の性というやつだろうか。
まったくもう、とは言うものの彼女の頬はすでに緩んでおり、ご満悦なのが見てとれる。嬉しそうに体をこちらに預けてくる少女を見ていると、妹でもできたような感覚になる。
とはいえ、彼女のこの姿は少々込み入った事情があるらしい。詳しいことは結局わからずじまいだったが、以前彼女の意思に取り込まれ、一悶着あったのはまだ記憶に新しい。だが、彼女が今の姿に強い思い入れを抱いていることだけは理解していた。
「ふぁぁ……あら、そろそろお眠の時間かしら」
ナーサリーは欠伸とともに時計を見る。そういえば自分も寝ようと思っていたことを思い出した。
「そうだね、だからそろそろ自分の部屋に」
「ねぇマスター、寝物語はいかがかしら?」
「……えーと、はい?」
遮るように言われたナーサリーの言葉に首をかしげると、悪戯っぽく笑ったナーサリーはそのままベッドの中へと潜り込んでしまった。……どうやら、一緒に寝たいというアピールらしい。
早く早く、と興奮した面持ちで急かされる。またも困らされてしまったが、そろそろ素直に寝てしまいたいのも事実。はぁ、とため息を一つ吐いて、今夜はとことん甘やかすことに決めた。
「今日だけだぞ?」
「ふふっ、きっと素敵な夢が見れるわ」
にっこりと笑う彼女につられて、思わずこちらも笑みをこぼしてしまう。
明かりを消して一緒のベッドに入ると、ナーサリーはそっと体を寄せてくる。体の作りこそ人形のような彼女だが、確かな体温がそこにあることを感じる。物語という概念、曖昧な存在である彼女が一人の個として隣にいる。なんとなく理解はしているものの、それはきっともっと自分の想像以上にすごいことなんだろうなと改めて思う。
「……ねぇ、マスター」
「どうかした?」
暗闇に響く鈴のような声に返事を返す。先程までとは打って変わった、少し不安げな含みのある声だった。
「マスターは今、幸せかしら?」
唐突な質問に少し戸惑ってしまう。明かりを消す前の楽しそうな姿からは想像できないような弱気な声音。
どうしてそんなことを、と聞き返したかったが、きゅっと手を握られて言いかけた言葉を飲み込んだ。なんとなく、聞き返すよりも答えを返してあげたほうが良いと感じたから。
「……幸せとは、言えないかな」
暗闇の中、彼女の表情が曇った気がした。
「正直、人理修復とか、最後のマスターとか……身にあまりすぎる役割だって思う。戦うのだって怖い……カルデアに来るまで何にも知らなかった自分がどうしてって、考えたことだってあるよ」
そこまで言うと、ナーサリーは握っていた手を緩めた。そして、そのまま手を離そうとする。
だから
「でもね」
その手をこちらから、掴む。
「マスター……?」
「みんながいるから、俺は立っていられる。マシュやドクター、ダ・ヴィンチちゃん。サーヴァントのみんな……もちろん、ナーサリーだってその一人だ」
掴んだ手を引いて、ナーサリーの小さな体を抱き寄せる。その体の温もりに、自分の心が安らぐのを感じる。
「傍にいるってわかるから。一人じゃないんだって思えるから。俺は戦えるんだ」
本当に、助けてもらってばかりだ。今も、不安そうなのは彼女だったのに、こうして彼女を抱きしめて、安心しているのは自分の方だ。
先の長すぎる、果ての見えない大任の不安に、胸が苦しくない夜なんてない。
結局、甘えているのは自分の方なんだろう。
「だから、俺は――」
この運命は、幸せじゃないかもしれないけど。
「ナーサリーたちと出会えて、幸せだよ」
この出会いは、間違いなく幸せなことなんだと思う。
「……」
腕に抱かれたままのナーサリーは何も言わない。
引き寄せられたまま、胸の中に顔を埋めて黙ったまま。
「私もね、幸せよ」
小さな呟きが耳に届く。
「あの時、わたしは言ったわ」
『――わたしは、わたし、そんなの知ってるわ』
それは、彼女が抱いた葛藤。
『――でも、わたし、ありすがいいの』
それは、彼女が抱いた決意。
『――ありすの姿で、遊びたい』
きゅっと服を握られたのを感じて、彼女の頭をそっと撫でる。いつももらっている安心を、彼女に返すように。
せめて今の彼女が、少しでも幸せでいられるように。
「――ありすの姿で、幸せになりたかったの」
今にも泣き出しそうな声で、絞り出された彼女の言葉。それはきっと、物語である彼女が、たった一人の読者を想って綴ったハッピーエンド。
「でも、幸せは一人だけのものではいけないの。一緒に幸せになってくれる人がいなきゃ意味がないの」
それがきっと、彼女が自分に問いかけた理由なのだろう。
「ありがとう、マスター。
……その日、愛しい愛しい物語とともに最後のマスターは眠りについた。
夢見枕に現れたのは、二人の少女の姿。
白と黒、対照的な服装の双子のように似た少女たちは、手を繋いでいつまでも幸せそうに笑いあっていた。