ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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ふんわりとした肌ざわりのやさしい風に起こされて、
やさしいけれど、深まっていく秋の冷たい風で、わたしは思わず身震いし、開け放っている窓を少しだけ閉じ、体にかけている羽毛布団を鼻の辺まで上げるのだった。
最近どうも疲れ気味のようで、仕事から帰ってくると、どうしようもないダルさに崩れるようにベッドに倒れ込み、あっという間に昏々と夢の中へと迷い込んでしまう。
眠たいからと目を閉じて、だけど食事をしなければ、お風呂に入らなければ、という家事への義務意識で目をこじ開けるものの、眼前に見える物体全てが、現実味を失っており、わたしは何だか絶望する気分で、再び目を閉じて、眠りへと逃亡するのだった。
後、少しだけ――。
わたしはまた、眠りに就く。羽毛布団のぬくもりと、頭を撫でるそよ風のさわやかさを愛おしく抱いて。
◇
「でっかいお寝坊さんですね」
食卓に付いて、アリスちゃんが呆れて言う。わたし達は向かい合って座っていた。わたしは部屋着で、アリスちゃんは制服だ。学校はすでに終わったようだ。
チラッと時計を見れば、すでに午後である。長々と朝寝してしまった。疲れは取れたが、寝すぎた体が硬く軋むようだ。
「お昼、過ぎてますよ」
「うん」
淹れたての熱い紅茶をチビチビ飲む。
「最近、夜以外にお休みになることが多いですが」
「うん」
「でっかいお疲れなんですね」
「まぁね」
コップの半分ほど、紅茶を飲み、ホッとため息とも取れる息を吐くと、首を左右に傾けてストレッチする。
(いつもそうなのだけど、)いささかムスッとした表情のアリスちゃんは、わたしのやや過剰の嫌いのある眠りに懈怠を認めて呆れるか、ないしはわたしの疲労に同情して憐れんでいるようだった。
しばしの沈黙。
わたしはお皿のクッキーを一枚、やはりチビチビと齧るように食べて、快い風の入ってくる窓に清々しい青空を眺め、アリスちゃんは、小動物のように小さく俯いて、物思うように、同じくクッキーを食べているのだった、
「いい天気ねぇ。雲も少なくて」
「歩きますか?」
「え?」
「お散歩。今日はアテナさん、休日ですよね」
「えぇ、そうだけど」
「じゃあ、決まりです」
「決まりって……」
「部屋でじっとしていると、体がナマっちゃいますよ」
――というわけで、半ば強制的に、散歩させられることになった。
アリスちゃんはなぜかウキウキした様子で、いち早く間食を済ませ、今はおめかしにご執心である。そういうお年頃だから、至ってナチュラルなんだけど。
十分くらいして、アリスちゃんが、「アテナさんは、これなんかどうですか」、と服装を提案してきた。
ベージュのキャミソールワンピースを勧めてきたのだが、生地が薄い。
「ちょっと寒そうだけど」
「でっかい大丈夫です」
そう言って、カーディガンを加えてくれる。明るめの褐色で、成るほど、この一枚を重ねれば何となく温かくなりそうだ。
わたしは彼女の勧めに従って、着替えることにした。
アリスちゃんはといえば、下は長いオールド・ブルーのフレアスカートに、上はわたしと同じくカーディガン。だけど色は違って、アリスちゃんのはクリーム色っぽい白。清純っぽくて可愛いと思った。
さて、サッと着替えて姿見で自分の姿を見てみると、わたしは、似合う似合わないは判断できないけど、とにかくしっくり来る気がした。
「どうですか」、とアリスちゃんが後ろから覗き込む。
「うん。ばっちり」
「よかった」
アリスちゃんは、さっきのムスッとした表情が嘘だったかのように、ニッコリと笑った。
◇
眠りに慣れた体を運ぶのは骨だった。足取りが重く、まるでアリスちゃんの付き人のように、わたしは彼女より半歩ほど遅れて歩いた。
だが、日和がよく、ネオ・ヴェネツィアの街路を歩いていると、とても爽快だった。
気分がよくなって、にこやかにこの秋晴れの一日を賞賛しようかと思ったが、途端に悪いものをハッと思い出し、見えない暗雲が一挙に垂れ込め、憂鬱に目蓋が下がってきそうになった。
唐突に立ち止まったわたしを、先を行くアリスちゃんは怪訝そうに振り返る。
「どうかしましたか?」
「仕事がね――」
歩いては話が出来ないと思ったわたしは、言いかけて、周囲にどこか落ち着いて話せるところがないか見回した。
すると、小さい教会の前に、車止めがあり、その下に階段があったので、わたしはアリスちゃんと一緒に、その階段に座ることにした。
最初はためらいがあったが、アリスちゃんの顔を見ていると、矢も楯もたまらず、聞いて貰いたくなって、思い切って、胸中のわだかまりを吐露した。
「――そういうわけだったんですね」
仕事がうまく行かないと打ち明けたのだった。そして仕事上の課題をうまく解決出来ずに延々とくすぶっていて、ずっと思い悩んでいるのだった。
「道理でここ最近、様子がおかしかったんですね」
「うん。ごめんね」
「別に、謝らなくったって……」
「何か、自信喪失しちゃってさ、まだ、発作的に眠くなることがあるんだ。目の前が真っ白になるみたいに」
わたしは目を瞑る。その刹那、考える。思い起こす。憂鬱。不安。無力感。真っ暗闇。
「けど――」
わたしは目を開く。彼方にある美しい夕日が瞳に差し込んでくる。腰を上げて、その光を、ウンと伸びをして全身で浴びる。
「アリスちゃんに今日こうして連れ出して貰って、何か気分転換になったと思うわ」
ありがとう、とわたしは首だけで振り返ってアリスちゃんに言う。
すると、アリスちゃんは、出かける前に見せてくれたあの笑顔でどういたしまして、と返してくれる。
「誰にだって、伸び悩むことはあるでしょう」、と彼女は落ち着いた調子で言う。「でも、時間は常に前に進むわけです。希望、解決、進展を望めば、神様はいいように導いてくださるはずです」
わたしは正面に向き直る。
彼方に浮かんでいた夕日は、すでに頂点を過ぎ、低くなり、いよいよ水平線を目指して、建物の陰に隠れようとしている。
また、わたしは眠気を覚える。だが、今度のは憂わしさより逃避しようとする眠りの眠気ではなく、うっとりとした、遊び疲れた子供が感じるのに似た、そういう温かい、やさしい眠気なのだった。
(終)