ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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行ってきます――
籐のバスケットを携えたわたしは、勝手口の扉を開け、そうアリシアさんのいる方に首だけで振り返り、気持ち大きめに声をかけた。
行ってらっしゃい、と、アリシアさんは溌剌とした声できちんと返してくれた。
安堵し、扉を閉めると、外に満ちるムッとした空気を全身で感じた。
その日は天気が安定しなかった。もともと予報になかった雨が、そこそこ強い勢いで降ったものの、その後一転してすぐに上がり、それまでの雨が嘘だったかのように晴れ、真夏の暑気が火天の光輝と共に地面の雨を急速に蒸発させ、辺りは蒸し風呂のようになった。全身から汗が噴き出して来、空気がべたべたしてひどく居心地が悪かった。
だけど、こうでなきゃ、とわたしは思う。
何せ、夏なのだ。涼しかったり乾燥したりしていては、らしくない。どれだけ疲弊させる気候であっても、夏にはその苛烈さを思う存分、解き放って貰いたい。(と思う一方で、農家の人たちの困った顔が何となく目に浮かぶのだった。)
勝手口を出れば、テラスである。岸辺に浮かぶARIAカンパニーの社屋を囲っている。
オレンジ色の夕日が照っている。
わたしは手摺まで近付くと、その眩しさを手でひさしを作って弱め、海原を望んだ。
その風景はわたしの目を奪った。
まず入道雲が目に入った。普段あまり見ないくらい発達した入道雲で、ずば抜けて雄大で、空恐ろしくさえあった。夕日の光輝を受けて、向こう側は紅色に染まり、そしてこちら側は、陰になっているのだった。その入道雲は、大木があまねく枝に葉を茂らせるように、みずからをもくもくと複雑に肥大化させ、その存在感は圧倒的だった。
そしてオールド・ブルーの海。暮れかけの空の下で水平線の辺はすっかり暗くなっているものの、手前の方はまだ明るさを保っており、壮観の空模様をその水面に、ざらついた反映として映しているのだった。
額に浮かぶ汗を指で拭って、わたしは、その風景を眺めることで、何だか優しい気持ちになってくるのだった。
ガラガラという騒がしい音がして、わたしは陶酔境より我に返った。
シャッターの開く音だ。ARIAカンパニーの受付になっている。すぐそばにある。わたしは振り向いた。
「アリシアさん」
彼女は、カウンターになっているその受付に前のめりになって、片肘を突いて微笑んでいる。
「あらあら。今日の夕焼けはすごいわね」
「はひ。きれいというか、雄大というか、とにかく見ごたえがあります」
「何となくそういう気配がしてね。見てみようって思って」
「そうだったんですね」
「グランマは絶好のロケーションにARIAカンパニーをつくってくれたわ」
「そうですね。ただ、海が荒れた時とかはちょっぴり怖いですけど。大波が打ち寄せてきたりして」
「
――風が吹く。そよ風だ。アリシアさんの微笑みのようにやさしい風。サッと流れて、彼女の髪を優美になびかせる。
そうだ。
わたしは思い出す。
アリシアさんに、用事を頼まれたのだ。
鮮やかに輝く、怖いほど圧巻の入道雲を抱く夕焼けがきっかけの話を切り上げ、わたしは改めて行ってきますと告げ、遅れて出かける。
グランマが起業しようと決めた、絶好のロケーション。
わたしは少し歩き出して、振り返る。翳りを帯びたARIAカンパニー。寂しげに佇んでいる。
夏の遅い日没の寂寞とした哀感、そのしみじみした味わいを、口いっぱいに味わう。
まるで、感動した映画が幕を下ろしてしまう時に似た――
水路に沿って歩く。細い道。流水の音色はとても静謐だ。傾いた日の光は家並に遮られて届かない。空とその模様を反映する水路の水面だけが辛うじて明るく、建物の壁や地面はすっかり陰に覆われている。
暗がりに不安・心細さが募ると、ポッとこぞって点灯する壁掛けの街路灯。心まで押し寄せる暗がりをパッと退けて、安らげる温もりをくれる。
屋根に阻まれて見えないが、あの雲――あの大樹めいた巨怪の入道雲は、どうなっただろう。大気の流れの中で、変形して、小さくおとなしくなっただろうか。あるいは更に大きくなって、沖合で雷雨を激甚に散らせたりしているだろうか。
あの入道雲の姿は、わたしの記憶にまだ鮮明に残っている。何となれば、さっき見たばかりなのだ。だが、いずれ消えるか、消えないにしろ、次第におぼろげに、不確かに、曖昧になっていくだろう。印象的だったのなら、写真に撮るなりして保存するのがよかったかも知れない。
夏の、気まぐれに雨が降って上がった、蒸し暑いある日の夕べに見た、大きい、とても大きい入道雲。夕日の方は赤くて、そうでない方は深い灰色で。オールド・ブルーの海原を、わたしたちが生きるのより遥かに遅く、緩やかで、じっくりとした足取りで、風の導きに従って進んでいく。
わたしは記憶を通して、その様をまだしんみり眺めている。いずれ薄らぎ、消失することを予覚して。
そしてわたしは、未来、あの雲が残していった、中が空白の《
壁掛けの街路灯の明かり越しに見上げる空は、まだ何となく、青く、くすんでいた。
(終)