ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.93「入道雲を眺めて」

***

 

 

 

 行ってきます――

 

 籐のバスケットを携えたわたしは、勝手口の扉を開け、そうアリシアさんのいる方に首だけで振り返り、気持ち大きめに声をかけた。

 

 行ってらっしゃい、と、アリシアさんは溌剌とした声できちんと返してくれた。

 

 安堵し、扉を閉めると、外に満ちるムッとした空気を全身で感じた。

 

 その日は天気が安定しなかった。もともと予報になかった雨が、そこそこ強い勢いで降ったものの、その後一転してすぐに上がり、それまでの雨が嘘だったかのように晴れ、真夏の暑気が火天の光輝と共に地面の雨を急速に蒸発させ、辺りは蒸し風呂のようになった。全身から汗が噴き出して来、空気がべたべたしてひどく居心地が悪かった。

 

 だけど、こうでなきゃ、とわたしは思う。

 

 何せ、夏なのだ。涼しかったり乾燥したりしていては、らしくない。どれだけ疲弊させる気候であっても、夏にはその苛烈さを思う存分、解き放って貰いたい。(と思う一方で、農家の人たちの困った顔が何となく目に浮かぶのだった。)

 

 勝手口を出れば、テラスである。岸辺に浮かぶARIAカンパニーの社屋を囲っている。

 

 オレンジ色の夕日が照っている。

 

 わたしは手摺まで近付くと、その眩しさを手でひさしを作って弱め、海原を望んだ。

 

 その風景はわたしの目を奪った。

 

 まず入道雲が目に入った。普段あまり見ないくらい発達した入道雲で、ずば抜けて雄大で、空恐ろしくさえあった。夕日の光輝を受けて、向こう側は紅色に染まり、そしてこちら側は、陰になっているのだった。その入道雲は、大木があまねく枝に葉を茂らせるように、みずからをもくもくと複雑に肥大化させ、その存在感は圧倒的だった。

 

 そしてオールド・ブルーの海。暮れかけの空の下で水平線の辺はすっかり暗くなっているものの、手前の方はまだ明るさを保っており、壮観の空模様をその水面に、ざらついた反映として映しているのだった。

 

 額に浮かぶ汗を指で拭って、わたしは、その風景を眺めることで、何だか優しい気持ちになってくるのだった。

 

 ガラガラという騒がしい音がして、わたしは陶酔境より我に返った。

 

 シャッターの開く音だ。ARIAカンパニーの受付になっている。すぐそばにある。わたしは振り向いた。

 

「アリシアさん」

 

 彼女は、カウンターになっているその受付に前のめりになって、片肘を突いて微笑んでいる。

 

「あらあら。今日の夕焼けはすごいわね」

 

「はひ。きれいというか、雄大というか、とにかく見ごたえがあります」

 

「何となくそういう気配がしてね。見てみようって思って」

 

「そうだったんですね」

 

「グランマは絶好のロケーションにARIAカンパニーをつくってくれたわ」

 

「そうですね。ただ、海が荒れた時とかはちょっぴり怖いですけど。大波が打ち寄せてきたりして」

 

離岸堤(リーフ)があるから、だいじょうぶよ。その点は、グランマはちゃんと下調べしてる」

 

 ――風が吹く。そよ風だ。アリシアさんの微笑みのようにやさしい風。サッと流れて、彼女の髪を優美になびかせる。

 

 そうだ。

 

 わたしは思い出す。

 

 アリシアさんに、用事を頼まれたのだ。

 

 鮮やかに輝く、怖いほど圧巻の入道雲を抱く夕焼けがきっかけの話を切り上げ、わたしは改めて行ってきますと告げ、遅れて出かける。

 

 グランマが起業しようと決めた、絶好のロケーション。

 

 わたしは少し歩き出して、振り返る。翳りを帯びたARIAカンパニー。寂しげに佇んでいる。

 

 夏の遅い日没の寂寞とした哀感、そのしみじみした味わいを、口いっぱいに味わう。

 

 まるで、感動した映画が幕を下ろしてしまう時に似た――

 

 水路に沿って歩く。細い道。流水の音色はとても静謐だ。傾いた日の光は家並に遮られて届かない。空とその模様を反映する水路の水面だけが辛うじて明るく、建物の壁や地面はすっかり陰に覆われている。

 

 暗がりに不安・心細さが募ると、ポッとこぞって点灯する壁掛けの街路灯。心まで押し寄せる暗がりをパッと退けて、安らげる温もりをくれる。

 

 屋根に阻まれて見えないが、あの雲――あの大樹めいた巨怪の入道雲は、どうなっただろう。大気の流れの中で、変形して、小さくおとなしくなっただろうか。あるいは更に大きくなって、沖合で雷雨を激甚に散らせたりしているだろうか。

 

 あの入道雲の姿は、わたしの記憶にまだ鮮明に残っている。何となれば、さっき見たばかりなのだ。だが、いずれ消えるか、消えないにしろ、次第におぼろげに、不確かに、曖昧になっていくだろう。印象的だったのなら、写真に撮るなりして保存するのがよかったかも知れない。

 

 夏の、気まぐれに雨が降って上がった、蒸し暑いある日の夕べに見た、大きい、とても大きい入道雲。夕日の方は赤くて、そうでない方は深い灰色で。オールド・ブルーの海原を、わたしたちが生きるのより遥かに遅く、緩やかで、じっくりとした足取りで、風の導きに従って進んでいく。

 

 わたしは記憶を通して、その様をまだしんみり眺めている。いずれ薄らぎ、消失することを予覚して。

 

 そしてわたしは、未来、あの雲が残していった、中が空白の《(フレーム)》に、以後自分が同じ季節に見て印象に残った雲をあてはめていくことになるだろう。

 

 壁掛けの街路灯の明かり越しに見上げる空は、まだ何となく、青く、くすんでいた。

 

 

 

(終)


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