ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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さて、まずは何から話せばいいだろう?
姫屋の自室のバルコニーに出ていたわたしは、ガラス窓に背を持たせ、ラフに地べたに胡坐を組んで空を見上げていた。
風が涼しく、またサラサラと適度に空気の乾いた過ごしよい晴れた秋の夜だった。それまで夏のベタベタ蒸し暑い気候が続いていたので、大いに気が安らぐようだった。
事情は、ちょっと複雑だ。
姫屋の前の通りを挟んである海は、波の音を繰り返し響かせている。
「星がきれい」
そう呟くと、わたしは下ろしていた手の片方をおもむろに上げ、広い空に浮かぶ五個の星を指で繋いだ。カシオペヤ座。秋の星座だ。その昔、みずからの美貌に思い上がり、他者をけなしたことで、後でひどい目に合ったという伝説がある。
そう、思い上がっていた。わたしも、思い上がって、そして――
友達を傷付けた。
「ハァ……」
しおしおと俯いてため息を吐くと、わたしは星座をなぞった指を、まるで力を失ったように落下させた。手の甲をアスファルトに打ち付け、少々痛かった。
「だけど、あの子はわたしよりずっと痛かった。辛かった。」
泣きだしたい気分だった。だが、自分なんかが泣いたところで、何になるだろう。自分は『加害者』であって、被害者ではないのだ。加害者はただ、謝罪し、報償し、反省するだけだ。涙を流す余地などありはしない。罪を贖うということは、とても峻厳なのだ。
わたしはまた空を見上げた。優しい空だった。深いネイビーに染まって、淡い光芒が無数に散らばっていて……。
あの中に溶けて沈んでしまいたい気分だった。消えたかった。いなくなりたかった。それくらい、自分のことが、疎ましかった。
今はすっかり夜更けだ。辺りは静まり返って、海の音を除けば他は何も聞こえない。姫屋の人たちは就寝して、晃さんも、きっと眠っているに違いない。
誰もが寝ている夜中に独り起きているというのは、なかなか心細くさせるものだ。
ガラス窓を隔ててある背後の部屋は、真っ暗だ。結局、わたしは寝付けず、こうして外に出て、夜気を浴びて、ちょっとリラックスしようと思ったのだ。
「あ~ぁ」
こういう風に、慨然と嘆く独り言を呟くことが多くなった。
――まさか、自分が友達を裏切るなどとは思いも寄らなかった。
裏切ったのは、その子の好意に対してだった。
ARIAカンパニーの、
ある日を境に、わたしは「おはよう」などの挨拶を彼女にされても、返さなくなった。無視するようになったのだ。
細かいことがあった。わたしは悪意で灯里を無視したのではない。少なくとも、わたしはそう自身に対して思っている。何も意地悪をしたくて、そういう振る舞いをしだしたのではない。灯里と何度も接する中で、こまごまとした、違和感、不快感――いわゆるストレスに直結するものがあった。
そのストレスは、わたしの中に、わたしが覚知しないところで累積し、徐々にその嵩を高くし、そしてある日、風船が破裂するように、パッと弾けてしまったのだ。
その後、挨拶を無視するようになり、灯里はやはり、不審がり、お互いの関係は疎遠になりだした。
ひょっとすると、その累積していたストレスを、雪かきにおいてスコップで雪をすくってやるように、取り除けばよかったのだろうか。だとすれば、どうやって? ストレスの軽減と、雪かきとは、まるで違う。
――実は、だけど、既にぜんぶ解決しているのだ。解決してしまったのだ。
わたしは執拗に灯里を避け続けたのだけど、あるきっかけがあって、わたしが築いていた離反の壁が粉々に砕けた。わたしは我に返ったように、あっけなく罪悪感を持ち始め、その胸苦しさに耐えきれずに、頭を下げた。
すると灯里は、それまでわたしのよそよそしい挙止に対して、何となく不審がるように、また対抗するように、反応していたのに、存外気にしていなかったらしく、むしろわたしの吐露と謝罪にびっくりして、当惑していた。わたしは泣きたいほどの申し訳なさを抱えて勇気を出して「ごめんなさい」と言いに行ったのに、その手応えを得るどころか、かえって当惑させて、何だか、滑稽だった。
「ぜんぜん笑えなかったけどね」
わたしは口元を微かに緩め、カシオペヤ座を眺めた。
「あ~ぁ」
――まただ。
解決したというのに、この納得しない、満足がいっていない感じはいったい何なんだろう。
わたしは気を張っていた。灯里への敵意か何かが生じて、彼女に近付かないように、また近寄らせないようにという、命令か、警告か、指示を下した。
わたしはその自身が発するシグナルに従い、みずからの周りに防壁を設けた。もちろん、形而上の話だ。
だが、先述の通り、あるきっかけがあって、その防壁は、まるで書き割りのように、脆く崩れ去った。
そのきっかけというのは、こういうものだった。
やはり灯里からの逃避という行動を続けている最中、わたしは忘れ物をした。うんざりするほど暑い夏の話だ。ほんの数週間前のことだ。ゴンドラを操る練習で水路に単独で出ていたわたしは、その日のメニューをすっかり終えると、姫屋へ帰った。帰り道は、なるべくARIAカンパニーのそばを通らないで済むように頭を使った。たとえ遠回りになるとしても、灯里がいるであろうと思われるゾーンには足を踏み入れなかった。その点にわたしは全神経を集中させ、油断のないよう、入念に自分の動きを練った。(しかし、ずいぶん疲れさせることだった。)
姫屋に帰り、今日も灯里の顔を見ずに済んだとホッと一息付いたところで、来客があった。姫屋の他の従業員の女の子が、わたしの部屋を訪れ、知らせた。彼女は灯里が来ていると言った。わたしは顔をしかめた。一体何の用だと、半ば憤慨して、自室のカーテンの隙間よりこっそり覗いてみると、桃色の彼女が見下ろされた。
わたしはハッとした。灯里は、何かを携えていた。わたしは見覚えがあった。しまったと、わたしは自分の不覚を思い知り、後悔した。
夕暮れ時だった。夏の、暑い夕べだった。
「これ、藍華ちゃんのじゃない?」
しぶしぶ出迎えると、いつもの微笑みを浮かべたのとは違う、随分冷ややかに――というよりは、冷静に?――真面目くさった表情の灯里がそう言って、携えているものを差し出す。
「あぁ」
水筒だった。暑いからと毎日お茶を入れて携行していたのだった。たまたま忘れてしまったのだった。
「はい、渡しておくね」
「あぁ」
わたしは水筒を受け取る。
灯里は手短に要件を澄ますと、プイときびすを返して帰っていった。
すぐさま「ごめん」と、忘れ物を届けに来てくれたことへの詫びの言葉を述べたが、むなしく散ったようだった。
――わたしに気を遣っているのだろうか?
そう、不安と共に推測した瞬間、わたしの中にそびえていたものが倒れた。わたしが尊大に作り上げた自衛と訴求の拠点が崩壊した。自分を守るものを失ったわたしは一気に心細くなり、ほとんど憔悴して、灯里のもとへと戻り、友情の復活への渇望から、謝罪した。ところが、灯里は、やっぱり、思い当たるところがなくて、怪訝がる風なのであった。
――さて、どう説明すればいいだろう?
分からない。
事情は、複雑なのだ。
そろそろ、ベッドに戻ろうか。
日付は、すでに代わっている。
カシオペヤが居座る位置が、じゃっかん移動したようだ。
わたしは重い腰を上げ、立ち上がる。
明日は、灯里とまた、仲良く出来るだろうか? 彼女は、別に何ともないと言ってはくれたけど。
わたしは、途方もない脆弱さをはらんでいる自分の胸に、そっと優しく手を添えて、考えた。
星が、ほんとうにきれいだった。
(終)