ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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今日はどうも、風が強い日のようで、わたしの漕ぐゴンドラは、追い波の煽りを受けて、不安定な仕方で前に進まされた。オールで制御しようにも、困難だった。
幸い今日は、ゴンドラにはお客様を乗せていなかった。もし乗せていれば、不快に思われたに違いない。本来着用しないといけない制帽も、ちょくちょく吹き飛ばされそうになるので、脱がざるを得なかった。
何とも、ゴンドラの漕ぎ手達にとって不利な一日だったように思える。休業する店も、何店舗かあるようだった。晃ちゃんの姫屋も、オーナーの一存で、急きょ営業を休止することになったという知らせを、今朝、晃ちゃんよりメールで受けた。
「でっかいウィンディでしたね」
「……ウンディーネ?」
「風が強いっていう意味の言葉ですよ、アテナ先輩」
「あぁ、そうだったの」
本当にその言葉に無知だったので、蒙が開かれた。アリスちゃんは賢いのだなぁ、と素直に感心した。
しかし、まぁ、当たり前と言えば当たり前なのかも知れない。なぜというに、アリスちゃんは水先案内人の研修生であると同時に、学生なのだ。今わたし達のいるオレンジ・ぷらねっとの居室には、彼女の机があるが、その自在棚には、アカデミックな書籍が詰まっている。
「ウンディーネと響きが似てて、勘違いしちゃったわ」
「……」
机に付いているアリスちゃんは、呆れた眼差しで、わたしを振り返っている。
わたしはぼんやりとして、窓辺の椅子に座り、夕方のネオ・ヴェネツィアに目をやる。窓には、海に向かって開けたビューが、彼方の水平線まで望遠される。
「そういえば、アテナ先輩」
アリスちゃんが、何か思い出したように、呼びかけてくる。
「うん」
わたしは、何を言うのか気になって答える。
「帽子」
「……」
「ウンディーネのお帽子、脱いだって言ってましたけど、結局ちゃんと、持って帰ってきたんですか」
わたしはハッとする。そういえば、そうだ。風が強くて脱いだあの、白いリボン付きの制帽が、ない。部屋のどこにも見えない。忘れてきたのだろうか。
ハァ、とため息を吐くのはわたしでなく、アリスちゃん。
「でっかい忘れん坊さんですね」
「探してくるわ」
わたしは椅子より立ち上がる。
「もう日が暮れちゃいますよ。秋の日暮れはでっかい早いですよ」
「でも、あの帽子がないと」
「分かってますよ。わたしも手伝います」
「きっと、わたしが乗ったゴンドラに置き去りになってると思うわ」
「そうですね。じゃ、船着き場まで行きましょう」
そういうわけで、わたしとアリスちゃんは、足並みを揃えて探し物に繰り出していった。
無知を拓かれ、遺失を悟され、今日は、アリスちゃんに負い目を感じてしまう日になりそうだ。風の強い、そう、ウィンディ、な日――大丈夫、合ってる?
帽子、遠くに飛ばされていなければ、いいのだけど。
***
結局、船着き場に行ったけど、わたしの乗ったゴンドラに、帽子のないことが分かった。浅瀬を示す棒の並ぶ船着き場では、何艘かのゴンドラが、気だるそうに波にユラユラしている。
わたしは悄然として棒立ちし、アリスちゃんは、推理でもするように指で顎をさすった。
「風で飛ばされちゃったのかしら」
「可能性は高いですね」
「どうしよう。海に落ちて、沖まで流れていったのかも知れない」
ムゥ、とアリスちゃんは困るように小さく唸った。
風は強く吹き続ける。
わたし達は戸惑い果てた後、手分けして探すことにし、わたしはゴンドラに乗って水上へ、アリスちゃんは、内地の方へ飛ばされたことを考慮してその方へ、それぞれ向かった。
アリスちゃんはたぶん、ビルの物陰とか探して、時には通行人に尋ねるかも知れない。彼女のことだ、最善を尽くしてくれるに違いない。
他方わたしは、愚昧なわたしは、ただ闇雲に水上を行き、波にざわめく水面を見下ろすばかりだった。探し物するにしては、何とも不毛なやり方のように思えた。しかし、他に方法がなかった。他に方法を知らなかった。
風は依然吹く。吹き続ける風は、夜を運んでくる。
辺りが暗くなる。あらゆる物が秋の夜寒に陰を纏う。わたしは何の成果さえ得ず、船着き場に戻り、アリスちゃんと合流する。聞けば、アリスちゃんも、成果はないようだった。
帽子、一体どこに行ってしまったのだろう。
悔やむ気持ちを抱えて、わたしはアリスちゃんと共に、オレンジ・ぷらねっとまで帰った。
***
すっかり消灯した、静けさに充ちた居室。
アテナがすやすやと寝息を立てている。帽子をなくして狼狽していた割に、安眠している。きっと、動じない性格なのだろう。そう、同居している彼女は、やはり呆れと共に思った。
ズラリと書籍の並ぶ机。その机では、アリスが寝ないでいた。彼女は一冊開き、ノートに向かっていた。勉強にいそしんでいるのだ。
学生と言えど、ウンディーネを兼ねているため、勉強に割ける時間は、同級生と比べて多くない。
確かに地頭のいい彼女だが、その地頭は、このような深夜まで及ぶ勉強によって維持されているのだ。恐らくその事実は、同級生達は知らないことだろう。彼等は、アリスが天才であるという噂を鵜呑みにして、誤認して、その才が天与の完成されたものだという風に思い込んでいた。
そんな同級生しかいないわけでは、実際なかったけれど、多くいることは否定出来なかった。
風はやんでいた。ずっとやまずにいたあのやんちゃな風達も、夜が更ければ大人しい眠り子となるわけだ。
ペンを握り、書籍が示す重要なポイントを記していくアリス。
やがて集中力が切れ、インターバルの時が訪れる。ノートより顔を上げ、ペンを下ろし、一息吐く。
アリスは、目がしょぼしょぼする感じを覚えた。どうも眠たいようだ。そろそろ切り上げて眠ろう、とそう考えた。
彼女は、窓の方に目をやった。暗さに染まったガラス。そこには、スタンドの明かりがある机付近の模様が反映している。アリスの小柄な姿と、机と、その他諸々。他は闇だった。
そんなガラスの面に、急に光が広がり、ある人影が、ぼんやりと浮かんできた。
不思議に思って、アリスは目を見張った。
人影はアテナだった。彼女は多数の制服を着た、ウンディーネと思しき者達の中におり、前に進み出て、威厳のある一人と向かい合う。アテナは丁寧に頭を下げ、ある物を受け取る。よく見ると、帽子だった。ウンディーネの、あの、アテナがなくした制帽だった。
そのビジョンは、アリスは、アテナの遠い過去の記憶だと感じた。昔、じぶんのようにウンディーネになる時、アテナは儀式に参加したのだ。彼女は決心し、夢を定め、制服を貰い、そして制帽も貰ったのだ。そうして彼女は、ウンディーネになる用意を万端、整えたのだ。
アリスは何だか感慨深い気分になった。
が、ある異変がガラスに起こり、アリスは注意を起こされた。
アテナに手渡された帽子が、宙を舞い、落ちていったのだ。帽子は、ガラスの範囲でくるりと舞うと、枯れ葉のような軌道でふわふわと、その範囲外へと落下して行った。
ビジョンはピタリと停止して、動かない。アテナは手を差し出して、向かいの人物は微笑んでいる。だが、アテナの手には何もない。
アリスは勘が働いて、机より立つと、居室を出、深夜のネオ・ヴェネツィアへと向かっていった。
***
目を開けると、明るい居室の天井が見えた。よく晴れた日であることがすぐ察知される。快い冴えた空気が居室に溢れている。
わたしは、さっぱりとした気分で体を起こした。頭に触れると、寝癖の付いていることが分かった。襟足の辺が、ぴょんと跳ねている。後で、直さないと。
寝癖を執拗にいじって、ある方に目をやる。アリスちゃんが寝ている。時計は毎朝わたしの起きる時間を示している。特別遅いわけでも、早いわけでもない。だが、何となく、アリスちゃんは当分目が覚めないという気がした。ゆうべ彼女は机に向かっていたし、寝付く時間が遅かった。
「今日も、ウィンディなのかしら」
そう呟いて、窓辺を見る。ガラスは光の色に染まっていた。秋の日の光はとても澄んでいて、うっとりするほどだった。
何となく、夢見ていた気がする。どんな夢だったかは、定かでない。夢というのは覚めた瞬間急速におぼろげになっていく。夢が残す痕跡は、本当に微かなものだ。
わたしは、誰かの前に立って、何か待ち受けていた。こう、手を差し出して――
目を瞑って夢を再現しようとした途端、わたしは手の上に何かの存在を感じた。感触がする。そっぽを向いていて気付かなかったけど、今ようやく気付いた。
――帽子だ。昨日なくした、ウンディーネの制帽。リボン付きの。
どうして、と疑問に思う。そしてひょっとして、とも思い、アリスちゃんを見遣る。
「まさかね」
思わず苦笑する。何というファンタジーを考えるのだろう。よもやアリスちゃんが、わざわざ探しに行ってくれたとは思えない。彼女は勉強していたし、その他ににすることなどなく、そもそも、そんな余裕はなかったはずだ。わたしだって、彼女に無理させることは全く望まなかった。
が、彼女の机では、ノートが開きっぱなしだ。普段きちんと片付けるというのに、ゆうべはどうしたのだろう。
考えたところで、仕方がない。大体、考える必要などない。今、手にはあの求めていた、失われていたものが戻っており、万事欠けているところ、変わっているところはないのだ。アリスちゃんが、いやに長寝することを除いて。
きのうは風が強かった。嵐でもやってきていたのだろうか? 晃ちゃんのメールでも、ニュースでも、そんな話はなかった。
わたしを困らせ、わたしの元にトラブルを運んだあの風は、今日は鳴りをひそめている。
帽子は、きっとアリスちゃんが見つけてくれたのだろう。横着なわたしのことだ、なくしたと思い込んでいたけど、実際は近くにあって、だけどすっかり覚えがなくて、勘違いしたのだ。
アリスちゃんには迷惑をかけた。後でごめんと言わないと。
ふと、あるイメージが浮かんでくる。わたしは、オレンジ・ぷらねっとの入社式に参列している。周りにはウンディーネを目指す乙女達が、パリッとした白衣に身を包んで、整列している。
わたしは名を呼ばれ、前に進み出る。向かいにいるのはアリスちゃん。
「アテナさん、帽子、ありましたよ」
彼女は微笑んで差し出す。
「あぁ、本当、どうもありがとう」
わたしは頭を下げ、帽子を受け取る。
わたしが見たと思う夢は、ひょっとすると、そんな風な夢だったのかも知れない。何とも麗しい夢だ。
冴えわたる空。点々と浮かぶ雲。
わたしは、微かに、なくしていた帽子に、潮風の香りを嗅ぐ気がした。
(終)