ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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洗濯物をぜんぶ干し終えて、
「……。」
椅子の背もたれに思い切り背中を押し付け、両腕を後頭部の辺で組み、うんと伸びをする。
蒸し暑い日和だった。ジワッと滲み出すように出てくる汗がてんで引かない。
ホントは、今のネオ・ヴェネツィアは雨季で、しつこいくらい雨が降っているはずで、そうでなくったって、空がどんよりしているはずなのに、なぜか晴れている。
そういうわけで、わたしは今日急きょ洗濯機を動かし、溜まっていた汚れ物をまとめて洗濯して、そしてちょっとくたびれてしまい、今こうしてぼんやりしているのだった。
天気というのは
気象予報士のひとは大変だろう。
チラッとすぐそばのベランダに通じる窓から、空模様を窺ってみる。だが、さっき干したばかりの、風になびいている、うっすらと洗濯洗剤の香りをふわっと漂わせる洗濯物の隙間から見えるのは、青空だ。――テレビを付けて見てみれば、天気予報も、しばらく晴れが続くと伝えている。
信頼するに足るとは思えないが、まぁ予報は予報であって、予知などではないわけで、外れたとしても、仕方のないことだ。
そばで首をゆっくりと振る扇風機の風が涼しい。
光の色がくすんでいる。もう夕方だ。
夜ごはんの買い物に行こうか、と考える。あるいは、少し汗でべたついた体をさっとシャワーで流してしまってからにするか――
「どうしようかなぁ」
思い切り仰け反って、天井を見るともなしに見上げる。
献立を考えるのはけっこう面倒くさいものだ。かといって億劫がって買い物に行かないと、食べるものがなくなってしまう。灯里や晃さんに物乞いするわけには行かないし。
「やれやれ」
そう呟くわたしは、何だか眠たい気がした。ベッドの方に意識が向かい、フカフカのお布団に体を横たえて、蒸し暑い感じを扇風機の強風で癒して、夢見心地でウトウトする……あぁ、何と甘い誘惑だろう!
「だけど」
力を込めてそう呟き、椅子より立ち上がる。
「夕方になっちゃったのよね。お日様といっしょに寝るわけには行かない。お昼寝禁止!」
そう自身をピシッと戒め、腰の両側に手を置き、目を瞑って、またうんと伸びをする。
ハァ、と深呼吸。目を開く。
散歩がてら、ARIAカンパニーでも行こうかなぁ。灯里に会いに。
心中で、これからの筋道を固める。
さっきちょっと考えたけど、シャワーは、結局浴びないことにした。
◇
ネオ・ヴェネツィアの街路は盛況だった。気まぐれに恵与された貴い晴れ間に、今がチャンスと皆、思う様、羽目を外しているのだろう。
子連れの家族などはまだしも、大っぴらにイチャイチャするカップルがいて、視線のやり場に困ったりしたけど、泰然自若に努めて、気晴らしとしての、また目覚ましとしての散歩を、財布とメモ用紙の入った買い物袋を携えて楽しんだ。
水の都は、どこもかしこも、ひとの賑わいや、日と水の煌めきや、草花の彩りなどに満たされ、華やいでいた。
道中、わたしはアリシアさんのことを考えた。
アリシアさんは、わたしの憧憬の的だ。ARIAカンパニーのプリマ、要するに第一級の水先案内人で、灯里の先輩である。
以前まだ今より若かった頃、親か晃さんか忘れてしまったけど、連れられてARIAカンパニーのお世話になったことがあって、その時にアリシアさんの人間性に触れて、何と言うか、その淑やかさとか、目を奪うほど美人であるところとか、深すぎるくらい深い慈愛とか、そういったひととしての高貴さやピュアさなどに、虜になってしまったのだった。
だから、アリシアさんに会うこと、接することは、わたしにとって飛び切り嬉しいことなのだ。灯里と親しくしているのは、実を言うとアリシアさんと間接的に仲良くするためであるというのは、本人には伝えていない内緒の話だ。(決して灯里を恣意的に利用しているつもりはないのだけど。)
「――あっ、藍華ちゃん」
表戸に〝CLOSED〟の吊り下げ看板が掛かっていたので、社屋の底部にある船着場の方に足を伸ばしてみると、何か作業している彼女がいて、訪れたわたしを見つけたのだった。
「よっ、元気?」
ひょうきんに挨拶する。
「うん。元気だよ」
灯里はにっこりと笑ってみせるが、大粒の汗が滴っている。
「何してるの?」
「磨いてるの。ゴンドラ。ほら、連日雨だったでしょ? 水垢とかいっぱい付いて汚れちゃってるから、こうやって綺麗にしてるの」
灯里のそばには、バケツと、スポンジと、拭き取り用のクロスと、ワックスだかコーティング剤だかがある。関心を持ってバケツの中を覗いてみると、思わず顔をしかめるほど濁った汚水で満たされているのが見えた。
実際に自分がやったことのある作業なので、そのキツさは、よく分かっていた。ゴンドラ磨き。服がドロドロになるから余り好んでやりたくはないが、定期的にやらないといけないメンテナンスなので、時機を見定めてやるようにしている。
「ゴンドラ磨きって、大変よねぇ」
「けど、たまにはこうして洗ってあげないとね。ゴンドラさんもきっと、綺麗になりたいだろうから」
「恥ずかしいセリフ、禁止ッ」
「エェー」
お決まりのコミュニケーションだった。
茶化してしまったが、心では、熱心に気持ちを込めてゴンドラを綺麗にしている灯里のことを称揚していた。
また、夕暮れ時で、にっこりと笑む灯里の向こう側に、細かく波立つ海と、紅色の夕焼けとが鮮やかに輝いているのが目に入って、思わず見入ってしまった。
「――藍華ちゃん?」
灯里がきょとんとする。
「アンタじゃなくって、後ろの夕焼けを見ているのよ」
そう意地悪っぽく敢えて言ったが、灯里は膨れたりせず、素直に首だけで振り返って、しばらくこっちを見なかった。彼女も同じように見入ったようだった。わたしはその仕草がおかしくって思わずこっそり噴き出してしまった。
アリシアさんは、留守のようだった。わたしはがっかりするようで、その実、がっかりはしなかった。アリシアさんがいなきゃいけないとは思わなかった。灯里としか会えなかったから、落ち込むなどということはありえなかった。灯里で十分だった。灯里で足りないということはなかった。
汗が出てくるほどの日中の暑さは和らぎ、代わって、海辺の潮風が快い涼感を運んでくれていた。
わたしは灯里と共にうっとりし、しばらくよもやま話に花を咲かせて、そして別れた。
灯里に見送って貰ってすぐ、わたしは、明日ゴンドラ磨きしようと考えた。しかし、天気予報はどうだろう? 何となれば雨季なのだ。晴れ間は少なく、雨がちである。
天気の気まぐれが、続いてくれればいいなぁ……。
真っ赤に燃える暮れかけの初夏の空を見上げ、ぼんやりと、わたしは思うのだった。
(終)