ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.84「或るオフショット~初夏の、真夏の、暑い一日」

***

 

 

 

 飲もうと思って、朝、グラスにピッチャーの水を注いだら、テーブルの上に、七色の弧線がさっと短いカーブを描いた。

 

 勉強の途中で、テーブルで教科書や問題集などと取り組んでいたわたしは、その不意に現れた可愛らしい鮮やかさに目を奪われ、しばらく恍惚としていた。

 

 天涯付きのベッドがあって華美なるオレンジ・ぷらねっとのわたしの部屋。あるいは、アテナさんの部屋と言うべきか。相部屋なのだが、見習いの水先案内人であるわたしは、ただの貸借人に過ぎない。

 

「――?」

 

 使い古されたカセットプレーヤーに接続されたヘッドフォンを付け、お気に入りの音楽を聴きながら、窓辺で外の風景をぼんやり眺めていたアテナさんが、ふと、わたしの様子を奇異に思ったように振り返る。

 

 窓枠に腕組みして、首だけでわたしを振り返るアテナさんは、しかし、半ば怪訝そうに、半ば困ったように、眉をさげて見つめるだけだ。

 

 その瞳にムズムズと居心地の悪さを感じたわたしは、こう告げる。

 

「でっかいレインボーです。ミニチュアサイズですが……」

 

 アテナさんは、ヘッドフォンを外してそばに置き、わたしのもとへと近付いてくると、わたしが示すところに目を近付け、「まぁ」、と驚いた風に言った。

 

「綺麗ね」

 

 にっこりと笑むアテナさんの表情は、慈しみに満ちて、穏やかだった。

 

 

 

 ――その日は、とても暑かった。

 

 

 

 通りを歩く人たちは、誰も彼もうんざりして、あるいは手でひさしを作って空を憎々しげに睨み付け、あるいは汗を拭いたハンカチで、ため息と共に、パタパタと首の辺りを扇いでいた。

 

 今日はお買い物の日だった。とはいえ、自分の買い物ではなく、新たにオレンジ・ぷらねっとへとやってくる新人さんのお手伝いだった。

 

 ちょうどゴンドラが空いているところに、希望する者が志願してきたという話だ。

 

 異郷からはるばる訪れて、ネオ・ヴェネツィアに不案内である上に、生活用品のほとんどをまだ揃えていないというので、手助けするよう頼まれたのだった。

 

 わたしより少し年上の女の子だった。名はエリーザという。けっこうありふれた、よく聞く名前だった。

 

 髪は短く、藍華先輩くらいだった。色はしかし、アリシアさんに近く、光沢のある薄褐色だった。

 

 わたしとエリーザさんは、あっちこっち奔走して購入した品物でだんだん一杯になっていく買い物袋を携えて歩いていた。

 

「えっと……」

 

 感心したが、彼女は、クリアファイルに収まった用紙をまじまじと見つめながら、人込みの間を器用に縫って歩いた。

 

「そのファイルは何ですか?」

 

 わたしは訊く。

 

「買わなきゃいけない物の一覧です。事前にまとめておきました。で、買った物には、チェックマークを付けていきます」

 

 そう言ってわたしに見せてくれる。

 

「でっかい周到ですね」

 

 用紙には、やっぱり色々とある。だが、冷蔵庫や洗濯機などの家具を目にして、おや、と思う。

 

「この辺は、部屋に備え付けですよ。冷蔵庫とか、洗濯機とか」

 

「エッ!」

 

 と、エリーザさんは、灯里先輩ばりに口をあんぐり開けてびっくりして見せる。

 

「――聞いてなかったですか?」

 

 そう尋ねると、彼女は肯定した。

 

 エリーザさんへの助力は、アテナさんの頼みがあってのことだった。要するに、エリーザさんにオレンジ・ぷらねっとに入社するに当たってのことは、アテナさんがきっと説明したに違いない。

 

 やれやれ、と呆れるが、幸い、冷蔵庫にも洗濯機にも、まだチェックマークは付いていなかった。聞けば、安い物から買い揃えていくつもりだったという。

 

 今までの決して楽ではなかったショッピング・ツアーが徒労という悲しい結果とならずに済み、ホッとした。

 

 ちょっと冷静に落ち着いて、また涼むのを目的に、わたしとエリーザさんは、近くのカフェに入り、軽食とドリンクをとった。店内は冷房が効いており、暑さにほとんどバテていたわたしたちはずいぶん癒され、回復した。

 

 その席で、わたしたちはよもやま話に花を咲かせ、多弁に時間を過ごした。

 

 わたしは笑うのが生来なぜか苦手で、決まって表情が堅く、折に触れて感情を誤解されることがあったが、エリーザさんとの間には、そういう解かないといけない誤解は生まれなかった。

 

 ――そういう時は、打ち解けてしまうもので、わたしは興が乗って、結果、話が長引き、気が付けば、日が暮れる頃になっていた。

 

 初夏を過ぎようとする時節の、真夏同然の暑熱は和らぎ、抜けるように青かった空はうっすらと翳り、時間のたった飛行機雲が、元は細長くくっきりとしたストレートだったのが、今ではルーズに崩れていた。

 

 

 

 ――ピッチャーの水をテーブルのグラスに注ぐ。朝、うっとり見惚れた虹は、だが、出なかった。

 

 

 

 喉を通る清涼感。ゴクゴク一気に飲み干すと、わたしはハァ、とその反動で勢いよく息を吐く。

 

「でっかいくたびれました」

 

 ――オレンジ・ぷらねっとの部屋。日が暮れて、照明が付いている。

 

「お疲れさま」

 

 そう幾分かそっけなく返すアテナさんは、わたしと同じくテーブルに付いて、読書中だ。小説だろうか。ハンディサイズの文庫本を両手で持って、じっくり耽読している。

 

 エリーザさんのこと、追及しようかと思ったが、気が乗らなかった。実害はなかったわけで、結果オーライということで、済ませようと思った。何より、本当にくたびれていた。急激に到来した暑さと、ショッピングの外回りとで。天涯付きのベッドで大の字になりたかった。

 

 和らいだとはいえ、否定出来ない暑さがまだ残っていた。しかし、日差しがなくなったところに、ちょうどよい勢いの風が吹くようになったので、過ごしやすかった。

 

 窓は開け放してある。朝、アテナさんがそのそばで音楽を聴いていたあの窓だ。

 

 夜だから、カーテンを閉めているが、止まない風に煽られて、裾がふんわりと持ちあがっては、またふんわりと落ち着くという動きをリプレイしている。

 

 

 

 視界を広く取り、ぼんやり見渡す。

 

 ――風が吹く。カーテンがなびく。アテナさんのライラックの短い髪が、サラサラと揺れる。

 

 

 

 断続的に繰り返される、一帖の風景。そしてその短いプロセス。それ等を合わせて眺めていると、あの虹を発見した時と似た、やさしい気持ちが頭をもたげてくるのだった。

 

 

 

(終)


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