ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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「雨、すっかり上がりましたね」
と、雲間から覗く青空を見上げ、ライムグリーンの髪の少女が言う。その手にたずさえる閉じた傘には雨粒がポツポツと付いている。
「虹、出るかなぁ」
桃色の髪の少女が――彼女も雨粒に濡れた傘を携えている――手でひさしを作って空をざっと見回す。
「見たところ、出てなさそうです」
「残念」
――ネオ・ヴェネツィアの街の一隅。二人が並んで歩く道のくぼみの水たまりに、去りゆく雨雲の影がゆっくりと流れる。
「太陽が強く照ってくれれば、見えるかも知れないですけど」
「夕暮れ時だもんね」
「灯里先輩」
と、ライムグリーンの髪の少女が呼びかける。
「海まで行きませんか?」
「海まで?」
「ひょっとしたら、虹は見えないでしょうけど、夕焼けが見えるかも知れません。きっと綺麗ですよ」
何本か路地を抜け、橋を渡って広場を抜ければ、豁然と海を望める地点まで来る。ネオ・アドリア海だ。
「しけは、治まったみたいだね」
波の穏やかさを見て灯里が言う。
――二人は海岸の道路から海の方を望んでいた。
「風は、まだありますけど」
「これじゃ、ゴンドラは乗れないね」
「足元がでっかい危ういですからね」
二人の会話で、夕焼けのことは、発言されなかったが、それぞれしっかりと眺めていた。
海の遥か彼方、水平線の上には、まだ厚い雨雲が重々しく残っているが、そのそばの晴れているところに、オレンジ色の夕日が浮かんでいる。
風が立って、やや強く吹く。揃って長く伸ばしている彼女等の髪が、煽られ、なびく。
髪が崩れないように手でおさえて、灯里が言う。
「ちょっと寒いけど、風が清々しい」
しかし、アリスは、風に散らばる髪に攪乱され、その言が耳に入らなかったようだ。
しばらくして風が治まると、二人共、髪から手を離し、互いに頷き合って、海辺を離れた。
「おかしい言い方だけど、よかったかも知れない」
「……?」
――道中、灯里の発言に、アリスはその意を汲めず、当惑した。
「よかった?」
「最近ね、何だか、仕事に自信が持てなくて、落ち込んでたんだ。モチベーションが上がらなくて、出来れば休みたいなぁって、ハハ、怠け者だね」
「でっかいスランプだったり……」
「ううん」灯里はかぶりを振る。「スランプっていう感じじゃないんだ。ただ、うまく行かないことが連続しちゃってね」
アリスは、肯定して同意するか、否定して慰めるか、どうしたらいいか悩んだが、うまい言葉が見つからなかった。
「よかったっていうのは、たまたまこういう風に、オフの日が出来たからということですか」
「ハハ、まぁね」
悄然と笑うそのいささかしおれた感じの笑顔に、アリスは万感を読み取れる気がした。
――日が沈んで薄暗くなっていく中、ポッと街路灯が灯る。
「わたしが落ち込んでるって、分かった?」
アリスはかぶりを振って応じる。
「海まで行きましょう、と誘ったのは、別に、励ましのためでも、慰めのためでもないです。単純に、わたしが見たいと思ったからです。それにわたしは、元々それほど、ひとの感情に明るいわけではないですから……」
「謙遜しないで」、と灯里が、意固地に返す。「アリスちゃんに誘って貰って、嬉しかったんだよ。何か胸の閊えが下りて、すっきりした感じ」
「灯里先輩……」
アリスが立ち止まり、灯里が先行し、遅れて立ち止まる。
ちょうど二人の間に街路灯があり、その照明が照らす範囲の両端に、彼女等はそれぞれ離れて立っている。アリスは正面を向いて、そして灯里は首だけでアリスを振り返るという恰好で。
アリスは、空を仰ぎ見た。雨雲はどんどん去っていき、晴れ空の面が広がっている。
「また、何か見に行きましょう。海でも、夕焼けでも、虹でも」
そう言って、アリスは目線を元に戻した。
「今度は、藍華先輩も一緒に」
「そうだね」
「元気だしてください。よくない時があれば、いい時もあります」
「そうだね」
「空が晴れたり、曇ったり、雨を降らせたりするのとおんなじで」
「うん」
――その後再び歩きだして、灯里はひたすらしめやかに「うん」や「そうだね」といった軽い肯定の応答を繰り返すばかりだった。
だが、その応答の仕方や調子が、灯里のくじけそうになっている意気を暗示しているかと言うと、決してそうではなく、段々と、彼女の口数が増えていって、帰り道は賑やかだった。
しゃべることで気分がほぐれたのだろうと、知らない内に、自分が応答するばかりになっていたアリスはそう推量した。そして、相好がどんどん柔らかに、また明るくなっていくその感じが、ずいぶん好ましく見えた。
灯里だってひとの子だ。のほほんとしているのが常だが、落ち込むことだって当然ある。そういう時に、決して無理矢理、元気にさせようと矯正しないで、木の枝が力でたわんだ後、自然に元に戻るというのと同じ仕方で、それ自身が持つ回復力を信じ、干渉したり無理強いしたりしないことが大切だと、自分の振る舞いが予期しない形で奏功したアリスは、感じたのだった。
二人のたずさえる傘の雨粒は、ほとんど蒸発するか落ちるかして、なくなっていた。
(終)