ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.79「恢復~雨が降って、上がって」

***

 

 

 

「雨、すっかり上がりましたね」

 

 と、雲間から覗く青空を見上げ、ライムグリーンの髪の少女が言う。その手にたずさえる閉じた傘には雨粒がポツポツと付いている。

 

「虹、出るかなぁ」

 

 桃色の髪の少女が――彼女も雨粒に濡れた傘を携えている――手でひさしを作って空をざっと見回す。

 

「見たところ、出てなさそうです」

 

「残念」

 

 ――ネオ・ヴェネツィアの街の一隅。二人が並んで歩く道のくぼみの水たまりに、去りゆく雨雲の影がゆっくりと流れる。

 

「太陽が強く照ってくれれば、見えるかも知れないですけど」

 

「夕暮れ時だもんね」

 

「灯里先輩」

 と、ライムグリーンの髪の少女が呼びかける。

「海まで行きませんか?」

 

「海まで?」

 

「ひょっとしたら、虹は見えないでしょうけど、夕焼けが見えるかも知れません。きっと綺麗ですよ」

 

 アリス(・・・)の提案に、灯里は快諾した。それぞれ雨で当初の予定を潰され、日中のほとんどの時間を所在ない思いで過ごしたのだ。

 

 何本か路地を抜け、橋を渡って広場を抜ければ、豁然と海を望める地点まで来る。ネオ・アドリア海だ。

 

「しけは、治まったみたいだね」

 

 波の穏やかさを見て灯里が言う。

 

 ――二人は海岸の道路から海の方を望んでいた。

 

「風は、まだありますけど」

 

「これじゃ、ゴンドラは乗れないね」

 

「足元がでっかい危ういですからね」

 

 二人の会話で、夕焼けのことは、発言されなかったが、それぞれしっかりと眺めていた。

 

 海の遥か彼方、水平線の上には、まだ厚い雨雲が重々しく残っているが、そのそばの晴れているところに、オレンジ色の夕日が浮かんでいる。

 

 風が立って、やや強く吹く。揃って長く伸ばしている彼女等の髪が、煽られ、なびく。

 

 髪が崩れないように手でおさえて、灯里が言う。

 

「ちょっと寒いけど、風が清々しい」

 

 しかし、アリスは、風に散らばる髪に攪乱され、その言が耳に入らなかったようだ。

 

 しばらくして風が治まると、二人共、髪から手を離し、互いに頷き合って、海辺を離れた。

 

「おかしい言い方だけど、よかったかも知れない」

 

「……?」

 

 ――道中、灯里の発言に、アリスはその意を汲めず、当惑した。

 

「よかった?」

 

「最近ね、何だか、仕事に自信が持てなくて、落ち込んでたんだ。モチベーションが上がらなくて、出来れば休みたいなぁって、ハハ、怠け者だね」

 

「でっかいスランプだったり……」

 

「ううん」灯里はかぶりを振る。「スランプっていう感じじゃないんだ。ただ、うまく行かないことが連続しちゃってね」

 

 アリスは、肯定して同意するか、否定して慰めるか、どうしたらいいか悩んだが、うまい言葉が見つからなかった。

 

「よかったっていうのは、たまたまこういう風に、オフの日が出来たからということですか」

 

「ハハ、まぁね」

 

 悄然と笑うそのいささかしおれた感じの笑顔に、アリスは万感を読み取れる気がした。

 

 ――日が沈んで薄暗くなっていく中、ポッと街路灯が灯る。

 

「わたしが落ち込んでるって、分かった?」

 

 アリスはかぶりを振って応じる。

 

「海まで行きましょう、と誘ったのは、別に、励ましのためでも、慰めのためでもないです。単純に、わたしが見たいと思ったからです。それにわたしは、元々それほど、ひとの感情に明るいわけではないですから……」

 

「謙遜しないで」、と灯里が、意固地に返す。「アリスちゃんに誘って貰って、嬉しかったんだよ。何か胸の閊えが下りて、すっきりした感じ」

 

「灯里先輩……」

 

 アリスが立ち止まり、灯里が先行し、遅れて立ち止まる。

 

 ちょうど二人の間に街路灯があり、その照明が照らす範囲の両端に、彼女等はそれぞれ離れて立っている。アリスは正面を向いて、そして灯里は首だけでアリスを振り返るという恰好で。

 

 アリスは、空を仰ぎ見た。雨雲はどんどん去っていき、晴れ空の面が広がっている。

 

「また、何か見に行きましょう。海でも、夕焼けでも、虹でも」

 

 そう言って、アリスは目線を元に戻した。

 

「今度は、藍華先輩も一緒に」

 

「そうだね」

 

「元気だしてください。よくない時があれば、いい時もあります」

 

「そうだね」

 

「空が晴れたり、曇ったり、雨を降らせたりするのとおんなじで」

 

「うん」

 

 ――その後再び歩きだして、灯里はひたすらしめやかに「うん」や「そうだね」といった軽い肯定の応答を繰り返すばかりだった。

 

 だが、その応答の仕方や調子が、灯里のくじけそうになっている意気を暗示しているかと言うと、決してそうではなく、段々と、彼女の口数が増えていって、帰り道は賑やかだった。

 

 しゃべることで気分がほぐれたのだろうと、知らない内に、自分が応答するばかりになっていたアリスはそう推量した。そして、相好がどんどん柔らかに、また明るくなっていくその感じが、ずいぶん好ましく見えた。

 

 灯里だってひとの子だ。のほほんとしているのが常だが、落ち込むことだって当然ある。そういう時に、決して無理矢理、元気にさせようと矯正しないで、木の枝が力でたわんだ後、自然に元に戻るというのと同じ仕方で、それ自身が持つ回復力を信じ、干渉したり無理強いしたりしないことが大切だと、自分の振る舞いが予期しない形で奏功したアリスは、感じたのだった。

 

 

 

 二人のたずさえる傘の雨粒は、ほとんど蒸発するか落ちるかして、なくなっていた。

 

 

 

(終)


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