ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.74「或るオフショット~サンドイッチ・メモリー」

***

 

 

 

 海原に架かる鉄の長く低い吊橋が遠く向こうにあって、わたしはその堂々たる様を、灰色の防波堤のこっち側から、重畳と連なって(なら)ぶテトラポッドの上方に、ただぼんやりと見ているだけだった。

 

 長袖のTシャツと綿パンという恰好で、自転車を漕いで風を切る。初夏にあって、涼しく気持ちいい感触を肌に感じる。道路には、わたしの他にサイクリングや散歩に来ている人の姿が見える。家族だったり、カップルだったり、色々だ。

 

 わたしは、ちょっと止まって、片足を地べたに着いて自転車を支え、手をすぐそばの防波堤にのせる。じっとしていても、風の流れがあり、暑く感じることはなかった。

 

 ――あの吊橋の上には、線路があり、電車が走っている。小さい電車だ。わたしはその電車に乗って、ネオ・ヴェネツィアよりこの島までやってきたのだ。ネオ・ヴェネツィアとこの島は、あの吊橋で繋がっているのだ。

 

 休みの日には、しばしば来るようにしている。特にこれといった予定のない場合は、街の一隅にある、こぢんまりとした駅で切符を買って、イヤに空いている電車の座席に座る。儲けなどないに違いない。この路線は、たぶん、ほとんどボランティア同然の運営で成り立っているのだと思う。あるいは、篤志家がいて、その寄付で持っているのかも知れない、などと想像する。

 

 一本道の高架線を行き来するだけなので、電車は無人で、しかも利用する人数が少ないので、その閑散として、ちょっと寂れた風情が、わたしはけっこう好きだったりする。

 

 島に来たら、まぁ、散歩したり、レストランでご飯を食べたり、色々とする。藍華ちゃんかアリスちゃん、あるいは二人と一緒に来た時には、また違った予定を立てることがある。今回は、レンタサイクルを借りて、軽いツーリングをすることにした。

 

 ――今日は本当に風勢がちょうどいい。わたしはちょっと疲れたのもあって、自転車を下りると、サイドスタンドを立て、暫時、休憩することにした。

 

 すぐ下でさざ波がコンクリートを舐める音がし、遮るもののない空間を吹き抜ける大風が、狭い耳のトンネルに反響してボーッと鳴り、長い髪が煽られ、細かい汗の浮かんだ額や首筋や腕に、涼感をくれる。

 

 吊橋の向こう側には、この島がカーブして伸びる先端の影。初夏の陽光にあって、白っぽくぼやけて見える。

 

 ――グゥ、とお腹が時を知らせる。そろそろいい時間だ。お昼ご飯は何にしよう。和食、洋食、中華。今、お財布がさみしいから、あんまりいいものは食べられない。飲み物は水。食べ物は……。

 

 わたしはしばらく悩んだけど、なかなかいいのが浮かばなかったので、取りあえず立てかけた自転車を起こすと、跨って漕ぎ出し、走るのと同時進行で考えることにした。

 

 ――海岸線を少し離れ、商店街じみた通りを走る。

 

 すると、わたしは一軒のお店に注意が行き、その前で止まった。

 

「チャオ」

 

 と、エプロンを付けて、長い髪を全部後ろでまとめている、額の凛々しい女の子が、ハキハキと挨拶する――わたしより年上だろうが、それほど差はないだろう。親近感を感じる。

 

 わたしはお店のガラスケースを見る。中には、何種類ものサンドイッチが収まっている。

 

「チャオ」

 

 と、わたしは負けじと同じくらい明瞭に返すと、自転車を下り、サイドスタンドを立てた。

 

 彼女は満足げにニッコリし、わたしの自転車をチラッと見た。

 

「いいお天気ね。サイクリング?」

 

「はひ。今日はとっても風が気持ちよくて、漕いでいて楽しいです」

 

「そうね。わたしも休みだったら、きっと外で過ごしてるわ。サイクリングかどうかは、分からないけど」

 

 彼女は、斜め上に瞳をやって、まるで想像する風に、そう言い、そして瞳をわたしへと戻した。

 

「さぁ、ご注文は?」

 

「サンドイッチをひとつ、ください。フツーので」

 

「ふたつじゃなくて?」

 

「……?」

 

 わたしがきょとんとすると、彼女はわたしの鼻先に指さした。

 

「顔に、お腹ペコペコですって書いてあるわよ」

 

「エェー」

 

「フフッ。ふたつにしなさい」

 

「でも――」

 

 自分の懐事情を晒すのは、あまり気が進まなかった。

 

「いいのよ。おまけにしておくわ」

 

「いいんですか? 悪いです」

 

「気にしないで。こういう風に、お互いに初めてなのに、合い口がいいことって、そうあることじゃないんだから」

 

 ――確かにそうだと思った。わたしたちは、初対面のわりに、やけに流暢に会話していた。

 

「はい」

 

 と、サンドイッチの入った紙袋が手渡される。わたしはお金を払う。

 

「また来ます」

 

「えぇ、待ってるわ」

 

 ハンドルに紙袋を吊り下げて、わたしは自転車を漕ぎ出し、そして女の子は清々しい笑顔で手を振って見送ってくれた。

 

 ――御愛想ではなかった。本心からまた来ようと祈念した。何となれば、あの女の子に借りを作ってしまったのだ。今度来た時は、たっぷり予算を財布に詰めて、いっぱい買って上げようと思った。

 

 しばらく走り、ちょうどよいシマサルスベリの木陰を発見し、そこに腰かける。飲み物はペットボトルのミネラルウォーター。

 

 空腹が高じて、口の中がまずかった。あの時わたしの顔面には食欲がくっきりとあらわれていたと思う。

 

 サンドイッチを見つめる。いわゆるフツーの、この辺のスタンダートのサンドイッチ。紫のオニオン、ピクルス、オリーブ、トマト、ハム、サラミ、チーズ、それ等の具材が、真っ二つに切られた長く丸いパンの白い断面の間に挟まれている。

 

 一口食べてみると、やっぱり中身が溢れんばかりにパンよりはみ出し、わたしは周りを汚さないように、嚙み切った後、仰向いて、口の周りの細かい具材を指で搔き集め、口内に滑り込ませる。

 

 後でずいぶん汚らしい食べ方だとオロオロし、辺りを見回して、誰もいないことに安堵する。

 

 全部食べ終わり、ミネラルウォーターで口の中を清め、満腹と幸福と感謝を感じると、わたしは、その場でくつろいで、眼前に広がる海原と空を見つめた。

 

 そして、ここである程度時間を潰したら、自転車を返却して、駅で電車に乗って帰ろうと、そう考えた。

 

 

 

 ――日が傾き、空にかげりが見え、空気がひんやりとし出した頃、わたしはすでに、無人の電車に乗って、窓際の座席から、夕空をぼんやり眺めていた。乗客は相変わらずまばらだった。

 

 褪めた青空に浮かぶ雲は、心なしかしゅんとしているように見える。まるで日暮れを惜しむように。

 

 吊橋を走る小さい電車。

 

 わたしが自転車で走った海岸線が見下ろされる。わたしがサービスして貰ったパン屋さんは、車窓との角度と距離の関係で見えない。

 

 また来よう――その日眺めた風景や、パン屋でお世話になった女の子の容姿を思い浮かべて、心中でそう呟くと、わたしはじっと、またずっと、しょんぼりしたように浮かぶ暮れかけの空の雲を、飽きもせずに、魅入られて、見つめ続けるのだった。

 

 

 

(終)


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