ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.72「ザ・ダークネス」

***

 

 

 

 大したことじゃないはずなのに、何かに執着してしまうことが、最近多くなった気がする――

 

 

 

「悪い波が来ているわね」

 

 二人でゴンドラをARIAカンパニーの停泊所に係留しようとしている時、ふとアリシアさんが呟いた言葉だった。彼女は水平線の方を望んでそう呟いた。停泊所は社屋の最下にあり、受付がある一階を外に出て、その端のU字型の階段を下りたところにある。

 

 わたしは小首を傾げてその呟きを耳にしたけど、アリシアさんの顔を見ると――或る夕方のことだった――まるで独り言を言った風の表情で、従って、せっせと作業に従事して、そばにいるわたしに呼びかけるでもなく、言葉がみずから付帯している、応答を促す働きかけがまるでなかった。その呟きは、完全なる独り言で、わたしは、一方的に受容するしかなかった。

 

 アリシアさんがどういう思いで呟いたのか分からないが、わたしの内に、彼女の呟きは何とも言えない印象を刻み付け、そして以後尾を曳くこととなった。

 

 

 

 ――仕事や日常で、どれだけ小さいことであっても、不運があると、どうしてか、無用に長々と引きずるようになった。例えば、お気に入りのシャーペンをうっかり落として折るとか、髪の毛のセットがうまく行かないとか、親しいはずの男の人にしかつめらしい敬語を使われるとか、そういうことがあると、くよくよ思い悩んでしまい、ちょっと落ち込むなどで済めばまだいいのだが、胸が悪くなったり、食欲が減退したり、目がカサカサに乾くほど表情がこわばって制御できなくなったりすることがあって、そうなってしまえば病的で、端的には、ウツと言わざるを得ない。

 

 悪い波が来ている。わたしのところに来たのだ。アリシアさんは決してわたしの変化を示唆したわけではないと思うが、結果としてリンクしてしまうことになった。

 

 萎えてしまっても、動いてしまえば平気で、仕事は出来るし、会話のキャッチボールだって平滑で、友達を冗談で笑わせることが出来る。

 

 ――だが、一度引いても、悪い波はまた押し寄せてくる。

 

 不運、沈滞、恢復――というサイクルを繰り返している。恢復が含まれていても、結局また元に戻るのだから、ひょっとすると、恢復は省いてしまうのがいいのかも知れない。正解は、不運と沈滞の連続だ。ウツとはそういうものだ。

 

 或る夜――意気阻喪して眉間に皺を寄せて雑魚寝するようにその辺の床に寝転がって、起きた夜。デスクランプのナイトランプがぼんやりと浮かび上がらせる屋根裏部屋の空間で、わたしは半睡の状態で目線を泳がせる。その時のわたしは、時間を逸れたところにいて、意識はかき混ぜたようにはっきりしなくて、鏡を見たら、あまりの醜悪さにうんざりするだろうと思えるほど、クサっていた。

 

 息苦しさを感じる体に力を入れると、のっそりと鈍重に動き、その時息をするのに、歯を食いしばってしまうし、肺がキリキリと変にりきんでしまう。

 

 

 

「――アリシアさん、悪い波って何ですか?」

 

「そうね。言うなれば、世界に渦巻く悲しみや嘆きや怒りの、無作為の断片の集まり、かしら? ――世界では、常にそういうものが湧きおこっているのよ」

 

「――そうかも知れません。いえ、そうです。確信出来ます」

 

「わたしたちの感情は生きている。生きているから感情がある。そしてわたしたちは、流れの中にいる。時間の流れ。時代の流れ。歴史。ヒトの進歩と退歩」

 

 じっくり聞いていると、胸が苦しくなって、わたしはキュッと制服のリボンのところを握り締めた。

 

「流れの中には、あらゆる感情が貫いている。喜怒哀楽。わたしたちが笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりするのは、その流れの中にいるから」

 

 アリシアさんは美しかった――本当に美しかった。海岸線より彼方を望むその横顔は、長い髪に隠れてほとんど見えないけど、優美で、高雅で、気品に満ちていた。

 

「感じなければ、その時は、外れてしまっているの、外側に」

 

「外側」

 

 ――そう聞き返したが、わたしには思い当たるイメージがあった。はっきりとしたイメージだ。すなわち、あの夜の目覚め――鈍く、苦しい、砂を噛むように味のしない、死人同然の目覚めだ。

 

「えぇ、流れの外側よ。灯里ちゃんには、信じにくいことかも知れないけど、実際にあって、時々、誰かが迷い込んでしまうの」

 

 

 

 ――クラクラと立ち眩みがする。わたしは、そうだ。迷い込んでしまったのだ。その、感情の流れないという、外側に。

 

 癒されない悩める魂の呻きが、わたしの頭の中に亡者のように不気味に響く。

 

 頭痛がする。だが、慣れてしまった。いつものことだ。

 

 幸福と充実を忘れ、苦痛と慨嘆を覚え、苦過ぎるほど苦いその杯を口いっぱいに嘗め尽くし、灰色の達成感と共にため息を吐く。

 

 わたしは、だが、その杯の底を凝視する。キラリと光る飲み残し。そこにかつての明るさと温もりが儚く消え消えに映っている。

 

 

 

 ――わたしの手は、何か探している。この苦境と決別するための何かだ。

 

 

 

(終)


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