ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
◇
スゥ、と、息を吸う。目を瞑って。
顔を上げ、目を開いて帽子のつば越しに空を見上げる。
どこまでも青く、広い、夏空だ。カンカン照りの夏空。ほとんど透明の淡い雲が、優しい幽霊のようにゆっくりと流れている。
首に巻いたタオルで汗びっしょりの顔周りを拭う。額や、首元。いくら拭いても、汗は止まりそうにない。
――サッとわたしのすぐそばを、影が駆け抜けていく。ひとつ、ふたつ。風を切るその颯爽とした様に、わたしはちょっと驚く。
まず、ワンピースを着た少女――わたしより小さいが、小学生くらいだろうか――が行った。そしてすぐ後を、一匹の犬が追いかけた。毛の長い図体の大きい犬だった。
あっという間に、少女と犬は彼方へ向かって小さくなってしまった。
映画のワンシーンじみた、ずいぶん麗しく微笑ましい場面に出くわしたものだ。
しんみり感慨に浸っていると、後ろの方から、亡者の呻きに似た声がうっすらと聞こえてきた。わたしに呼びかけているようだ。
「アリスちゃ~ん……」
今にも消え入りそうなほど弱弱しい声。
振り返ると、ちょっと離れたところに、先輩がいて、ぜえぜえと肩で息をして、膝に手を突いてうなだれている。ボーダーの半袖シャツに、短いパンツ。その下はレギンス。トレッキングに来ているのだ。
「アテナ先輩、でっかいバテバテですね」
おおむね同じ格好のわたしの優越を込めた言葉に、しかし先輩は特に反応を示さず、少し顔を上げて、ハァ、とよく分からないため息を吐くだけだった――たいそうお疲れのようだ。
「無理もないですね、かれこれ小一時間は歩きどおしですから」
「そうね。ちょっと休憩したいわ」
「そうしましょうか」
「賛成~」
ちょうどそれほど遠くないところにオークの巨木があったので、わたしたちは合致してその陰で一休みすることにした。
「飲み物はありますか?」
「うん。持ってきてるわ」
わたしはちょこんと下草の上に座ったが、アテナ先輩はぐったりと背を樹幹に持たせている。
普段ウンディーネであるわたし達は、今日お休みで、また天気がよいということで、泊まりの予定で遠出に来ていた。暑いからと仕事の他はすっかり冷房の効いた部屋に引きこもっていたわたし達は、何となく意気投合して、運動がてら徒歩旅行に出かけようと話し合った。
ところが、このザマである。
暑さを避けて家居にナマったわたしでさえ疲れを否めないのに、もともと虚弱体質気味で、汗をあまりかかないアテナ先輩は、萎靡沈滞してしまっている。
盛夏の大自然に迂闊に飛び込んで、もはや干からびてしまいそうだった。
喉を潤してホッと息を吐いてまったりしているその様は、家でホットコーヒーなどに口を付ける時とてんで変わるところがない――ただの小休止だというのに、完全にリラックスし切ってしまっているのだ!
やれやれ、とこの先の道のりを予想していささかの憂慮を抱くと同時に、木漏れ日の揺れ動くこのオークの木陰の居心地のよさに、わたしはすっかりくつろいでいた。縦に裂けた灰色の樹皮。鋸歯が丸みのある波形の葉。夏なのでまだ青いが、やがて色付いて落ちるドングリ。
激しかった夏日の暑熱は、今は巨木の群葉に遮られて、汗は、だんだんと引いていった。
木の枝に、汚れて濡れたタオルを掛けた。ちょっとの間では完全に乾くことはないだろうが、多少は汗の水気を飛ばすことが出来るだろう。
それまでの忍耐と苦行の時間の後で、今は、とても落ち着ける時間だった。休息であり、恢復であった。そよ風のささやきや小鳥のさえずりが聞こえ、雲の足取りが目に見え、時間の歩みを忘れそうだった。
わたしは無意識の内にウトウト舟を漕ぎだしたが、即座にリカバリーした。
「――ッ! アテナせ……」
時すでに遅し。
アテナ先輩を確かめたが、案の定、旅立ってしまっていた。
眠りこけているのである。
先輩は、すやすやと静かに寝息を立て、背を木に預け、やや俯き気味に、そういう風に造られた像のように、優しいしじまに安んじている。
よっぽど疲れて、またよっぽどリラックスしていたのだろう。わたしは揺り起こしたりせず、そっとしておこうと思った。
――そよ風にサワサワと揺れるライラックの前髪を見ていると、起こすのが不謹慎に思えさえした。
先輩の隣で一人取り残された気分のわたしは、幾分か当惑して、ひざを抱いた。
「はぁ~あ」
先輩が聞いていないからと、あえて大げさにため息を吐いてみる。
だが、特に意味はない。深呼吸と同じものだった。いわば心のストレッチだ。
初めわたしも寝てしまおうかと考えたが、やめにした。起きていないとという、そこはかとない義務感があった。その義務感は、例えば親が外出してしまった家で留守番している時と全くそっくりのものだった。頼まれたわけではないのに、一人で勝手にやる気になって、やっている。
――そういう感じだった。
◆
目が覚めると、驚くほど体が重かった。体重がましたというか、機械に錆びが回ったように、動きがかたく、ギシギシ軋むようだった。
「起きましたか?」
滲んだようにぼやけてはっきりしない視界が、だんだんと鮮明さを取り戻していく。辺りはまだ明るかった。明るかったが、空に浮かぶ雲の陰影が濃く、また太陽がやけに黄色く、淡かった。夕方……?
「おはよう――っていうには、ちょっと遅すぎるかしら?」
「でっかいお寝坊さんですね、アテナ先輩」
薄暗い木陰で、アリスちゃんが隣に座っている。イタタタ、とわたしは痛む肩を持って姿勢を直す。
「どれくらい、寝ちゃってたんだろう」
アリスちゃんが言うには、わたしは二時間も座った状態で寝ていたとのことだ。わたしは仰天して、そして恥じた。
「その間、ずっと起きてたの?」
「二人揃って寝るのは、でっかい不安だったので、ハイ、起きてました。足が痺れてピリピリします」
アリスちゃんは、警察官よろしく敬礼して見せる。うんざりしていないのだろうか……?
「異常ナシ、です」
わたしは嬉しかったが、何だかいたたまれない気分だった。
わたしはアリスちゃんの敬礼をやめて下ろした手を掴み、握り締めた。そうすることでわたしの思いが伝わってくれればいいと願ったが、きょとんとしてしばらく後、にっこり笑ってくれたその顔を見て、胸を撫で下ろすことが出来た。
「さぁ、行きましょう」
「はい。でっかい日が暮れちゃいます」
「涼しくなって、歩きやすくなったんじゃない?」
「そうですね」
「宿までは後どれくらいだっけ?」
「後三十分くらいですね」
「三十分……結構タフね」
「途中で郵便馬車があれば、乗せて貰いましょう。なければ、でっかいファイトです」
「ハハ……まぁ、こういうところでは、致し方ないわね」
郵便馬車は、あまり心当てにしなかった。夜が近いので、アリスちゃんが持ってきた携帯ランタンに火を灯してくれた。わたしは方位磁石と地図を持って、ちょくちょく位置と方角を確かめた。(アリスちゃんは、わたしのナビをそれほど頼りにしてくれなかった)
普段ゴンドラに乗ってばかりで、歩くことを疎かにしていたツケが返ってきたようで、何となく反省させられる気分だった。
道中、一人の少女と一匹の犬を見つける。ワンピース姿の、小学生と思しき少女。毛の長い大型の、行儀のよい犬。家に帰るのだろうか。
旅行に来ていることが見え見えのしっかりした装備のわたしたちと違って、ラフで清楚で、また微かに儚さを帯びた少女のその雰囲気は、ロマンティックで思わず見とれてしまった。
おっと、今度はアリスちゃんに遅れないようにしないと!
暮れなずむ夏の日が、褪せたオールド・ブルーの夕空に、赤々と輝いていた。
(終)