ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.63「アフター・ザ・レイン~風のないある日のこと」

***

 

 

 雨上がりの晴れた空にほんのわずかばかり残っている雨粒が、雲の気まぐれで落ちて来、道路の浅いくぼみに張った凪いだ水たまりに、小さい波紋を投じる。

 

 

 無風の日。薄気味悪いほど無風で静かなる、まだ肌寒い春先の、防寒具を手放すには早すぎる日の、昼下がり。

 

 

 小鳥が数羽、羽ばたいていき、その影が水たまりの鏡面をさっと走る。

 

 

 濡れた地面。じめじめした空気。雨が上がってまだそれほど経っていない。

 

 

 ネオ・ヴェネツィアのある水路に面する、ある古い建物。アーチのあいた車止めがあり、すぐそばの水路にはゴンドラが一艘とまっている。オールが寝かせてあり、かりそめに休眠している様子だ。

 

 

 ゴンドラのふちには、一本の傘がかかっており、水滴をたくさん付着けたその傘は、けっこう近い時間まで雨を防いでいたことを示している。

 

 

 車止めの陰には、ひとが一人佇んでいる。アーチの柱に寄りかかり、腕を曲げた右手でだらりと伸ばした左腕を持って、ぼんやり空を仰ぎ見ている。

 

 

 ライラックのショートヘア。薄褐色の肌。白いセーラー服――長そでの白い、橙色のラインの刺繍があるセーラー服。その上には同じ地色と模様のポンチョコート。

 

 

 水先案内人の、アテナ・グローリィだった。雨後の空を遠い目で見上げる彼女は、まるで今なお雨宿りをしているかのようだ。

 

 

 雨で幾分か水量の豊潤になった水路は、心なしか流れを早めている――サラサラと、水音がさやかに、また穏やかに鳴る。

 

 

 太陽が照らす日向とは対蹠的に、車止めの屋根の下の薄暗い日陰にあって、アテナの姿は、半ば日陰の闇と融合して、やがて溶けて消えてしまいそうだった。

 

 

 寒いのか、微かにアテナは身震いし、両手を合わせて揉むと、口元に持っていき、俯き気味に、フゥ、と、ため息なのか、疲れなのか、はっきりしない息を吹きかける。

 

 

 車止めの端っこにたまった、今なお残る雨粒が、その重みで落ち、彼女の頭上に落下する。彼女はいささかハッとしただけでその他の反応はせず、落ちてきた雨粒は、彼女の短めの髪の流れを伝い、先端まで至ると、地面ではかなく砕けた。

 

 

 アテナが佇むその背後の古い建物は、同じく古い両開きの木の扉で、開閉すればギシギシ軋みそうだ。

 

 

 茶色い陶器の鉢には、観葉植物と思しきものが植わっているが、すでに枯れ切っていて、葉は萎えており、幹や枝は精彩を欠いて年老いた風に白っぽく、ひどく寒々しい。

 

 

 ちょこんと置いてある椅子は、ほこりを被っていて、誰かが使っている形跡がほとんどない。

 

 

 ――廃屋なのだろうか。

 

 

 辺りにひと気はなかった。まるで忘れ去られたようだった。気持ち悪いほど、静粛だった。

 

 

 寒そうにしていたアテナは、揉んでいた両手を解くと、短い髪をさっと後ろへ搔き上げると、ようやく自分の髪が一部、濡れていることに気付く。

 

 

 怪訝に思い、指先をじっと観察したり、そのにおいを嗅いだりして、確かめる。

 

 

 ――ただの水だ。

 

 

 安堵したアテナは、目線を上に向ける。

 

 

 青い空。陽光を浴びて輪郭の煌めく、鈍足の雲。

 

 

 碧落一洗。雨上がりの空は磨いたようにきれいだった。

 

 

 凪いだ水たまりが微かに揺れる。風の起こり。冷たい息吹き。ライラックの髪が弱弱しくなびく。

 

 

 ギィィ……扉の開く音がした。重苦しい音だった。心なしかかび臭いにおいさえする気がした。

 

 

 上の空のアテナは何かと思い、振り返った。

 

 

 扉は開いていなかった。しっかり閉じていた。

 

 

 音がしたのは僻耳だったのだ。アテナは、じぶんのお腹が鳴る音が車止めに響いて変に聞こえたのだろう、と考え、納得した。

 

 

 誰か住んでいるのだろうか?――と、アテナは、振り返った時に思った。

 

 

 しばらくアテナは建物を凝視した。射貫くように目を注いだ。

 

 

 カーテンの閉じた窓。おおむね綺麗だが、一部(ひび)が入っている。

 

 

 ――遠くで、凪いだ水たまりがまた揺れる。また風。

 

 

 すると、建物の窓ガラスがカタカタと震動し、音を立てる。

 

 

 さっと水たまりを影がよぎる。小鳥だろうか。一羽、二羽……。

 

 

 アテナは見定めようとする。注視し、推測し、想像する。

 

 

 しかし、何かが現れるとか、起きるとかすることはなかった。

 

 

 アテナが見ているのは、ただ振り返っている自分の反映ばかりだった。

 

 

 白いカーテンを下地に、ほとんど輪郭しか見えない暗い自分の現身(うつしみ)だった。

 

 

 アテナは、ゴンドラにかけた傘を手に取る。そして手首をひねって傘を左右に交互に回し、傘の面に付いた雨粒を払う。雨粒があっちこっちに飛び散る。

 

 

 空は快晴だ。雨は最早降らないだろう。アテナは傘をネームバンドで締める。

 

 

 春先の、まだ肌寒い日。風の乏しい、静穏なる日。

 

 

 ゴンドラに乗り込み、帰ろうとするアテナは、また異音を耳にする。建物の方だ。

 

 

 だが、気配ばかりで、実体が現れなかった。気付きがなく、推測と、想像と、思い過ごしばかりだった。

 

 

 ゴンドラの去ったネオ・ヴェネツィアの一隅。そこは、まるで忘れられたように、ひっそりと静まり返っていた。

 

 

 

(終)


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