ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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文字数:約12000


Page.6 「進路」

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 夕焼けになろうとする青空に、学校のチャイムが鳴り響く。その音色は、朝から長々と続いて来たおおむね退屈な授業の終わりを知らせる、劇的に響く解放の麗らかな音色であり、それゆえ真面目と集中と勉学とに飽き飽きした、活気に溢れた若い十代後半の生徒達が、心から待ち望んでいたものであった。チャイムが余韻を残して鳴り止むと、彼等は着せられていた生徒という殻を脱ぎ捨て、凝り固まった心身を柔軟にほぐし、自由を謳歌する特権と自分のほしいままに出来る時間とを、義務と時に高圧的になる学校の教師達より取り戻し、幼かったかつてとは違い落ち着いてはいるが、相変わらず素晴らしいままの子供に戻るのだった。

 

 広い学校の昇降口には、帰り支度を済ませて教室を後にして来た彼等の影がぞろぞろ入り乱れていた。ロッカー式の下駄箱が重畳としてあるそこで、ある者は黙々と下駄箱に上履きを脱いで入れるか下履きを出して履くかし、ある者は仲のいい友達と陽気にしゃべっていた。昇降口の明るい外側には、土汚れが付いていたり清潔だったりするユニフォームを着た運動部員のせかせかと小用で駆ける姿が見え、またその薄暗い内側の廊下には、ユニフォームがなく制服姿で活動する文化部員の落ち着いて歩く姿や、不愛想で冷血そうな教師が巨人のようにのっそりとどこかに向かういくぶん恐ろしげな姿が見えた。

 

 昇降口には、毛先が少しカールした黒い長髪が綺麗なアリス・キャロルがいた。彼女はもう学校に用がないので、昇降口の端、出入り口の手前に、手提げバッグを脇に置いてかがんで、下履きのローファーを指で調整しながら履いている途中だった。

 まるいローファーの口は、アリスのねじ込んだ足を頬張ったが、もごもごと悶絶し、すぐには奥まで飲み込むことが出来なかった。

 だが指でその口を引っ張って広げてやると、ローファーはどうにか持ち主の足を足首まで飲み込んだ。下履きはフィットした。

 

 その後、アリスが立ち上がろうとする時だった。

 

「アリスちゃん」

 

 ある女の子の呼び声が聞こえ、同時に、すぐ横に二足のローファーが置かれた。

 

 呼ばれた小柄な彼女は、はっとして後ろの方を振り返り、斜め前にあるソックスに包まれた足を見た。そして顔を上げ、バッグをお腹の辺りに両手で持って立ち、柔らかに微笑しているスリムな、アリスより少し背の高い、黒いおさげ髪の人影を見た。

 目の前にいるのは、上級生の灯里だった。灯里は高校二年生であり、アリスは一年生だった。二人は親しい間柄だった。

 

「灯里先輩」、とアリスは呼びかけた。

 

「今、帰り?」 

 

 灯里が首を下に伸ばして、彼女の顔を覗き込むようにして聞いた。

 

「えぇ」 アリスは頷いた。

 

「じゃあ、一緒に帰ろう」 灯里は、目を瞑って微笑んで誘いかけた。

 

 そして年が離れていて学級も年次も違うため、別々に帰ることがしばしばである二人の友達は、今日は運よく出会えたことで、一緒に帰ることを決めると共に、互いに今日の帰路が普段と違い、愉快なものになるだろうという期待を抱いたのだった。

 

 アリスは立ち上がり、脇のバッグを携えると、同じくローファーを履き終えた灯里と共に、昇降口を出た。

 

 

 

 

 

 

 涼しい空気が、流れていた。

 

 カンカンと鳴って、踏切の赤い信号が点滅し出す。その後程なくして、黄と黒のバーの下りた踏切の間の線路を、信号の矢印が示す方向に電車がガタンゴトンと轟音を立てて通って行く。

 

 踏切のバーが上がり、その前で待っていた自動車と、学校の生徒を含む人々が踏切を渡り出した。自動車は用心深く徐行して進んだ。

 信号の消えた踏切の向こう側には、踏切のところで途絶えていた道路がT字に伸びており、その内左右に伸びる一本は、人家の並びの正面を通っており、他方向こう側へと伸びる一本は、その中央に、貫くように深く突っ込んでいた。上には、夕方の寂しげな空の広がりがあった。

 

 アリスと灯里は、その踏切を渡らず、手前の線路に沿った、人家を含む色々な建物が面する細い、通学路のためか車の通りがそんなにない、電車が通過する時を除いて閑静な道路を歩いていた。道路は、線路との間の地面に枯れた雑草がはびこっていたり、白い標示が擦り減っていたり、軽いひび割れがあったりし、薄汚かった。だが、そんな道路にも、近隣の高級ではないだろう庶民の家にも、道路を通る平凡そうな人々にも、どこかひなびた、気分を落ち着かせる味わい深い趣があった。停滞していて変化に乏しいが安定して平穏に続いて行く日常の快さが、辺りにはうっすらと漂っていた。

 

 それぞれ歩いているアリスは無表情で俯き気味であり、灯里は先と同じような微笑をたたえて正面を向いている。

 辺りには、彼女等の他の学校の生徒や、大きかったり小さかったりする犬を散歩させている野球帽をかぶった老人や、サングラスをかけてランニングする汗ばんだ若者の姿が見える。様々な人達が、夕方手前の時間を思い思いに過ごしていた。

 

 首元にリボンを付けた二人が長袖のシャツを着ていること、ある人家の軒先の鉢に、濃いピンク色のコスモスが風に揺れていること、また空にいわし雲が群がっていることは、気温の高くないことと、現在が夏と冬の間の季節であることを如実に示していた。

 

 正面を向いている灯里が、アリスの方に顔を向けて話した。

 

「今日ね、進路相談があったの」

 

 アリスは「そうですか」、と淡泊に答えた。

 

 灯里は再び正面を向いた。

 

「将来何がしたいのかって、先生に聞かれたんだけどね──」

 

 そして目を瞑って苦笑いし、その後を続けた。

 

「──よく分かんなくて、答えらんなかったなぁ……」

 

 そう言った彼女は、将来の展望を明確に出来ない自分に失望しているようだった。

 

 そんな友達の様子を見、アリスはバッグを持っている両手の片方を離し、顔の脇に持ち上げて人差し指を立てると、つんとした感じで目を瞑り、「つまり」、と結論付けるように言った。

 

「灯里先輩は、でっかいお先真っ暗ってことですね」

 

 率直なその指摘は、進路に悩む少女の胸にぐさりと突き刺さって、ショックを与えた。灯里は大口を開け、呆然と「エ~」と嘆いた。自分への親しい誰かの率直な意見に彼女は、決まってそういういくぶん滑稽で可愛らしい反応をするのである。

 

 恒例の反応を見て彼女に異常のないことを知ると、アリスは立てている人差し指をバッグに下ろし、灯里に励ますように微笑みかけた。

 

「でも、大丈夫ですよ」

 

 灯里ははっとして嘆くのをやめ、アリスを見た。アリスは灯里に向けている目を正面に向けた。

 

「まだ考える時間は残ってるんですから」

 

「それは、そうだけど」

 

 そう答えると、灯里はまた苦笑いして俯いた。アリスほどには、残された猶予について楽観していないようだった。

 

 その後二人は陰気な雰囲気を帯び、しばらくのあいだ口を噤んで黙々と歩いた。アリスは励ましがうまく行かなかったことを内心で不服に感じており、灯里は自分の悩みについて楽観的な意見を述べた彼女を、いささか投げ槍と感じていた。

 

 だが、だからと言って、彼女等がこのままお互いに無言のまま別れて、今の短いやり取りがその後の関係に暗い影を落とすというようなことはなかった。

 

 その内歩いている灯里は、あるものを見つけて顔を上げ、斜め前を見、立ち止まった。灯里が隣にいなくなったことに間もなく気付いたアリスも、同じようにはっとすると、少し後ろにいる灯里を首だけで振り返り、やや怪訝そうに見た。

 

 灯里の目線の先には、大きく赤い、コーヒーミルのオブジェがそばに置かれた、入り口の脇に品物のサンプルが並ぶショーケースのある、こぢんまりとした喫茶店が佇んでいた。オブジェは大きいと言っても大体一メートルくらいのものであった。

 

「ねぇ、アリスちゃん」

 

 そう呼びかけて、灯里は店を指差すと同時に、彼女の方に顔を向けた。

 

「ちょっと喫茶店に寄っていかない?」

 

 誘われたアリスは、喫茶店に目を向け、その外観を見物してみた。その店は彼女が、灯里を含む親しい校内の生徒とたまに行くところであった。だがちょくちょくは行かず、財布の中身と時間に余裕があり、愉快な話の種がストックされている場合に一服しに行くのだった。

 

 格子扉のガラスには、入店しようと誘った者と誘われた者の二人の少女の姿が格子に遮られ、途切れ途切れに映っている。無表情のアリスは、ガラスの中の友達の微笑みを見て、何となく誘いを断れなかった。

 

「別に、いいですけど」、と彼女は答えた。

 

 だが、そのすぐ後彼女は、怖いのかおかしいのかよく分からない独特な感じの表情で灯里を見据え、口を三角形にし、注意した。

 

「お代は先輩が持ってくださいね」

 

 その厚かましくも図々しい言葉を受け、灯里は呆れたように目を瞑って苦笑いし、頬を人差し指でぽりぽり掻いた。

 

「アリスちゃんって、結構したたかなんだね……」

 

 彼女の最近の財布事情は、どうやら寒々しいようだった。

 

 

 

 

 

 

 レトロな雰囲気の店内に、客はそんなに多くなかった。

 

 開いた扉のベルがカランコロンと鳴り、外の雑音が、しっとりした落ち着ける音楽の流れる店内に流れて来る。「いらっしゃいませえ」という、鼻の下にひげを蓄えた初老の店主と、若々しいウェイターの声が、新しく来店した客に応じた。

 

 入店したその客、アリスと灯里は、入り口とは反対の奥のテーブルに付いていた。四人掛けのテーブルに彼女等は向い合わせで対面しており、隣の空席にバッグを置いていた。混んでいれば違うが、なにぶん今は客が疎らなので、空席を荷物で占領することは咎められなかった。

 

 二人はすでに注文を終えていた。テーブルの上のアリスの側にも灯里の側にも、それぞれ、スプーンの添えられたソーサーに載った、取っ手付きのコーヒーカップがあり、そのそばには、非常に小さなミルクピッチャーと、小さなスプーンの入ったシルバーの砂糖入れがあった。

 

 アリスは運ばれて来たばかりの熱いコーヒーを早速飲もうとしているが、灯里は両腕を卓上に組んで憂鬱そうに俯き気味であった。

 

 実を言うと、コーヒーを注文し運ばれて来るまでに、灯里はさっき話した進路について、どうすればいいのかという相談を打ち明けていたのだった。それは真剣な相談であり、アリスは、それに同じように色を正して、とはいえそんなに緊張せずに聞いた。

 その相談が終わって、コーヒーが運ばれて来、ウェイターに軽く礼を言った後、アリスはコーヒーを美味しく飲むための準備をしながら、彼女に返事していた。

 

 彼女は、砂糖入れの蓋をパカッと開けると、その中のスプーンを取り、砂糖をすくい上げ、黒々としていかにも苦そうなコーヒーの中にさらさらと入れた。

 

「──そりゃ、早く決めるに越したことはありませんけど」

 

 そして砂糖入れの蓋をスプーンを戻して閉じ、今度はミニチュアサイズのミルクピッチャーをつまむように取った。

 

「──焦って無理に決めちゃうよりは」

 

 そしてミルクを熱いコーヒーの中に注ぎ入れ、ピッチャーを卓上に戻した。

 

「──時間をかけて、自分の納得出来る進路が分かるまでじっくり考える方がいいと思います」

 

 そしてソーサーのスプーンを持って、コーヒーを掻き混ぜた。金属のスプーンが陶器のカップの内側を打つカツカツという音が鳴る。最初は黒だったその飲み物は、白いミルクが混ざることで薄褐色に変わって行った。

 

「うん」、と灯里が頷いた。それは彼女が友達のアドバイスを肯定したことのしるしだった。

 

 アリスはカップを持ち上げ、目を細めてカップより立ち上がる湯気を、ふうふうと何度か息を吹いて飛ばし、熱気を冷まそうとした。

 

「そうですよ」、と彼女はその肯定を強めるように言い添えた。

 

 その後、彼女ははっとして細い目をすっかり開け、向かいの灯里を見た。灯里はまだコーヒーに手を付けず、眉を下げた悩みを偲ばせる暗い表情で憂鬱に沈んでいるのだった。

 

 アリスは自分のコーヒーをソーサーに戻すと、忠言した。

 

「せっかくの出来立てが、冷めちゃいますよ」

 

 すると彼女は立ち上がって少し前かがみになり、自分が味を甘くしまた色を薄褐色にしたコーヒーをソーサーごと、灯里の目前へと滑らして寄越した。

 

 俯いていてほとんど放心状態である灯里は、目前に滑って来たそれを見ると、我に返った。

 

「わたしの好みでよければ」、とアリスは慎ましく勧めた。

 

 灯里は顔を上げると、眉を下げて微笑し、気を遣わせてしまったことについて「ごめんね」と詫びた。また、目を瞑って「ありがとう」と礼を述べもした。

 そういうわけで、二人のコーヒーは交換された。

 元は灯里のものだった分を、自分の前へこぼさないよう慎重に引き寄せると、アリスは、前かがみになっている体を元に戻して、一度だけ瞬きし、灯里をじいっと、その心情を推し測るように見つめた。微笑している灯里の表情は、いかにも間が悪そうな、何事に対しても億劫に消極的になっている自信に乏しい人のそれであった。

 アリスは、やれやれとでも言うように困った風に目と眉を下げ、フンと鼻でため息した。

 

 それからアリスが同じやり方でもう一度コーヒーの味と色とを整えると、二人はカップを持ち上げ、目を瞑って口を付けた。

 

 アリスの好みで変色され調味されたその飲み物は、別段灯里の好みと大きく異なることはなく、彼女の口によく合った。

 

 カップを傾けて、一定量中身を飲んでしまうと、灯里はカップを口より離し、薄目を開けフゥ、と暖かい湯気の混じった息を吐いた。

 

 その後、彼女の耳が、遠くで鳴っているピコピコという楽しげな電子音を捉えた。音は前からずっと鳴っていたが、そんなに騒々しくないため、彼女はぼんやりとしか聞いていず、今になって初めてはっきり聞いたのだった。

 

 ちょっと気になって、灯里はその電子音のする方に目を遣った。

 

 窓際に三人の、彼女と同じ学校の制服を着た男子生徒が座っていた。彼等は、アリスと同じ一年生だった。しかしアリスのクラスメイトではなく、彼等について彼女は全然知らなかった。

 食べ掛けの軽食が人数分ある四人掛けのテーブルに付いたその内一人は、窓際で荷物と向かい合って、決まって毎週月曜日に二二〇円で売られることになっている、週刊の漫画雑誌を読んでいた。その表紙には、その頃連載され始めた海賊漫画の、麦わら帽子を被った赤い袖無しの服を着た主人公が描かれている。

 一方他二人は、向かい合わせで座って、縦長で灰色の携帯ゲーム機で遊んでいる。ピコピコという電子音は、それが発しているのだった。

 

「あれですよ。ピッピカチュ~っていうあれで有名な」

 

 鳴き声めいた声を発すると共に、アリスが言った。

 

 灯里は彼女に目を向けた。アリスは、両手で頬杖を突いて気だるそうな様子で下級生達を見やっている。

 

「今、流行りだそうです」

 

 そう説くと、アリスは目を灯里に向けた。

 

「やったことありますか?」

 

 灯里は目を瞑って苦笑いし、「ない」と端的に答えた。そして薄目を開け、俯き気味になった。

 

「わたしはゲーム苦手だし、それに……」

 

 アリスは灯里の様子をじっと見つめている。彼女はまだ悩みの周りをぐるぐるさまよって、憂鬱そうにしているのだった。

 

「今のわたしには──」

 

 そう半端なところで言葉を切ると、灯里は顔を上げ、「ね」、と、あなたはもう知っているだろうと諭すように、達観した感じで言った。

 彼女は目を瞑ってまた苦笑いし、前の言葉の続きを言った。

 

「──他にやらなきゃいけないことがあるから」

 

 それは、彼女が自分の進むべき将来の道について思案して、適切な一つを選択することであった。

 

 灯里を見ているアリスは、目を彼女より逸らし、再び下級生達の方に向けた。そして灯里の陰気臭さに当てられたように、しゅんとして目を瞑り、慨然と「成るほど」、と言った。

 

「今は、でっかい難しい時期なんですね」

 

 灯里は薄目を開け、また俯き気味になると、「うん」と頷いて同意した。

 

「その難しい時期は、だけどひょっとすると、今だけじゃなくて、これからもしょっちゅうあるのかも──ううん、ずっと続くのかも知れない」

 

 そう灯里は悲観した。それは、いつまでも自分が進路について五里霧中で、途方に暮れ続ける可能性を案じてのことだった。

 

 アリスは、終業のチャイムで解放されなかった哀れな上級生を、『……せねばならない』の精神に捕われた従僕を、少し見下すように見つめている。

 

 アリスにとって、今の灯里の沈んだ様子は、内心で少し不快だった。彼女は、基本的に好感を惹きにくい仏頂面であり、不愛想という社交に関する欠点があるものの、立派な優等生であり、勉強の成績が優秀で、のみならず運動がまあまあ得意であり、そのため取りあえず将来何をするかという選択肢に迷うことは、少なくとも当面はなかった。

 

 だが、灯里は違った。柔らかな微笑みと、そのじょうずに結わえられたおさげやきめこまかな肌から分かる、自身の魅力を磨くささやかな努力を怠らない彼女は、底抜けの優しさと人懐っこさ、また健気さがあるものの、勉強の成績がそんなによくなく、平均か、それより少し下であり、また運動に関して言うと、生来のちょっとした不器用さのせいで、得意ではなかった。

 

 勉強にせよ運動にせよ、何かがよく出来るということは、個性が鍛錬され得る道場であり、自恃の助けであり、まだ見えない自身に固有の将来への展望に差す光となってくれるものである。しかし反対に何もよく出来ないということは、あるべき個性がありふれた凡庸さに埋没しているということであり、すなわちその不能は、固有の将来への展望に光となって差して、理想の自分像を照らすことが出来ないのである。

 

 成績が優秀でない灯里は、進学は積極的に考えなかった。就職は、目処が立たず、自信がなかった。かと言って、永久就職と言われる結婚について言えば、彼女は、乙女じみた淡い憧れはあるものの、実際に付き合っている異性がいないので、その就職は永久どころか、かりそめにすら出来ないむなしい夢に過ぎなかった。

 

 もっと詳しく話して灯里の狭く閉じた展望を開き、暗いそれに採光してやる手伝いをすることは出来たろうが、彼女の将来について、進路について、さっき述べた、進路を決定して自身の定めを確認しようとする時の基本的な姿勢以上のことを、結局他人に過ぎないアリスが言うわけには行かなかった。それは僭越なことであると思い、彼女は用心し控えていた。

 

 沈黙が重々しく二人の上に腰を下ろした。アリスにも灯里にも、だんだんと、空気の流れが滞るのが感じられ、店内の音楽が冗長に、退屈に聞こえて来た。間の悪さと失望と遠慮と沈鬱が、テーブルの周りを取り囲み、陰湿で不快な声で冷笑した。

 

 だが、突然ある電撃がアリスの背筋に走り、全身の神経が張り詰め、どよめいた。あるイメージが閃いたのだった。そのイメージは、彼女の瞳の前にあまねく広がって、それまであった現実を覆い隠した。彼女は薄目をすっかり開け、驚いたように大きく見開き、そのイメージを眺めた。

 

 彼女の目先に、彼女が見ていた下級生達の姿はもうなかった。また、彼女のいる場所は喫茶店ではなくなっていた。店主もウェイターも他の客もいなかった。しっとりした音楽の代わりに、穏やかに波立つ水の音が聞こえるようになった。

 

 アリスは、別のお店の、ビニールの屋根が上にある、舟の行き交いが盛んな川に面したテラス席に、相変わらず両手で頬杖を突いて座っていた。そこは、異国情緒の濃く漂う場所で、背後には、窓がアーチ型だったり縦に長い長方形だったりする建物の並びがあった。その建物は、造りが独特で、伝統的な趣を醸し出しており、また石で出来ているため堅固さと冷たさを感じさせ、彼女が現在住んでいる経済大国Nの建物とは似ても似つかない、まったく遠い異国のものだった。

 

 変わったのはいる場所だけでなく、衣服もだった。アリスはずっと、白いリボン付きの長袖のシャツを着、チェックのスカートを履いていたはずなのに、今は、肩掛け(ショール)と一体化した暖かいセーラー服を着て、ブーツを履いて、頭にちっちゃな帽子を載せているのだった。また、髪色も激変していて、アリスの長髪はライトグリーンになっていた。

 

 喫茶店は店主達と共にどこかに消え去ったが、唯一灯里だけは残っていた。彼女は突発的なイメージに弾き出されることなく、その中に残り、生き続けていた。

 灯里も、アリスと同じようにセーラー服に着替えていて、髪色が変わっていて、元々黒だったのが、今は桃色になって、耳の脇の部分が長く伸びていた。

 二人のセーラー服はどちらも白く、帽子とブーツとセットのようだが、微妙にデザインがそれぞれ異なっていた。アリスのセーラー服にはオレンジ色のラインが入っているのだが、灯里のセーラー服のラインは、青いのだった。

 

 アリスは、灯里が、テラス席が面している川の上を、他の舟とすれ違いながら、舳先と船尾がそり上がったおしゃれな趣のある舟に乗っているのを見た。彼女はオールを水に差して、その独特な舟を前に進めていた。向かい風が吹いており、灯里の耳の脇の長い髪を、しなやかに背後になびかせている。

 

 全体的な雰囲気は優雅であり、また灯里に似つかわしく、しっくりしていて、舟も、制服も、その柔軟な物腰も、横顔の普段の微笑みも、まるまる全てが、彼女にジャストフィットしていた。違和感は皆無だった。今見えている舟漕ぎの灯里には、全ての必要なものが揃っていて、足りないものはないようだった。あらゆるものが、あるべきところに、あるべき姿で存在しているように思えた。

 

 がしかし、足りないものが、二つだけあった。それは、時間の流れと真実性だった。優雅な灯里とそれをうっとり眺めるアリスにも、また二人の周りにいくらか広がっているが、広大ではないその局限された狭い世界にも、時間は流れておらず、またその全ては、人間が内に宿す摩訶不思議な霊妙さがたまさか披露した、現実とある程度通じているが、現実からふわふわと遊離して画然と隔たったイリュージョンなのだった。水の妖精と称し得るような水上に映える灯里の麗しい様も、局限された異国情緒に溢れた夢のような世界全体も、あくまで一過性のイメージに過ぎず、美しい映像の虚構は、一定の時間が経った後儚く消え、アリスの目の前には地味な喫茶店と、漫画雑誌を読んだり携帯ゲームに興じたりする平凡な下級生達の姿が蘇って来、耳には店内に流れる、ゲームの電子音が微かに干渉しているが、おおむねしっとりして聞き心地のいい音楽が聞こえるようになった。ライトグリーンの髪と桃色の髪はそれぞれ黒に戻り、おさげの耳の脇の部分は、元の長さに戻っていた。

 

 イメージは、やがて完全に消失した。

 アリスは見開いている目を正常に戻し、頬杖を解いて両腕を卓上に組んだ。

 イメージは消えたが、その印象は鮮烈に残っていた。

 

「でも」、と彼女は言った。灯里ははっとして俯けている顔を上げた。

 

「わたしには、先輩が進路のことでそんなに悩む必要なんて、ない気がするんです」

 

 そう言ってアリスは俯くと、「何となくですけど」、と、自信なさげに補足した。

 

 灯里は彼女の言う意味が汲み取れず、きょとんとして、「それは、どういうこと」、と尋ねた。

 

「知りませんか?」 アリスは尋ね返した。

 

 そして顔を上げ、おごそかさを含ました真剣な口調で告げた。

 

「ウンディーネ、って」

 

 だが、灯里はてんでその意が汲み取れず、ますます惑った。彼女は困ったように眉を下げて苦笑いし、いかにも無知な様子で聞き返した。

 

「ウンディーネ?」

 

 彼女は目を瞑って苦笑いを続けると、窓際の下級生達の方に目を向け、言った。

 

「もしかしてそれって、あの子達のやってるのと同じ──」

 

 そこまで言うと、再び目前の友達に目を戻した。

 

「──流行りのゲームの名前?」

 

 その問いは、微かにからかいの調子を帯びていた。

 

 アリスは「いえ」、と、灯里のその調子に対抗するように、真面目な顔で首を左右に振った。「職業の一つです。おしゃれな舟にお客さんを乗せて、街をガイドするんです」

 

「ふうん」、と灯里は、しんみりした様子で感心した。

 

「素敵だねえ」

 

 目を瞑り、そらぞらしい愛想を込めて冷笑した。

 

「でも、実在しないんでしょ?」

 

 その冷笑は、石像のそれのようにかたく、不動だった。

 灯里は、普段はとぼけたような言動をして周りの人を微笑ませるような人好きのする、警戒する必要のない、気の許せる野暮な少女だが、どうやら潜在的に、冷徹な洞察力と現実への感覚を持っているようだった。

 

「……そうですね」 

 

 アリスは沈んだ様子で鈍重に答えると、俯き、ことの成り行きを告白した。

 

「ただぱっと、そんな職業のイメージが閃いただけでした」

 

 本来符合すべきもの同士が不運のために符合しないというような気持の悪さが、二人を包む空気にまじっていた。

 

 目を低く伏せているアリスには、反省と懺悔の雰囲気があった。実際彼女は反省も懺悔もしていたのだが、加えてまた、失望もしていた。それはアリスが、灯里が彼女の言った『ウンディーネ』という職業をきっと知っているに違いないという確信を持っていたせいだった。確信はあえなく裏切られ、彼女の予測は外れ、アリスのまぼろしの話は、出し抜けであるゆえに灯里をきょとんとさせただけで、彼女から有意義な反応を得ることが出来ず、彼女の脇を甲斐なく通り過ぎて行った。

 今までの一連のことは何の意味もなかったどころか、滑稽だったと、アリスには悔まれた。個人的なものに過ぎなかったイメージは口外せずに自分の胸の中に秘めて、出来ればそのまま忘れてしまえばよかったと思った。

 だが、灯里にとってアリスの内容の不可解な表白は、まったくの無意味ではないようだった。

 

 暗い雰囲気を纏って落ち込んでいる様子の友達を、目を瞑って微笑んでいる灯里は、目を薄く開けて見た。

 

 その目には、特にアリスを責める意も、彼女に対する呆れも見えなかった。その悔やみに相応しい傷心を負っているようには見えなかった。彼女はただ、しみじみと物思いに耽るような静かな遠い眼差しで、しゅんと俯いている友達を見つめているのだった。

 

 

 

 

 

 

 外に向かって喫茶店の扉が開き、ベルがカランコロンと鳴った。「ありがとうございましたあ」という店主とウェイターの歓送の声が聞こえた。

 

 アリスと灯里は、店のそばに向かい合わせで立っている。店内ではそんなに長くくつろがず、時間はあまり経ってはいなかった。

 

 ぺこりとアリスは人形のように可愛らしく頭を下げてお辞儀した。

 

「でっかいご馳走様でした」

 

「どういたしまして」

 

 灯里は目を瞑ってにっこりして答えた。

 

 その後アリスは頭を上げ、間が悪そうに目を伏せた。店内での自分の突飛な話を思い出して、友達との接し方にまごついているようだった。

 

 が、また前のように二人が沈黙し合うようなことにはならなかった。

 

「何か、ありがとう」 

 

 灯里が述べた。

 

 アリスははっとし、目を上げた。アリスの目前にいる灯里は、柔らかに微笑んでいた。

 

「わたしに相応しい進路を、教えてくれて」

 

 その表情を意外と思ったアリスは、「いえ」、と返して、再び目を伏せた。

 

「架空の職業のことなんて言い出して、迷惑をかけたと思ってます」

 

 その謝罪めいた言葉を、灯里は「ううん」と首を左右に振ることで否定した。そしてアリスのように目を伏せ、微笑みをしめやかにすると、「いいの」と言った。

 

「勉強も運動もよく出来ないわたしなんかに──」

 

 彼女は目を上げ、続けた。

 

「──お伽話みたいなお仕事を、アリスちゃんは閃いてくれたんだもん」

 

 友達にまつわる着想は、突拍子もなく奇怪で困惑させるものだったが、それを彼女に告げて悪いことはないようだった。反省も懺悔も、する必要はなかった。そのことを知ると、アリスも目を上げた。友達は嬉しそうにしていた。彼女は目を瞑って、微笑み続けていた。

 

 彼女は、片手を胸の中ほどに添えた。

 

「お陰で、そんなわたしでも何かになれるかも、何かを出来るかもって、自信を持って思えるようになったよ」

 

 今の灯里は、もう悩みのために欝々としてはいなかった。華やかな夢の話を伝聞され、その中で自分が生き生きと固有の地点に立脚し、人生を前向きに過ごしていると知ったことで、またその様子をまざまざと思い描いて眺め耽ったことで、灯里は深く感化され、励まされ、屈託のない、朗らかで陽気な微笑みの花を咲かせられるようになったのだった。

 

 彼女の気丈な、活気と積極性を偲ばせる言葉で、アリスの気の塞ぎはどこかへと吹き飛んで行った。曇ってじめじめした心は、すっきり晴れ渡った。居心地を悪くする間の悪さもなくなり、親しい仲の者同士が持つあの打ち解けた感じが生き返った。

 

 アリスは、灯里と同じように、目を瞑ってにっこりし、彼女と和やかに微笑み交わした。それぞれはもう、悩みに沈むこともなく、それを不快に感じることもなかった。

 

 灯里は目を開け、胸に添えた手を下ろしてバッグの持ち手を握ると、「それじゃ、帰ろっか」と言った。するとアリスも目を開け、「はい」と答えた。

 

 そして親しい二人は、もう青ではなくなり、たそがれの色に染まった美しい夕空の下、少し肌寒い中を、それぞれとても安らいだ気分で、並んで帰り道に付いたのだった。

 

 

 

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