ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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***

 

 

 

 少し前、風邪を引いて仕事を休んだことがあった。風邪は長引き、連日欠勤せざるを得なかった。こじらせたのだ。晃さんには呆れられた。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

「藍華ちゃん、きっと暑さにやられたんだよ」

 

「最近、でっかいカンカン照りですからね」

 

 季節は真夏だった。姫屋のわたしの部屋に、ARIAカンパニーの灯里と、オレンジ・ぷらねっとのアリス――後輩ちゃんが来ていた。二人とも水先案内人の見習いで、わたしは彼女等と一緒によくゴンドラ漕ぎなどの練習をした。その実は、おしゃべりで中断して結局何もせず終わるということが多かったが、とにかくわたし達は、合同練習と称して集まることが日常的にあった。

 

 二人はわたしが風邪を引いたと知って、わざわざ看病に来てくれたのだった。わたしは嬉しかった。

 

「ううん、それほどヤワじゃないと思ってたのになぁ」

 

 そう氷嚢を額に乗せて寝込むわたしは、ゴホゴホと咳混じりに言う。わたしは灯里にぬるくなった氷嚢を取り替えて貰い、後輩ちゃんがくれた喉飴に一抹の清涼感を味わった。

 

 ちゃんと薬を飲んで、食事を摂って、十分に睡眠すれば、あっという間によくなって完治するだろう。そうに違いない。そして完治したら、晃さんに元気になった姿を見せ付けて、また灯里と後輩ちゃんと共に、ゴンドラでネオ・ヴェネツィアの街を巡ろう――そう思い、また願った。

 

 ところが、症状はわたしの都合を考慮しないで、治癒されずに残った。

 

 わたしはあらかじめ電話をかけ、灯里と後輩ちゃんに看病に来てくれなくてよいと伝えた。うつるとよくないと危ぶんでそうしたのだった。二人はねんごろに心配してくれて、早く治るよう、祈ってくれた。

 

 一人で風邪の症状に苦しんで、部屋のベッドに横になっていた。時おり晃さんが様子を見に来てくれて、食事を運んで、片付けてくれた。

 

 特にすることがなく、ずっと横になって、目覚めと眠りを、途中そばに置いているミネラル・ウォーターをイガイガの喉で飲んで交互に繰り返している内、段々とわたしは、惨めになっていくようだった。

 

 夏の長い日がようやく暮れて、冷房の効いた涼しい室内で、ゼエゼエと息を荒げて寝込んでいるわたしは、寝すぎたせいで冴えた、暗闇に慣れた目で、真っ暗だが、何となくぼんやり見渡せる、狭い部屋の視界の広がる限りの範囲を眺めた。わたしは孤独だった。晃さんの持ってきてくれた食事を半分以上残して、水ばかり飲んで、歯を磨きさえしなかった。ぜんぶうんざりだった。

 

 過度の眠りで目ヤニの溜まった目が、長いインターバルを経て、夜中にようやく再び閉じようとすると、わたしは小さい穴に這って潜っていくように、眠りの中へと進んでいった。

 

 

 

*

 

 ――白砂の浜辺。

 

 波打ち際に打ち寄せ、引いていく波の音。

 

 わたしは白いワンピースを着て、パラソルの陰に膝を抱いて座っていた。履いていたサンダルは脱いでわきに置いていた。

 

 おおい、とよく聞こえる声で呼ばれる。ハッとして目をやると、浮き輪にしがみ付いてプカプカ浮いているビキニ姿のピンクの髪の女の子が、満面の笑みでわたしに手を大きく振っているのが見える――灯里だ。おおい、とわたしは手を小振りに振り返す。しかし、反応は見えなかった。わたしに手を振ってくれたのでは……

 

 代わりに、そばで人影がスッと横切って、一散に海へ溌剌と駆けていく。ライムグリーンのロングヘア――後輩ちゃんだ。

 

 スイムウェア姿の彼女は、勢いよく灯里の近くへ水しぶきを上げながら海を走っていくと、二人で沖の方へ泳いでいってしまった。

 

 わたしは手を下ろし、小首を傾げ、釈然としない、怪訝に思う気持ちで、膝を抱く両腕に頬を埋める。

 

 水天一碧の海と空。空は雲が一片もなく不気味に感じるほど晴れていた。海は水平線まで澄み渡って、ただただ綺麗だった。

 

 だが、わたしは目線を落とした。憂いに沈んで。物思いの殻にこもって。

 

「ワンピースじゃ、泳げないなぁ……」

 

 わたしを尻目に、灯里と後輩ちゃんはどんどん遠ざかっていく。

 

 ふさぎ込むわたしと、陽気に興じる二人。互いはくっきりと対照的だった。

 

 悲哀と愉悦――その対立が成す境界線の手前にあって、友達に見捨てられる形で、友情を断念してその後ろ姿を見送ろうとするわたしは、切ない、けれどどうしようもないという無力感でいっぱいだった。

 

*

 

 

 

 ――目が開く。さえて明るかった。姫屋の部屋だ。夢だったのだ。イライラするか怯えるかしていたのだろう。わたしは歯を食いしばっていた。

 

 からだは依然重く、かたく、融通が利かない。頭はボーッとする。熱っぽい。だが、お腹が減っていた。回復のきざしだ。

 

 電話が鳴る。わたしは急いで受話器を取る。灯里の声。わたしの容体を尋ねる。

 

 トレーに残るゆうべの食事。汚らしいが、わたしは口を付ける。胃袋が欲していたのだ。喉のイガイガは若干和らいだようだ。食事がスムーズに出来る。

 

 その日は灯里と後輩ちゃんに来て貰うことにした。

 

 待ち焦がれて二人が来てくれた時、わたしは本当に嬉しく、満幅の喜びと安らぎにしあわせを感じた。

 

「明日は大丈夫だと思う」

 

「無理しないでいいよ。藍華ちゃん、まだ熱っぽそうに見えるから」

 

「でっかい病人さんです。絶対安静です」

 

「大丈夫ったら大丈夫!」

 

 自信過剰――というよりはむしろ、駄々っ子のわめきに、二人は目を丸くして、呆気に取られた様子だった。

 

 その声が大きかったのか、近くを通りかかったらしい晃さんが部屋に顔をのぞかせた。すっかり元気になったようだと勘違いしたが、わたしはあえて訂正しなかった。

 

 

 

 窓より見える、よく晴れた夏天。じりじりと照り付ける太陽。雲は絶えてなかった。空も海も、合わせて真っ青だった

 

 遠ざかっていく影が見える。友達の影――まぼろしだ。

 

 白い鳥だ。

 

 カモメたちが、高い鳴き声を上げて、彼方まで飛んでいく。

 

 

 

(終)


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