ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.54「片思い―甘く、疑わしく」

***

 

 

 分かってしまうのが怖いから、わたしは敢えて、あの人の目を見なかった。

 

 だけど、何が分かってしまうから?

 

 わたしがあの人のことを好きだということが? あるいは、その感情がわたしの思い違いであるということが?

 

 あの人の目を見るためには、わたしは見下ろさないといけない。たった140センチというとても小さい体の彼は、地重管理人(ノーム)として、自然の状態では弱すぎるアクアの重力を管理し、わたし達の生活を快適にしてくれている。

 

 アルバート・ピット――アルくんのことだ。

 

 彼は道端で出くわしたりした時、わたしによく話しかけてくれる。話すのは他愛のないことばかりだ。天気のこと、食べ物のこと、休日のこと。

 

 最初は何とも思っていなかった。ただ何となく、気が合ってくつろげて楽しい相手だという風に思ってカジュアルに接していただけだった。常に敬語で博識の彼の話は勉強になるし、途中、突っ込んだりして遊ぶのは、わたしに喜びを与えた。友達だと思っていた。

 

 彼との会話ではよく笑い、よく感心した。

 

 会って数ヶ月経った頃、わたしはわたしの心に、ある感情が芽生えていることを知った。

 

 その感情は知らない内に、わたしの内に根付いていた。

 

 何だか楽しいようで、苦しかった。躁状態と鬱状態が代わる代わるあらわれて、わたしは自身の気分の乱高下に悩んだ。ある時は羽が生えたように身軽に愉快だが、一方では理由のない憂慮に沈んでしまうのだった。食欲はだが一定して乏しく、それまで一日三食食べていたところが、二食で十分になってしまった。それ以上はお腹に入らなかった。体重は目に見えて減り、痩せたが、スレンダーになったというよりは、むしろやつれたのだった。

 

 以後、わたしは道を歩いていて、あの人、ないしは彼によく似た人影を見かけると、緊張し、目を伏せてしまうようになった。その人影が彼であれば、緊張を悟られないように意識して応じ、彼でなければ、言いようのない安堵に胸を撫で下ろすのだった。

 

「藍華ちゃん、疲れてない?」

 

「えっ」

 

 ある日、合同練習でARIAカンパニーの灯里と一緒になった時だった。夕方で、撤収しようというところで、おれんじ・プラネットのアリス――後輩ちゃんはいなかった。

 

「眠たいのかも知れない」

 

 動揺してしまったわたしは、咄嗟に言い繕った。

 

「寝てないの?」

 

 灯里が首をかしげる。

 

「うん。ちょっとね」、とわたしは、誤魔化しを続ける。「面白い小説があって、夜寝る前に読むんだけど、夢中になっちゃって、夜更かししちゃうのよ」

 

 ふうん、と灯里が納得したのかしていないのか釈然としない表情で言う。

 

 灯里はだが、特に拘泥せず、わたしの不調に対してあまり穿鑿してはこなかった。

 

 灯里に相談してみようか、などと考えたことがあった。しかし、垢抜けない彼女に相談したところで、あまり有益になりそうには思えなかったし、何より自分の感情を吐露してしまうことが、恥ずかしく思われた。

 

 幾夜、わたしは胸の中に重たい鉛玉を抱いている気分で、取れない疲労感と、晴れない疑雲と、延々と続く問いに悶々と過ごした。美味しいはずのご飯はまずくなり、残してしまうことが多かった。

 

 その間、わたしは彼と何度か会い、話を交わした。彼はその博識より色々と話題を振ってくれた。わたしはしかし、ぎごちなく生真面目に返すばかりで、別れて後で後悔することが多かった。あの時ああ言えばよかったのにとか、あの時笑ってあげればよかったとか、小さい悔恨を長々と引きずることがよくあった。

 

 基本的には目を合わせない、合わせられなかったが、不意に束の間だけ合わせられる時があって、そういう時にアイコンタクトを取ると、わたしは彼の瞳をまじまじと見るばかりで、意識が吹っ飛んで、話が途切れてしまうのだった。彼がきょとんとするほど、わたしは彼の目を見ていた。

 

 まだ、分からなかった。――だが、やがて分かってしまう気がした。そういう未来が見えたし確信されさえした。彼の瞳が、語りかけてくるのだ。わたしはその言葉に耳を傾けるのが怖かった。

 

 だから――分かってしまうことが、明らかになってしまうことが、怖かったから――わたしは敢えて、彼の目を見ないようになった。

 

 すると、自然と距離が離れ、会う機会、話す機会が減っていった。

 

『藍華ちゃん、疲れてない?』

 

 そう聞かれることが多くなった。灯里に限らず、晃さんにも、後輩ちゃんにも、同様に聞かれた。皆、気の毒がるようにわたしを見た。

 

 休みの日、ゴンドラを漕がなくてもよい日、わたしはぼんやり、地重管理人のいるアクアの地下にフラッと行こうかなどと考えて、だけど断念して、後悔して――という遅逡逡巡と呵責を繰り返した。わたしはすっかり不安定になり、惑乱していた。

 

 わたしはわたしのこの恋、この片思いにおいて、アルくんと平行線を辿っている。

 

 わたしと彼の合わせて二本の線が、それぞれの行く先で交わるのかどうかは、まるで読めなかった。

 

 ――というのは、わたし自身の問題である気がした。わたしが思い切りさえすれば、全ては終結するのだ。そして終結は、新しい始まりとなる。

 

 だが、怖かった。わたしは依然、敢えて彼の目を見る試みに挑戦しなかった。

 

 今のこの片思いが楽しいのだろうか? あるいは、破局を恐れているのだろうか?

 

 未来なんて永遠に来なければいい――今さえよければ。

 

 色々と思いわずらっている内に、わたしにおいて、躁と鬱のバランスが崩れていった。躁が減り、鬱が増えた。動悸が激しくなり、体温が上がった。

 

 彼を抱きしめれば、抱きしめさえ出来れば――

 

 わたしは完全に、病んでしまっていた。

 

 

 

(終)


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