ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
***
寒い日。
季節を分ける雨が降るとテレビかラジオで聞いた。
実際、朝目覚めると、わたしは布団の中に深く潜っていた。
身震いするほどではなかったが、床を出ると、確かに空気の温度が違った。何というかサラッとした感じだ。夏の暑い湿った空気がベタッとしているのに対して、秋冬の空気は乾いている。
少しだけ開けていた屋根裏部屋の円窓からは、冷気が入ってきている。涼を取るにはいささか冷たすぎるようだ。
円窓から見える空模様は満面一様ではなかった。
おおむね厚い雲に覆われてくさくさとした色合いだったが、雲間が少しばかりあいていてそこには清々しい
今日はアリシアさんにお使いを頼まれているのだった。アリシアさんは仕事で留守だ。
わたしはサッと洗顔やら着替えやら、諸々の朝の支度を済ませてしまうと、簡便にごはんを食べてしまった。
今日は寒い。セーラー服の上にグレーのパーカーを重ねよう。
バスケットを携え、ARIAカンパニーの戸締りをして外に出ると、ポツポツと断続的に首筋や手を打つ冷感に気付く。
雨。
傘を差そうと束の間考えたが、迷った。
――とりあえず、折り畳みの簡易の傘をバスケットに入れて、しばらく様子を見ようと思った。
通りを行く。幾人もの人々とすれ違う。見知った顔。赤の他人。子供。老人。
前日とは皆、装いを変えていた。すっかり厚着して、防寒対策はばっちりだ。
ふと、流れる人通りの中に紛れ込む一人の男性に、わたしは注意がいった。
キリッとした目鼻立ちに、人懐っこいおずおずとした顎。厳格そうで、だけど優しそうだった。笑えば、どういう顔になるのだろう。大声を上げて笑うのだろうか。控えめに笑うのだろうか。
若い男性だった。わたしはしばらく足取りを緩めて、目を奪われた。パリッとした上質のスーツを着こなしていることも、好印象だった。
――一目惚れなのだろうか。
「灯里」
人通りを離れ、ひとり、ひっそりとした住宅街の水路にかかる橋上で、欄干に腕を組んで物思いに耽っていると、声をかけられた。
「藍華ちゃん」
わたしは振り向いた。友達がそばに立って、わたしの目を覗き込むように凝視している。偶然にも、彼女もわたしと同じく、セーラー服の上にパーカーという恰好だった。
「何、ボーッと突っ立ってんのよ」
「うん……」
歯切れの悪い返事。心ここにあらず、という感じだ。茫然としていた。
「誰かかっこいい人でも見つけて、目を奪われたりしてたんじゃないの?」
「えっ、どうして分かっちゃうんだろう」
わたしは驚いて尋ねた。
「ひょっとして、当たり? アハハ」
口から出任せに言ったのだろうか。彼女自身、意外というようで、驚いて笑っていた。
釣られて、わたしまで笑ってしまった。それまでボーッとしていたのが、シャキッとしてくるようだ。
――最初寒かったが、歩いていると、だんだんとポカポカとしてくる。また明るい日差しが出てきたので、その影響があるのだろう。
わたしは藍華ちゃんとしばらく一緒に歩くことにした。細かくは知らないが、彼女は彼女で晃さんに用事を頼まれているということだった。
「ちょっとうっとりした感じだったんだもん。それでまぁ、ね。しょせん直感だけど」
「何か恥ずかしい。わたしって、分かりやすいのかなぁ」
「結構、分かりやすいわね」
藍華ちゃんは腕組みして、しみじみとした風に言う。
「エェー」
秘めるべき感情が筒抜けになっていることに、わたしは情けない気持ちになる。
「けど、そういうところが、灯里のいいところじゃん……って言うと、怒る?」
「別に、怒りはしないけど、ハァ」
思わず、ため息。
関心を持っている人、好きと思う人が近くにいると、自然と目で追いかけてしまう。監視するのだ、誰にも取られたくないから、奪われたくないから。また、その人を見ることそれ自体が、
藍華ちゃんは、よく共感出来るのだろう。彼女には彼女で、思い人がいるから。小柄で、物知りで、おとなしい眼鏡の男性だ。
――小雨だった雨が、本降りになった。あったはずの雲間が閉じて空が一面曇りになり、落とす雨粒を大きくした。
わたしは傘を持ってきていたが、藍華ちゃんは持ってきていなかったので、わたしは中に入れて上げた。
狭い傘の中、わたしと藍華ちゃんは肩を擦れさせて歩いた。通りの中には傘を忘れて雨宿りする人や、急ごうと走り出す人や、悠々と抜かりなく持ってきた傘を差す人など、色々だった。
「悪いわね」
姫屋のすぐ前まで随行すると、藍華ちゃんが簡便に謝礼してくれた。
姫屋の表玄関のガラスの向こうにふと人影が見えた気がしたが早いか、わたしはその人影がすぐ晃さんだと気付いたので、ペコッと会釈した。晃さんは薄く微笑んで返してくれた。
わたしは藍華ちゃんと別れた。
閉じた傘には雨粒がびっしりと付いている。
しかし、雨はまた小止みになり、また降り出すのか、すっかり上がって晴れるのか、イマイチはっきりしない。
寒かった。季節を分ける雨。ネオ・ヴェネツィアの住宅がこぞって鎧戸の窓辺に飾る小鉢には、薄桃色や白色のコスモスが秋風に揺れている。夜は空気が冴えて星影が明るい。
だが、やがてコスモスがシクラメンになり、雨粒は冷たさを増して凝固し、雪となってしんしんと降り積もり、辺りを白く染める。
誰かへの好感、慕情が――形而上のものであるにも関わらず――手に取るように分かってしまうのは、やはりよいことではないだろう。
だけど、そういうものを惜しげなくあけすけにすることは、かえってアピールになって、隠すよりむしろよい方にことが進むのではないか――
夕方になった。ARIAカンパニーに帰って事務仕事をし、区切りが付いたところでうたた寝してしまったわたしは、目を覚まして室内に差し込むオレンジ色の夕陽に、軽く目を眩ませた。
うたた寝の間、夢を見た。夢の中で、わたしは羨望していた。藍華ちゃんに羨望したのだ。彼女は幸せそうに意中の男の子と両想いの恋愛をしていた。わたしはひとりぼっちだった。
仕事で使用したパソコンをシャットダウンして閉じると、ギシギシとこわばった体を運んで外に出た。
すると、珍しいものが見えて、わたしは魅了された。
日暮れがたのかげりを帯びた空に、七色のアーチがかかっていたのだ。虹だ。途中で途切れていない、フルアーチだった。
ARIAカンパニーの日陰から、その長い虹は全体が見えた。
わたしはより大きいスケールで眺めたいと思い、ARIAカンパニーの中に戻ると、屋根裏部屋よりベランダに出、はしごを上って屋上より改めて虹へ目を向けた。
冷たい風が髪を煽り、剥き出しの肌に鳥肌を立てた。わたしは両腕で自身を抱いた。
ネオ・ヴェネツィアの端から端へ、サン・マルコ広場の大聖堂の
虹はだんだんと、夕日が沈み、夜が近くなるごとに薄まり、やがて目を凝らさなければ見えないほどになった。
雨は上がった。雲は大方しりぞいて残ったものは夕焼けにちょっとした情緒を添えていた。
アリシアさんが、程なく帰社するだろう。
寒い日和だった。季節の潮目の日だった。雨は季節を進めた。秋が帰り支度を始めたのだ。
アリシアさんは、あの虹を見ただろうか。
少しばかり掃除しておきたいところがある。アリシアさんが帰ってくる前に、済ませてしまいたい。
わたしは用心してはしごを下りると、屋根裏部屋より下におり、照明を付けると、微かに身震いして、こう思った。
――そうだ、ストーブを出そう。
(終)