ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.51「思慕~切なさとわずらわしさと」

***

 

 

 

 ハァ。

 

 息を吐くと白む。

 

 秋が別れを告げ、冬が挨拶に訪れようとする頃。すでにかなり寒くなっていた。

 

 朝、うっすらと曙光が辺りをゴールドに染める時、家々の鎧窓にあるプランターの草花や、水路にかかってひっそりと獲物を待ち受けている蜘蛛の巣などは、露をまとって輝いていた。

 

 

 

 不思議だ――と少女(アリス)は思った。

 

 

 まだ早い朝だ。普段起きない時刻に起きて、一体どうしたのだろう。自問した。

 

 マフラーまで首に巻いて通りをブラブラ歩きし、明るみだした空を見上げ、どこか現実感の乏しい地面を、空を渡る雲のようにフワフワと歩き、湿っぽい晩秋の空気のにおいを鼻に感じている。

 

 理由は明白である気がした。

 

 しかしアリスは内心で――違う、そうじゃない――と否定していた。

 

 これは、この感情は、『恋』ではないはずだ。なぜなら、わたしが最近意識するようになり、暇さえあれば思いを馳せるその人は、年を取っており、更に言えば、わたしの父より、ひょっとすると上なのではないか……?

 

 

 

 発端は、その男性がオレンジ・ぷらねっとに来て、街のガイドを頼んだことだった。

 

 彼の担当はアリスがすることになり――ただし、まだ一人前ではないので――第一級(プリマ)のアテナに同伴することになった。

 

 その仕事そのものは、成るほど、一人前でないゆえの拙さがあったものの、アテナの補助が効いてか、すっかりダメというほど拙劣ではなく、ビジネスとしてかろうじて成り立っていた。アリスは緊張し、アテナもちょっぴり後輩の仕事ぶりに肝を冷やしたが、男性の客は満足して帰った。

 

 

 

 アリスは、初めは彼のことを何とも思ってはいなかった。何となれば遥かに年上で、既婚で、家庭を築いていたのだ。

 

 

 

 ところが、事情はちょっとした変化を見せた。

 

 

 

 男性の客は、その後何度かオレンジ・ぷらねっとに来店し、またアリスに仕事を頼んだ。毎回アリスに仕事を頼むので、アリスが慣れてしまって、はじめは添乗していたアテナは、やがて添乗しなくなって、アリス単独でガイドすることになった。

 

 

 

 どうしてこの人は、決まってわたしに仕事を頼むのだろう――と、その内アリスが疑問に思いはじめるのは、無理のないことだった。

 

 

 

 男性との時間は楽しく、欣快だった。緊張がだんだんと、彼に慣れてしまうことでほぐれ、一緒になってくつろぐようになった。他愛のない話で時間を潰し、ガイドそのものは二の次になった。

 

 彼と知り合ったのは、かれこれ半年ほど前のことで、当時は、生来人見知りの性質のあるアリスのことなので、あまり積極的に話そうとしたりせず、敬して遠ざけていた。

 

 それが今では、互いに近しくなり、とうとうアリスが、男性の来店を期待するようになった。

 

 

 

 アリスは、仮にその感情が『恋』だとするなら、それ以前にはなかった。すなわち、その男性が、彼女にとっての初恋だったのだ。

 

 しかし、親より年上かも知れない相手に対して抱くその感情について、彼女は思い悩んだ。『恋』では決してないと、彼女は半ば強制的に断じた。年齢の隔たりが大きすぎるし、接点がないし、深い情事を求めなかった。ただ一緒にいるだけで楽しかった。

 

 要するに好感だったのだ。しかし好感というには、彼への期待の感情に、妙にもやもやとした霧がかかって、その正体を謎めいたものにしていた。

 

 

 

 好感以上のものが、何かある?――アリスはじっくりと考えた。

 

 

 

 思いわずらいだして以後、男性を案内する機会は何度かあった。その時、彼女が探るように彼の顔を眺めるたびに、ありえない、と、内心で失笑が起こるのだった。かっこいいと思わなかったし、彼への『恋』は、完全に非現実的だった。

 

 だが、アリスの内では、戦いがあって、『恋』を肯定するものと、否定するものとが絶えずぶつかり合っていた。そして心の内においては、外で非現実的である『恋』が、なぜか現実味を帯びているのだった。

 

 男性の客は来店しなくなった。暖かい季節が終わって久しい。すっかり寒くなったのだ。

 

 アリスは彼を思う。ゆうべ彼女の夢に彼が出た。夢では何気ない日常が夢特有のぼんやりしたフレームの中に描かれていた。本当に、何気ない日常だった。アリスがゴンドラを漕いでネオ・ヴェネツィアを巡った。そして男性と和気藹々と談笑しているのだった。

 

 

 

 その夢が醒めると、朝だった。目覚ましが鳴るより遥かに前だった。

 

 

 

 わたしは彼に、何を期待している? 好感を越える何かが、わたしをして彼を希求させている。

 

 

 

 アリスに恋愛の経験はない。ウンディーネの素養が高いということで若年にして親元を離れたことが、懇意にする年長者への思慕に繋がっているのだろうか。そういう風に考えて、結論付けたところで、胸を軽く締め付ける切なさ、憂鬱、物思いは、解決しなかった。

 

 ブラブラ歩きして、アリスはリアルト橋へと来ていた。

 

 橋からは、大運河(カナル・グランデ)がうねる彼方までくっきりと見える。朝日が昇り、街を明るく照らしている。

 

 息は吐いても白く見えなくなった。首元が群れて、アリスはマフラーを外した。草花に下りた露は、乾いたに違いない。

 

 

 

 風に混じって、秋の湿っぽいにおいがする。

 

 そしてそのにおいは、アリスの内なる感情を刺激し、ムズムズさせる。

 

 ――違う、そうじゃない――彼女は否定する。断固、否定する。

 

 秋が過ぎようとする。

 

 しかし、アリスの『恋』に似て非なるものは、依然、移ろいも、変わりもせず、はじめにあった時のままで、冬を迎えようとするのだった。

 

 

 

(終)


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