ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.5 「New Stage」

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 水の都ネオ・ヴェネツィアの中央より外れた、潮風の入り口である海辺の静閑なエリアには、一軒のこぢんまりした酒場、いわゆるバーがあった。

 

 夜だった。薄明るいランプで闇の中にぼんやり浮かび上がる、そのいくぶん怪しげな店の入り口の上部の看板には、『SALTY BREEZES』という店名を示す横文字が照り、黙々と客寄せしていた。

 

 晴れた夜空に並ぶ星は、その店の看板よりずっと質素な仕方で照り、高い空気の海をゆっくり漂っていた。

 

 『SALTY BREEZES』の中は、シャンデリアの照明が控えめで、薄暗いくらいだった。円形のトレーを手のひらに載せた給仕が、料理やドリンクを運ぶため、鮮やかな花が花器に活けてある、四人ほどが付けるテーブルの並びの間をせかせか動き回っている。テーブルはほとんど満員だった。

 

 内装は、普通のバーと違うようだった。部屋の端にあるくぼみのような部分は、白っぽい石で出来、浅い洞穴のような見た目であり、そこにはステージの台が小高くせり上がっている。奥の壁には、歌っていたり金管楽器を吹いていたりする、偉人的な威光を放つスマートな黒人の大きな写真が貼ってあり、要するにここは、ジャズ・バーなのだ。

 

 ステージには巨大で黒光りする高価そうなグランドピアノ、メタリックな光を放つドラムセット、シックなイメージのするウッドベース、等々の楽器が豪華にセットされており、他にはまた、マイクスタンドがあった。それぞれの楽器にはちゃんと演奏者がいて、しっとり大人びて粋な、即興的な音楽を奏でていたが、マイクのところだけは、歌手の出番がまだなのか、無人だった。

 

 そういえば給仕の中に、本来は給仕でない水先案内人が一人違和感なく入り混じり、他と同様せわしなく働いていたことに言及せねばなるまい。姫屋の藍華だった。

 

 黒い半袖のワンピースを着、頭には白い三角巾を、腰には同じく白い腰巻を付けている彼女は、片手のトレーに料理を載せ、あるテーブルの方に、給仕としての優秀さを偲ばせる端正な足取りで向かっていた。彼女に対して初見の人は、ほとんど確実に、彼女が実は水先案内人であるとは思い及ばないだろう。

 

「お待たせしました」

 

 妻と思しき人とテーブルに付き、和やかに話している禿頭の老人は、その声にはっとすると話を中断し、そばを向いた。そこには藍華が立っていた。

 

 彼女の運んできてくれた料理が、丁寧な所作でトレーより卓上へと移される過程に、老人は、まるで腹を空かせた家猫のように集中した。

 

「おぉ、ありがとう」

 

 提供された料理は、フライドポテトを伴う、網目状の黒い焼き跡が付いた厚いステーキだった。甘酸っぱいようなソースの香ばしい香りは、老人の食欲を大いにそそった。

 時に、藍華はひっそり、老人の歯にこんな分厚い肉は噛み切れるのと訝ったが、結構かくしゃくとした様子なので、恐らく大丈夫なのだろうと推測した。

 

 湯気の立つ出来立てのその料理に感心すると、老人はその横にある空のワイングラスを指でとんとん小突いた。

 

「これ、上等なやつをお願いするよ」

 

 そして彼は、嫌に色っぽい、老人特有の人懐っこさのある秋波を、しわくちゃの顔より彼女に送った。藍華はその意思を明敏に汲み取るとにっこりし、「かしこまりました」と一礼と共に言い残し、テーブルを去った。

 

 トレーを小脇に挟んで藍華は、空席ばかりのカウンターまで戻った。カウンターには長袖のシャツの首元に蝶ネクタイを付けた、普段は水先案内人だが、今は一時的にウェイターになっている晃がおり、グラスを布巾で磨いていた。

 

 藍華はカウンターの空席の内の、まだ中身の残っているドリンクのある一つを見下ろし、きょとんとした。

 

「あれ、あの子は」

 

 彼女の様子は、そこにいるべき者がいないことを示していた。が、彼女はそのことに固執せず、淡泊に「まぁ、いっか」と呟くと、顔を上げた。

 

 藍華はカウンターの奥の人に目を向け、「晃さん」と呼びかけた。「ワイン通っぽいお客様が、上等な一本ご所望です」

 

 晃はグラス磨きの手を止め、「上等ね」、と独り言のように聞き返した。

 

 磨かれたグラスは、照明を反射し、宝石のような清純な輝きを帯びていた。彼女はそれを、高く重なったそばのグラスの小塔に重ねると、藍華が伝えた客の注文に応えるため、後ろを振り返った。

 カウンター裏にはワインがずらりと並んでおり、選択肢は数多あった。が、晃は眼識があるようで、片手で顎を持ってじっくり吟味した後、一本抜き出した。

 

「これだな」 その銘柄を確かめた晃は呟いた。

 

 すると彼女は、藍華の方に向き直り、カウンターの彼女の目前の部分にボトルを置いた。

 

 藍華は首を伸ばし、穴を覗き込む時のように目を凝らしてその表面を見、「何だか地味ですね」、と素人臭い口調で言った。実際、ボトルに貼付されているラベルは派手ではなかった。

 

「ホントに上等なんですか」 彼女は疑り深そうに尋ねた。

 

 が、晃は自分のチョイスが間違っていないと確信しているように、少しの惑いも見せなかった。

 

「中身で勝負してるんだろう」 彼女はさらりと答えた。

 

 その一言で藍華はすっと納得が行き、「成るほどね」、と呟いて頬を緩めた。

 

「トレー」 晃は片手を差し出し、淡々と要求した。

 

「はい」 小脇に挟んでいる一枚を、藍華はその片手にジャストフィットさせるように彼女に渡した。

 

 藍華は上等と知ったボトルを大事そうに両手で持ち、その表面を改めて丹念に見た後、晃に目を向けた。

 

「それじゃ、奉仕して参ります」

 

 トレーを布巾で拭いている晃は、「頼む」と答えた。

 

 その後藍華は、老人の要望に応えに行くため、カウンターを去った。

 

 晃は、トレーを綺麗にする一方で、彼女の背中を目で追っていた。薄明るい照明で少しぼんやりおぼろに見える藍華は、老人のテーブルで、彼のワイングラスに器用にワインを注いでいる。

 

「あいつ」 晃はしみじみした様子で目を細めると瞑り、微笑した。「水先案内人のくせに、中々どうして、ウェイトレスの作法が板に付いてるんだ?」

 

 しばらく経って、藍華はカウンターに戻って来ていた。晃は藍華の器用さに、些少の嘲りと共に感心したまま、放心状態だった。

 

「晃先輩」 

 

 その呼びかけで、晃ははっとしてトレー磨きをやめ、目を開いた。すぐ目の前では、藍華が晃を上目遣いで見つめていた。

 

 藍華は心配するように少し眉を下げ、内緒話するように片手を口の脇に添え、晃に耳打ちした。

 

「(歌手の登場は、まだなんですか?)」

 

「あぁ」

 

 黒いベストを着用している晃は、その下の白いシャツの長袖を少しまくると、手首の腕時計を露出させ、時間を確かめた。

 

「そろそろ……

 

「ゲッ」

 

 自分の言葉を遮ったその呻きに似た声に、晃はきょとんと顔を上げ、藍華の様子を確かめた。藍華は、晃の磨き終えたトレーをさっと奪い、誰か顔を合わせたくない知り合いを見つけたかのように、それで顔の下半分を覆い隠した。トレーのない片手でカウンターの出っ張りを握っている彼女は、少ししり込みするような姿勢である。

 

 藍華は知り合いを目撃したのだった。それは水先案内人として同業者である、ARIAカンパニーのアリシアと灯里だった。普段は白いセーラー服姿の彼女等は、今夜は晴れ着姿だった。

 

 藍華は、晃のいる方に目を流した。

 

「(アリシアさん、今回のディナーショーのこと知ってたんですか?)」

 

「でっかい当たり前です」 

 

 第三者の声だった。

 

 藍華ははっとし、斜め下を見下ろした。空席のはずのところに、黒いワンピースを着、その色のせいか、いくぶん小悪魔的な魅力のあるアリスが、藍華を見上げ、着席していた。

 

 アリスは目線を藍華より逸らすと、正面を向いた。

 

「二人は仲良しさんなんですから」 

 

 藍華は腑に落ちないという様子だった。

 

「後輩ちゃん、いつの間に」

 

「お手洗いと、あの人の調子を見に行ってました」

 

「あぁ、そうだったの」

 

 藍華は、もう隠す必要がなくなったのか、トレーを顔より下ろし、再び遠くを見た。遠くではアリシアと灯里がテーブルに付き、和やかな時間を過ごしている。

 

「調子はどうだった」、と藍華が尋ねた。

 

アリスは「緊張しちゃってますね」、と答え、目を憂わしげに伏せた。「まぁ先輩の性格上、仕方ないことなんでしょうけど」

 

 ──真相を明かすと、このバーで現下行われているディナーショーには、実はアリスと同じ水先案内人で、彼女の先輩のアテナが出演することになっている。

 

 バーの入り口のそばに立つ黒板の看板には、『あの舟歌(カンツォーネ)の名手が、ジャズシンガーデビュー!!』、と、溌剌とした筆致で書かれ、「!!」の部分には、今夜のディナーショーが素敵になるに違いないというほとんど確信的な推定が叫ばれていた。

 

 アリスは悄然と先輩の緊張を憂え、ぼうっとしていたが、中身の残っている目前のドリンクが誰かに取り上げられることで我に返り、「あっ」と発して顔を上げた。

 

 ドリンクは藍華が持っていた。横取りしたことに関し、恐らく良心の呵責があまりないのだろう、彼女はしれっとした表情でアリスを見下ろしている。

 

「これ、ちょっと貰うわよ。慣れない仕事して、喉渇いちゃった」

 

 が、アリスはすぐさま手を伸ばし、藍華の持つドリンクを、断固渡すまいとするように持ち、引き留めた。

 

 一つのドリンクを引っ張り合い、二人はそれぞれ険悪そうに目線で火花を散らした。

 

「何よ。ちょっとくらいいいじゃないの。ケチ臭いわね」

 

「そう言う先輩は、でっかいお行儀が悪いです」

 

 火花は治まる気配がなかったが、ドリンクを巡る争いの結着は、年長者の介入により瞬く間に付いた。

 不機嫌そうに目を瞑っている晃が、トレーで藍華の頭をゴンと打ったのである。

 

「イデッ」 

 

 呻いた藍華は、打たれたショックでドリンクを手離し、お陰でアリスは、幸いと言うべきか、ドリンクを無傷の状態で取り戻した。

 

 藍華は半べその顔で年長者を見、片手で頭をさすった。

 

「ひどいじゃないですかぁ、先輩」

 

 晃はトレーを小脇に挟んで腕組みすると、目を開いた。

 

「お前は勤務中のウェイトレスだろう」

 

「本来は違います。今日はアテナさんのサポートで、例外的に……

 

「くわっ」 晃は威喝して顔を歪めた。「御託を垂れるんじゃない!」

 

 指導を受けた藍華は、やれやれといった様子で頭の手を下ろし、観念すると、目を瞑ってハァ、とため息した。

 

「相変わらず横暴だなぁ」

 

「一応これも、水先案内業の一環だ」 

 

 はたで知らん顔でドリンクを飲んでいるアリスは、眉をひそめ、晃の発言に密かに疑念を抱いた。

 

(それは無理があるんじゃ……)

 

 トンと、カウンターにグラスの置かれる音がし、アリスは顔を上げた。彼女はすぐそばに、二人分のドリンクの載ったトレーを見た。

 

 一体誰の注文か分からない様子でいる藍華は、「これは」、と独り言のように呟いた。

 

 晃の脇にはトレーがなくなっていた。目を瞑って俯き気味の彼女は、何か言いたげである。

 

「アテナに、持っていってやれ」

 

「はい」 藍華は訝しい思いと共に、トレーを持ち上げた。「でも、一つ余分にありますよ」

 

「それは」

 

 晃は細目を開け、束の間考え込むと、再び目を瞑り、「わたしの手違いだ」、と素っ気ない調子で答えた。「が、用意してしまった以上、元に戻すわけには行くまい。お前の好きにしていい」

 

「ということは、わたしが……」

 

 訝しい思いは晴れた。藍華はその手違いが晃の自分への気遣いだと察し、嬉しさで目を輝かせた。

 

 その快い感情はだが、アリスが服をちょんちょん引っ張ることで覚めてしまった。

 藍華は、彼女に何か物申すことがあるのだろうと思い、その口元まで首を伸ばした。

 

 アリスは、藍華に耳打ちした。

 

「じゃあその余分なドリンク、わたしに下さい」

 

 その要望に、藍華は反射的に不機嫌そうに眉をひそめた。アリスのグラスは、さっき飲み切ったのだろう、空っぽになっていた。

 

 彼女はアリスの厚かましい目をまじまじ睨むと、「後輩ちゃん」、と不穏な雰囲気をまとってすごんだ。

 

 その雰囲気に気圧されたわけではないが、アリスは藍華よりプイと目を逸らすと、正面を向いた。

 

「でっかい冗談です」

 

 そして再び藍華を見上げた。

 

「アテナ先輩は、楽屋にいますので」

 

 藍華は伸ばしている首を元に戻すと、目を瞑って微笑し、「了解」と答えた。そして全身で振り返り、首をねじって後ろを見た。

 

「それじゃ、行ってきますね」

 

「頼む」

「行ってらっしゃい」

 

 晃とアリスは同時に答えた。

 

 藍華が去った後、遠くのテーブルにいたアリシアと灯里がカウンターにやって来た。

 

「お疲れ様、晃ちゃん」

 

「あぁ」

 

 目を瞑っている晃は開けた。目の前には盛装した、まさに美女と言うべき人の艶姿があった。

 眼鏡をかけているアリシアは、ワンピースの上にジャケットを羽織り、首周りは煌びやかなネックレスで飾っていた。また、香水のフローラルな香りが彼女の色香を補強し、アリシアは、咲き誇る花のような麗しい存在感を見る者に与えた。

 

「見事なものだな」 晃は褒めた。

 

 アリシアは目を瞑って微笑み、「ありがとう」と礼を述べた。そして目を開け、前屈みの姿勢になると、空席越しにカウンター上に両腕を組み、上目遣いでウェイターに臨んだ。

 

「ショーの進捗状況はどう?」

 

 ウェイターはカウンターの下方よりグラスを手に取ると、高く持ち上げ、室内灯に透かし、細目で見つめた。

 

「状況か」

 

 グラスの面には灯火を遮る濁りがあった。そのことに気付くと、晃は即座に布巾を用意してグラスを磨き出した。

 

「ぼちぼち、と言ったところだ」

 

 そして何か不都合なことを言う時のように、流し目でそっぽを向いた。

 

「主役の緊張を除けば」

 

 アリシアは若干呆れたように、小首を傾げた。

 

「あらあら、アテナちゃんったら、そうなのね」

 

「まぁ今回のことは」、と晃はため息まじりに答えた。「あいつ自らが望んだことだ。あいつなりに、うまくやるんだろう」

 

 

 

 ──二人のそばでは、灯里とアリスが和やかに目線を結んでいた。

 

 灯里の衣装について言うと、彼女はアリシアより華やかさに欠けていたが、ノースリーブのワンピースを可憐に着こなし、透き通るような清潔な肌の腕を剥き出しにしていた。

 

「こんばんは、アリスちゃん」

 

「こんばんは、灯里先輩」

 

 灯里は目を瞑って微笑んだ顔でアリスの方に少しかがむと、その隣の空席に手で触れた。

 

「隣、いいかな?」

 

「どうぞ」

 

 快諾され、灯里はアリスの隣に座った。灯里はアリスを見ているが、アリスは、晃にそっぽを向かせた要因を心配しているせいか、灯里の方ではなく正面を向き、俯き気味だった。

 

「藍華ちゃんは?」

 

「先輩を落ち着かせに行ってます」

 

 灯里は目を瞑って苦笑した。

 

「緊張してるんだよね」

 

「はい。ステージでばったり倒れたりしないか、でっかい心配です」

 

 そう危惧されたステージ上では、客をリラックスさせ、また酔い痴れさせるジャズの、甘美であると同時に粋な、ウイスキー的な味わいのある演奏が続いていた。その軽妙な音色を聞いているアリスは、アテナが舟上で伴奏なしで歌声を響かせる、慣れ親しんだその光景を思い浮かべた。アテナの天与の歌声は、それだけで聞きごたえがあり、楽器は不必要どころか、むしろ余計とさえ思われた。そのためアリスは、彼女が程なくジャズ・バーのステージに立って歌を歌うことに、違和感を拭えないのだった。

 

「舟歌とジャズは、全く別物なんですよね」 アリスは懸念した。

 

 灯里は眉を下げて目を開け、「大丈夫だよ」、と励ました。「だってアテナさんは、立派な歌い手さんだもん」

 

「そうですね」、とアリスは、依然懐疑的に答えた。「首尾よく、ことが運んでくれればいいんですが」

 

 

 

 

 

 

 ステージの近くに、ぽつんと佇むように扉が閉まっていた。その奥には、衣装や靴が豊富に集まっており、要するに楽屋の扉だった。

 

 楽屋の中の隅っこに、まるで追い詰められた逃亡者のような恰好で縮こまっている女性がいた。スカートの長いノースリーブのワンピースとシルバーの耳飾りで盛装しているが、そのゴージャスな趣きが三角座りという姿勢で台無しにされている彼女は、ディナーショーの真打である、アテナだった。

 

 ドリンクを両手で包むように持ち、雪山の遭難者のごとく青ざめた顔でぶるぶるしている彼女のそばには、困惑したような顔で藍華がかがんで、その背中を優しくさすっていた。

 

「しっかりしてください、アテナさん」

 

「あぁ……」 

 

 すっかり怯えているアテナは、嘆かわしそうに呻き声を上げた。

 

「ダメダメ……体が岩みたいにガッシリ重くて動かないの……お家に帰りたい……ねぇ藍華ちゃん……帰っていいかしら……」

 

「何を仰るんですか。無理ですよ。今夜の主役はアテナさんなんですから」

 

「わたしが主役だなんて……そんな……わたしみたいな小心者が……」

 

「緊張し過ぎです。アテナさんは舟歌の名手なんです。立派に最後まで務め切れますよ。自信、持ってください」

 

 藍華は、アテナのドリンクに手を添え、口元まで運ばせようとした。

 

「ほら、飲み物飲んで、落ち着いて……」

 

 緊張に痙攣する手のドリンクを口に持っていったアテナは、はっきりしない意識で中身に口を付け、ぐびっと勢いよく行った。が、急激に喉に流れ込んで来たドリンクは、意識に異物と認識されたため、アレルギー反応的な現象が生じ、彼女は首を突き出して豪勢に噴き出してしまった。

 

「あぁっ! 呷っちゃダメですよ」

 

 楽屋の一角は小規模な洪水に見舞われた。

 

 藍華はぎょっとして目を瞠り、ドリンクより咄嗟に手を離すと、「大丈夫ですか」、とアテナに尋ねた。ほとんどその反対の状態を確信しての問いだった。

 

 ところがアテナは、なぜか嫌に冷静になっていた。

 

 別人のように「うん」と明瞭に答えたアテナの様子に、藍華は間抜けな調子で「え」、と聞き返さざるを得なかった。

 

 俯き気味のアテナは、拳で口元を拭った。

 

「何だか、安心出来た気がする」

 

 そして唖然としている人に目を瞑って微笑みかけ、「ありがとう、藍華ちゃん」、と謝した。

 

 彼女は目を開いてドリンクを藍華に返し、すっくと立ち上がると、ぽかんとしているその目を見下ろした。

 

「主役が怯えて登場しないんじゃ、ショーが前に進まないわよね。うん。反省して、自分の果たすべき役目を務めに行ってくるわ」

 

 ぽかんとした目は、扉を開けて外に出ていく、ある意味むら気と言うべき奇人の姿を、奇異の念と共に追った。

 

 かがんだ姿勢で両手にドリンクを持っている藍華は、まさに茫然自失の状態だった。

 

「急に正気に戻って、よく分かんないわね」

 

 考えるように、彼女は目を上向きにした。

 

「あんな動揺してたのに、どうして……」

 

 そして目を元に戻し、今バタンと閉じた、奇人の雰囲気の残る扉を見つめ、鼻でフンとため息した。

 

「たぶん、アテナさんみたいな人を、天才って言うんでしょうねぇ」

 

 藍華はそのように結論付けることで、ほとんど無理矢理納得し、奇異の念と当惑を抑え、激しい事態の変化を受け入れたのだった。

 

 

 

 

 

 

 客席の活況はまだ治まっていなかったが、そろそろ最盛の時は終わりかけていた。客の腹は満たされ、子供の喉は爽やかな果汁で、大人の喉はアルコールで、各自潤っていた。

 

 カウンターの状況は相変わらずだった。晃は内側に腕組みして立ち、アリシアは外側で、その上に腕を組んで前屈み気味の姿勢でおり、灯里とアリスは並んで席に付いていた。

 

 四人はステージの方を心配するように見ていた。ステージ上の演奏者達は演奏をやめていた。内一人は袖をまくり、待ち合わせに遅れる相手をじれったく待つ人そっくりの様子で、腕時計を確かめていた。

 

「アテナ先輩の出番なのに」

 

「全然出てこないね」

 

「やっぱり、緊張し過ぎて……」

 

 残念そうな余韻を残すアリシアの言葉の後、晃が何者かに気付き、はっとした。藍華が楽屋より戻って来たのだ。彼女はカウンターに向かって後ろ向きの恰好で、その上にくつろいだ感じで両肘を置いた。

 

「主役の不具合は解きほぐしてこれたか」

 

 藍華は目を瞑って俯き、「えぇ」と答えた。「じき、登場してくれると思いますよ」

 

 その報告を耳にし、四人の心配は解消され、灯里とアリスは共々にっこりし、アリシアは微笑んだ。

 

「アテナさんって」 藍華は目を開いて顔を上げた。「神秘的な人、なんですね」

 

 ステージ上の演奏者達が、そっぽを向いた。その方の物陰より、満を持してアテナが現れたのだ。彼女は、最初は微かだが、段々と盛大になっていく拍手の音に包まれてステージに上がり、マイクの前にスタンバイすると、演奏者達と目配せし合い、適当なタイミングを探った。

 

 そしてアテナ達は、たっぷり沈黙を置いてその歌を楽しみにする客を焦らした後、ささやき声のような極小のボリュームで、念入りに演奏を始めた。歌手は、それまで堅く閉じていた口を開け、絶佳の声を響かせ始めた。その清純であると同時に色っぽさのある声は、芳香のように屋内にあまねく、豊潤に満ち渡り、男には憧れを、女には羨ましさを誘起した。

 

 心に沁みるソウルフルな歌声に、客は魅了され、しみじみ目を瞑り、水先案内人を引退してなお健在である天使の歌声(エンジェル・ボイス)に、陶然と聞き入った。

 

 そして彼女のショーは、大勢の心をすっかり満足させた末、上首尾に終わった。主役の遅刻は意に介されず、幕引きは完璧だった。期待は応えられ、傷付いた心は慰められ、疲れは癒され、退屈は軽減された。

 

 明々と夜の海辺に照るジャズ・バーは、照明を消して閉店した。

 

 店内の客は、すでに引き払っていた。

 

 大きめのまるテーブルに、それぞれ手にドリンクを持った、晃、藍華、アリシア、灯里、アテナ、アリスの六人が、囲むように付いていた。全員集合だった。晃は首元の蝶ネクタイを外し、シャツの襟を少し開いており、藍華は頭の三角巾を外し、いくぶん癖の付いた青い髪が露わだった。

 

「それじゃ、ショーの成功を祝して」

 

 アリシアが音頭を取って言うと、全員はドリンクのグラスをカチンとかち合わせ、祝杯の声を合わせた。

 

 ──乾杯!

 

 卓上の中空に集合した六人のグラスは、互いに触れることで各々の喜びを分かち合い、その中身は、かち合った時の勢いで波打ち、少し飛び散った。

 

 陽気な歓楽の雰囲気の中で、しばらく時間が過ぎた。

 

 中身の減ったドリンクは、お菓子の用意された卓上に置かれていた。アリシアと灯里とアリスは、和やかに会話中で、アテナは、主役を精一杯務め切ったその疲れのせいか、ぼうっとしている。

 

 一人座席に深く座って黙々としている晃は、スラックスのポケットより小箱を取りだし、その内より長細い、片方が白で他方が薄褐色の一本を抜き出すと、薄褐色の方を口に咥えた。

 

 藍華ははっとして彼女のその所作に気付くと、呆れるように目を見開いた。

 

「晃先輩、また煙草ですか?」

 

 晃は藍華を静かな、だが物言う目で見据えた。

 

「務めは終わったんだ。わたしの自由だろう」

 

 一服しようとする晃にいち早く気付いていたアリシアは、苦笑いした。

 

「あらあら」

 

 晃は箱をポケットに仕舞うと、ライターで煙草に火を付け、しばらく煙を吸った後、吐き出した。

 

 藍華は嫌がるように左手で鼻をつまみ、右手を振って濛々と拡散する煙を払うと、「んーもう」、と忌々しそうに呟いた。

 

 藍華のそんな態度は、しかし晃にとってはどうだってよかった。彼女は疲れている人に目を向け、「おいアテナ」、と呼び掛けた。「支配人から、報酬はきちんと受け取ったか?」

 

 アテナは、上目遣いで晃を見返した後、自信なさそうに俯き気味になり、「うん」と小声で答えた。

 

 彼女の手には、金一封の入っているだろう封筒があった。晃はその薄いことを細目で見て取ると、煙を吹いて煙草を持ち、燃焼部の直前を、指でとんとん叩くようにして、灰を卓上の灰皿に落とした。その間彼女は、今夜バーに入店した客数を記憶の中に数えていた。

 

「あれだけの客を招いた割には、少ない」

 

 アテナは依然俯いていた。

 

 晃はムカッとし、「お前なぁ」、と呆れ返った調子で言った。「せっかく無二の歌声を披露したのに、それに正当な見返りを貰えないんじゃ、宝の持ち腐れだぞ」

 

「だって……」

 

 及び腰のアテナを責めようとする晃の態度を、アリスはいくぶん威圧的に感じ、そのため彼女に対して少し反抗的な目付きになった。

 

「あんまり言わないで上げてください。先輩は不器用なんです」

 

 晃は煙草を再び咥えた。

 

「何が不器用だ。アテナはわたし達の内で最年長だってのに」

 

 そして首をそらして天井を見上げ、フウと煙を、煙突のように真上に向けて排出した。

 彼女は、アテナを弁護しようとするアリスの気持ちに暗いわけでは決してなかった。忠実だと思ったし、健気だと感心しもした。

 

「まぁ、だが──

 

 晃は言いかけた。

 

 しかし彼女が最後まで言い切る前に、アリシアはその言葉を鋭敏に悟り、微笑みの顔で「うん、そうね」、と同意した。

 

 ──不器用でこそ、アテナ・グローリィなんだろうなぁ」

 

 本人はびくっとして「ウッ」と低く呻くと、手を胸に当てた。

 

「何かその言い方、心に突き刺さるような感じが……」

 

 晃はそらしている首を元に戻すと、目を瞑って微笑し、煙草を持って灰皿に灰を落とした。

 

「褒め言葉だぞ」

 

 そして目を開いて煙草をまた咥えると、「まぁ安心しろ」、と言った。「足りない分は、後でわたしが徴収しておく」

 

 両手で持ったドリンクに口を付けている藍華は、横目をじろりと晃の方に向け、「うわぁ、恐喝する気だ」、とこっそり呟き、グラスの内側を曇らせた。

 

 その途端、彼女は背中をしばかれた。当然晃の仕業だった。藍華は飲み込みかけたドリンクを吹き出し、灯里とアリスはびっくりして目を丸くし、テーブルと彼女の口元は汚れた。

 

 藍華は顔をしかめて激しく咳した後、拳で口元を拭い、責めるように晃を見た。

 

「ちょっと、先輩!」

 

「人聞きが悪い」 先輩はさらりと答えた。

 

 アリシアは、両腕で頬杖を突いて晃を見た。

 

「晃ちゃんは、平和的にことを成してくれるわよね」

 

 期待された彼女は、不敵ににやりと笑み、「無論」、と、なぜか尋ねる時のように語尾を上げて答えた。

 

 が、結局、ことは乱暴な技を必要とはせず、平和的に、円滑に済まされたのだった。

 

 

 

 

 

 

 夜が更けていて真っ暗なため、水路の辺りにひと気は絶えてなかった。

 

 そこを、一艘のゴンドラがゆっくり進んでいた。漕ぎ手は灯里で、乗客はその他の五人だった。帰る途中だった。

 二列向い合わせである客席の一方では、藍華とアリスが仲良さそうに寄り添い合って寝ており、晃とアリシアはその反対側に並んで座っていた。藍華と晃はラフな服装に変わっていた。

 アテナはと言うと、藍華達の隣で俯き気味に、藍華達が起きないよう注意して、窮屈そうに座っていた。そんな彼女とは対照的に、晃は、くつろいだ感じで脚を組み、片腕を席の上部に載せていた。隣のアリシアに対してその姿勢は、彼女の恋人であるかのように見えた。

 

 平和的に成されたことの結果として、厚い封筒が、アテナの手にあった。

 

「よかったわね、アテナちゃん」

 

「うん」、と彼女はしおらしく頷いた。「水先案内人を引退して、その後どうしようか迷ってたけど」

 

「歌手としてそれだけ定期的に確保出来れば、当面は安泰だろう」

 

 晃は真面目な無表情で言った。

 

「今日はありがとう。晃ちゃん」

 

 アテナは顔を上げて述べた。

 

「適切な報酬は、次は自分で交渉するんだぞ。わたしの手助けは今回限定だ」

 

 

 

 ──会話している三人を、ゴンドラの漕ぎ手は柔和に微笑んで、その打ち解けた仲間の感じを、傍観者的な眼差しで見守っていた。

 

「灯里」

 

 突然呼びかけられ、傍観者はほとんどびくっとした。

 

 晃は首を捻って振り返り、灯里を見上げた。灯里の目に、徴収をきっちり済ませたやり手の目付きは、鷹のように鋭く見えた。

 

「お前も、早い内に後のことは考えておけよ。水先案内人は、盛りの時が短い」

 

「は、はい。気を付けます」

 

 晃は正面に向き直り、お休み中の藍華とアリスをしんみり見つめた。

 

「まぁ、こいつ等の安心し切った顔を見てると、しばらくはアテナと同じで、安泰だと思うがな」

 

 そして再度灯里を振り返り、微笑んだ。

 

 灯里は晃に微笑み返した。アリシアとアテナも、同じ表情だった。

 

 緩やかに流れるゴンドラのはるか上方の夜空は、冴えて明るく、星々はまるで、新たなステージへ一歩踏み出すことに成功した歌い手を、褒称して慰労し、喜ばしい気持ちで祝福してくれているかのようだった。

 

 

 

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