ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

47 / 107
Page.47「夏を見つめて~セイとシの間で」

***

 

 

 

 空を見上げようとすると、思わずまばゆさに目が眩んだので、わたしは歩みを止め、とっさに手でひさしを作った。

 

 ギラギラと照り付ける灼熱の太陽は、夏を謳歌しているようだ。強い光を浴びて、空に浮かぶモコモコと大きく膨張したわた雲は、大気の流れに乗って青色の海を泳いでいる。

 

《あれは――》

 

 わたしは一本の長い筋雲を見つける。ゴーッという音。

 

 飛行機が飛んでいた。

 

《いったいどこへ行くんだろう――》

 

 わたしはしばらくの間、高所にあって粒のように小さい飛行機の後を目で追ったが、やがて雲の群れにまぎれて見えなくなった。そのエンジン音もやがて聞こえなくなった。

 

《……。》

 

 ジリジリと焼けるように暑い。日陰のない地面より、仮借ない夏日の照り返しがわたしに暑熱を浴びせる。

 

 わたしは目を細める。そして《そうだ》、と心中で呟く。《今は夏なんだ――》

 

 見上げる燦然たる太陽は高い位置にかかっている。昼だった。通りにボーッと立ち尽くすわたし。

 

 柄の入ったワンピース。ツバの広い麦わら帽子。剥き出しの二の腕より手にかけて、すでに軽く日焼けしている。

 

 額には汗の粒が浮かび、一定集まって重くなると、頬を伝ってしたたり落ちていく。

 

 ハンカチで繰り返し拭うが、きりがなかった。

 

 わたしは再び歩き出す。

 

 

 

 ――時間というのは有限だ。限られたその中で――起点より限界までの間で――わたし達は生きている――

 

 

 

 古都、ネオ・ヴェネツィアの一隅に、わたしが夏、好んで訪れる場所がある。

 

 足元に流れる水は澄明だ。すくって口にしてもよいほど清く澄んでいる。流れに反映するわたしの像は流れに従って揺れている。桃色のロングヘア―。

 

 サンダルの足を流水が冷やす。わたしがやって来たこの場所は歩いて通れる浅い細流(おがわ)――いわゆる洗い越しになっていて、行きどまりの水路と海へと注ぐ水路の間に挟まれている。アクア・アルタで水嵩が増えると通れなくなったりする。

 

 辺りにはわたしの他には誰もいなかった。わたしは水に浸した片足をバッと勢いよく、蹴るように上げた。すると砕けた川水がキラキラと光る粒子となって、ザブンという音と共に無数に散った。

 

 水面は少しの間波紋に乱れたが、やがて再び整った流れへと戻った。

 

 わたしは片手で、麦わら帽子の上端を押さえるようにして被り直す。

 

 帽子のツバを(つま)んで見上げた夏空は、雲ひとつなくなっており、なぜか普通より、はるかに遠く高く見えた。その様相は、まるで魚眼レンズで覗くように、だだっぴろく、そして果てしなかった。

 

 温かい季節の風が吹き抜ける。着ているワンピースの裾が、その煽りを受けてパタパタと脚部を優しく叩き、胸元には涼感が通り抜けていく。

 

 

 

 ――この時間が、この命が、そしてこの『季節』が、有限であるということが、疑わしくなってくるほど、わたしが今見つめる澄んだ碧落(あおぞら)は無限に広く、また高かった――

 

 

 

 まるで磨かれたようにツヤツヤとした光沢を帯びたたくさんの大きい果物が、木製の台車の堆く積み上げられている。全部同じ果物だった。緑色で丸く、黒いストライプの入った果物――スイカだった。

 

 或る男性が、行商で街中を売り歩いているようだった。

 

 わたしは一切れ彼に切って貰って、近くの日陰で壁に背を持たせて食べた。

 

 赤い実。黒い種。

 

 かじるとシャリッという音がし、甘い果汁が溢れてくる。

 

 目の前を幼い男の子が通りかかる。ちょうど、わたしが最後の一口を食べてしまおうというタイミングだった。

 

 汗だくの、お母さんに手を取って連れられていく男の子。指をくわえるようにして、わたしをずっと凝視して通り過ぎていく。お母さんの方は、わたしのことは特に意に介さない様子だった。

 

 彼がようやく目線を逸らして離れる頃、わたしは最後の一口を食べた――ぬるく、また、味が薄かった。

 

 

 

 ――『季節』の永遠を感じ、また願うことは、至福だった。しかしまた同時に、わたしは、悲嘆に胸を痛めていた。生と死の間に、わたし達はいる。わたしは『季節』の永遠を願う中で、その終焉を覚知していた――

 

 

 

 あの飛行機が残していった航跡の筋雲は、最早なくなっていた。

 

 時間が経ち、涼風が吹いていて、汗はひいていた。疲れた子供が、その背中で目を瞑って親に負ぶさっている。灼熱を放って燃えていた太陽は傾き、また雲に覆われてその勢力を弱め、辺りは薄暗くなっていた。日暮れだった。

 

 すっかり乾いた足とサンダル。

 

 波止場にいたわたしは、やがてやって来た水上バス(ヴァポレット)に乗り込んだ。

 

 ――風景が流れていく。風を切って走っていく水上バスは涼しかった。波に揺さぶられ、わたしは、だんだん眠たくなってくるようだった。目蓋が重い。

 

 

 

 ――夏日に煌めいていたあらゆるもの――海、空、雲、草花――その数々は、今すでに、迫りくる宵闇に溶け込んでいこうとしていた――

 

 

 

 始まりの希望。隆盛の喜悦。そして最期の悲哀。

 

 

 

 わたし達は、『狭間』に生きている。

 

 

 

(終)


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。