ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.46「うるわしのサニー・ブルー」

***

 

 

 

 何とも言えない快い淀み――午睡の淀みより、現実の呼び声に応じてゆっくり目を開くと、そのブロンドヘアーの水先案内人――アリシアは、ようやく自分が知らない内に寝ていたことを知った。

 

 彼女はロッキングチェアに座っていた。そのロッキングチェアは、クッションが厚く快適そうだった。

 

 頭を俯けることでずれて落ちかかっていた眼鏡をさっと上げると、アリシアは窓の方へ、まだ眠りの陰影の残る目を向けた。

 

 広々とした窓より、明るい陽射しが部屋へと差し込んでいて、壁に傾いて変形した窓のシルエットを映している。照明の付いていないほの暗い部屋。窓枠は陽光を帯びてくっきりと鮮明だ。

 

 空調で涼しい室内。季節は夏で、昼過ぎだった。

 

 半そでの服にゆったりとした、シルエットがスカートに似ているパンツ──くつろいだ格好のアリシアは、自分の手に一冊の本があることを知った。最近書店で買った小説で、読んでいる途中に、ウトウトして寝てしまったのだ。

 

 栞の代用に親指を挟んで目を瞑ったはずだったが、寝ている途中に親指が抜けて本はすっかり閉じている。開いて流し読みし、記憶と照合し、最後に読んだ箇所を特定しようとしてみるが、ピンと来るところはなかった。

 

 仕方なくテキトーに栞を挟むと、アリシアはその本をそばの窓枠の下のスペースに置いた。

 

 ――とても青かった。

 

 窓一面を染める、空の色のことだ。

 

 雲はひとつとして浮かんでおらず、せいぜい薄く生白い広がりとしてぼんやり流れているばかりだった。

 

 眠ることで口の渇きを覚えたアリシアは、ロッキングチェアより立ち上がって軽く伸びをすると、キッチンへと移動してコップ一杯の水を一気に飲んだ。

 

《……。》

 

 非番のため自宅で気楽に過ごしていた水先案内人は、じっと、窓一杯に移る空を見つめた。果てしなく青い夏空は、彼女をいざなうようにその瞳を見つめ返した。

 

 

 

 

 

 

 上は(カラー)の付いた腰下まであるオーバーサイズのシャツ。下はそのシャツに相応しい、同様にゆったりとしたパンツ。足にはサンダル。そういった出で立ちで、アリシアは、ネオ・ヴェネツィアの通りを歩いていた。

 

 手首には閉じた日傘をさげている。周りの建物が夏日を遮って涼しい陰を作ってくれているのだった。

 

 ひと気がなくひっそりとした細い通り。水路に沿っていた。通りの各所には水路のそばのこぢんまりとした乗降場(プラットホーム)へと下りる階段がある。

 

 アリシアは、特に目的地を決めずブラブラ歩きしていた。ネオ・ヴェネツィアは服飾品が有名で、あっちこっちにアパレルショップがあるので、通りに面してあるそのショーウィンドウの品を眺めるだけでも楽しかった。

 

 アリシアちゃん……?

 

 ふと声がしたかと思うと、アリシアははっとして振り向いた。

 

「アリシアちゃんよね。よかった」

 

 すぐ横に――水路に――白い帽子を頭にのせ、同色のセーラー服を纏った、アリシアと同じ水先案内人が、ゴンドラに乗って、一方では怪訝そうに、また他方では、視力が悪く確認するように、アリシアの顔をまじまじと見ている。

 

 彼女はしかし、その後ろ姿に知己だと見当を付けた相手が無事、その通りだったと分かって安堵し、ほっとする様子だった。

 

 ライラックのショートヘア。きめ細かい褐色の肌――オレンジ・ぷらねっとのアテナだった。

 

 このひと気のない中で不意の巡り合いに、アリシアはちょっと驚くと同時に、嬉しい気持ちになった。

 

 アリシアは通りのへりの縁石まで近付いて挨拶を交わし、軽く話をすると、すっかり意気投合し、アテナの操るゴンドラに乗せて貰うことになった。

 

 ――そよ風が低く、地を滑るように吹き通る。どこまでも青い夏空には、雲の粒子が広がってぼんやり滲んでいる。

 

「今日ってホントは」アテナが話す。「雨だったはずよね」

 

「うん。南の雨雲が近付いてるって、天気予報で言ってたわ。けど……」

 

「外れたね」

 

「そうね」

 

 二人はフフッと微笑み合って、天気予報がすっかり嘘であるかのように晴れ渡る青空を見上げた。

 

 二人は暫時ゴンドラで水路を進んだ後、ある広場の乗降場で下りて、すでに閉館した美術館の扉の前の、半円形の階段に並んで腰を下ろした。その扉がある側は、太陽と反対にあったので涼しい日陰になっていた。

 

「こういう晴れ空を見ると、家に閉じこもってるのが勿体なく思っちゃうわね」

 

 太腿に肘で両腕を立て、手で包み込むように頬を持ってアリシアが、悔やみを帯びた調子で言う。

 

 白いセーラー帽を脱いでお腹の辺りで持つアテナは、「あれ?」と、きょとんとして、その横顔を見る。

 

「アリシアちゃんって、アウトドア派だったっけ?」

 

「……」

 

 答えあぐねるアリシア。彼女自身、自分が外で活発に遊び回るタイプなのか、室内で静かに読書などして過ごすタイプなのか、釈然としなかった。

 

 考え込むアリシアの瞳を、アテナはじっと、恬淡として見つめた。

 

「昔――小さかった頃は」、とアリシア。「お家で過ごすことが多かった気がする。記憶を紐解いてみても、空とか雲とか、外のイメージが浮かんでこないの。浮かんでこなくて、その代わりに、本とか、絵とか、音楽とか、そういったものが蘇ってくるのよね」

 

「そうね」、とアテナ。「わたしが知ってるアリシアちゃんは、そういうイメージ」

 

「けど、あの子と知り合って、変わった気がするわ」

 

「あの子?」 アテナが小首を傾げる。

 

「あの子よ。こういう風に、眉毛を吊り上げて……」

 

 アリシアは、キリリとした表情を模倣して見せる。

 

 するとアテナは笑って、「あぁ」、と合点が行ったように笑う。

 

「晃ちゃんね」

 

 アリシアも笑って返す。ご明察とでも言うようだった。

 

「晃ちゃんが遊ぼうって誘いに来たりした時の、お母さんの、わたしを見送る困った顔を見るとね。気重で、ちょっと出かけにくい気持ちになることがよくあったわ。お母さんは、わたしが感化されて、晃ちゃんみたくなっちゃうことを不安に思ったんでしょうね」

 

「少し分かる気がする」

 

 アリシアとアテナは、揃って苦笑した。

 

「晃ちゃんって、ちょっと男勝りで、目付きとか、ちょっとキツいところがあるでしょ? 床しいお母さんにしてみれば、大なり小なり抵抗があったんだと思う」

 

「けど、杞憂だったね」

 

 アテナが同意を求めるように言う。

 

「えぇ」、とアリシアは即座に頷く。「わたしはお母さんの思いに沿わない形で、晃ちゃんと仲良しになっちゃったけど、感化はされなかったわ。もちろん、まったく感化されなかったわけじゃなく、とつぜん晃ちゃんに遊びに誘われた時みたいに――」

 

 アリシアは空を仰ぎ見た。

 

「――こうやって、青空に惹かれてフラッと外に出てくることは、多くなった気がするけどね」

 

 ふうん、としみじみ納得するアテナの隣で、アリシアはすっと立ち上がり、広場全体を見渡した――ひと気はまばらだった。

 

 アテナはその動きを追って見上げる形になる。

 

 アリシアはさっとお尻に付いた塵埃を払うと、「悪いわね」、と詫びた。「与太話に付き合って貰っちゃって」

 

 そしてアテナを見下ろし、続けた。

 

「アテナちゃん、オレンジ・ぷらねっとに帰る途中だったのよね」

 

「ううん」

 アテナは首を左右に振り、遅れて立ち上がる。

「与太話なんて……楽しかったわ。あんまりこうして二人きりで話すことはないもんね」

 

 二人はにっこりし合うと、ゴンドラに戻った。

 

 今度ゴンドラを漕ぐのは、アリシアだった。アテナは客席に座ってくつろいでいた。二人はそれぞれ口を開かず沈黙していたが、空気はぜんぜん重くなかった。

 

 ――やがてオレンジ・ぷらねっとにゴンドラが着き、降りると、二人は海の方へ向いて真っ赤に燃える夕焼けを眺めた。アリシアが関心を持って物色したアパレルショップを始めとして、あらゆる店は閉める準備に取り掛かっていた。

 

「雨雲は、どこへ行ったんだろうね?」

 

 アリシアが言う。

 

「さぁ?」

 

 アテナは首を傾げて返す。

 

「家に、読みかけの小説があるのよね。今日、うたた寝して中断しちゃったんだけど……」

 

 

 

 ――。

 

 

 

 照明が付いて明るいさっぱりした部屋。

 

 くつろいだ部屋着に着替えたアリシアが、飲み物の入ったカップを手に持って来、そばの窓枠に置くと、小説を取る。そして栞の挟まっているページを開き、栞を外す。

 

 数十ページほど読み進めた時、彼女は目を小説より窓へと移した。夜空には無数の星のまたたき。雨の気配は、絶えてない。

 

 明日は仕事だ。

 

 アリシアは晴れの予覚と共に本を閉じると、窓の両脇のカーテンをさっと閉めた。

 

 

 

(終)


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