ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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強い願望を持っていて、しかし実現しないでいると、眠っている時に、夢の中にその映像が深層心理などの手により演出されることがある。抑圧された欲求、満たされない焦燥の感情、えんえん叶えられることのない望みが伸ばすトゲによる痛みへの癒し。慰安。安心立命と自足への希求。
アリシアさんがARIAカンパニーをわたしに託して去って、早数年。光陰矢の如しで、わたしはすっかり年を食ってしまった。成るほどプリマという第一級の水先案内人に、及第困難とされる試験をどうにかパスしてこうしてアリシアさんの後継として、日々店の運営に客人のガイドにいそしんではいるが、自分があの憧れていたアリシアさんと同じポジションに立っているということが、今一歩ピンと来なかった。まだまだ不器用に、無邪気に、本能と興味に追従して放恣に生きているように思っていた。垢抜けない世間知らずの、マン・ホームの生娘という自覚があり、とにかくがんばってネオ・ヴェネツィアの文化と生活に慣れて、マン・ホーム人としての気質という殻を脱ぎ捨てて、現地の人に認めて貰おうという気負いが強かった。
けれど、その気負いは、ひょっとすると、無用のものだったのかも知れない。別にわたしは、アクアを訪れて人付き合いに不自由したことはなかったし、また周りの誰も彼も、わたしに対して異邦人と接するように接する人はいなかった。絶えていなかった。わたしはマン・ホームにいた時も、アクアに越してきた後も、大きく変化することはなかったと思う。『水無灯里』は、ほとんど一直線の道を歩いてきた。
最近どうしてか、頭痛が断続的に起こって、クラクラする。痛み止めを飲んでも余り効き目がないので、本来するべき仕事をアシスタントの子に任せてしまうことが数度あった。お店のリーダーとして情けないことである。
アシスタントの子は、わたしの不調を察知したようで、ある時わたしに、ゆっくり寝た方がいいと忠言してくれた。
そう言われて困惑と謝意の入り混じった苦笑いをこぼしたが、よくよく思い起こしてみると、わたしはずっと、熟睡した覚えがなかった。否、実際は熟睡したのだろう。熟睡したに違いない。ただ、わたしが辿った幾夜の眠りの連なりは、どれもこれも空白であった。全ての眠りは、仕事と仕事の間のインターバルでしかなく、わたしはそこで、昏睡の深淵に沈んでいるだけであった。
夢――淡い恋の、起きて落胆するけど、見てよかったと思える夢、また、わけの分からない思い出すのが苦難である荒唐無稽の夢、また、目覚めの後にずんと重々しく残る悲劇の夢。あらゆる夢は、心理心情の表出である。夢は、自身に見せつける千変万化する鏡であり、自身から出で、自身へと返る
わたしは気付いた。わたしには、そういったまぼろしの経験が、ある時点よりすっかり欠落していたのだ。必要と特別思わなかったので、積極的に疑義を抱くことがなかった。
彼女が夢の意義を理解した上で、わたしに忠言したとは思えない。しかし、その忠言は決定的にわたしに天啓を与え、わたしの悟性を活性化させた。
わたしはその日の夜、屋根裏部屋のベッドの枕に自分のずきずき痛む頭を乗せると、両手をお腹の上で祈るように握り合わせて目を瞑った。
サラサラ――聞こえているのは、ただ波の音ばかりだった。
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風は穏やかで、海は凪いで静かだった。波の音に耳を澄ましていると、重たい頭がグラッと揺れて、その勢いで倒れそうになる。何度かそういうことがあって、わたしは、ゴンドラを漕いでいるので、ずいぶんヒヤリとした。
頭をポリポリと軽く掻き毟る。爪を立てて、痛みで頭が冴え渡るように。しかし無駄だった。わたしは手のオールを船上に置くと、客席にべったりと座り込むと、空を見上げた。満点の星が瞬き、じっと見つめていると、光源へと本能的に惹かれる羽虫のように、吸い込まれそうになって、またクラっと平衡感覚を瞬間的に失うのだった。
海上は寒く、初夏でも身震いするほどの冷気が漂っていた。灰色のゆったりしたローブが頼りだが、冷気は繊維の隙間を自在に透き通っていくのだった。
夜だった。目を遠くにやると、真っ黒の水平線と真っ黒の夜空とが、渾然と融合してその境界線がほとんど消えようとしていた。星々の微光が、かろうじて海の表面を浮かび上がらせている。
オールを操作していた手のひらを見る。さほど苦労を思わせない無垢の手のひらだった。だが、微かに震えていて、その手首を別の手で握ると、やはり小刻みに震えるのだった。
どうしたのだろうと不安に思ったが、結局放り出して、座席に上端より首を主点に仰向いて、星空を見上げた。
無言に、無為に、時と風の流れに任せてしばらくその姿勢で無数の煌めきに見入っていたが、脳裡にふるさとの影がうっすらとよぎった。マン・ホームでのこと。学校のこと。両親のこと。
わたしが初めてアクア行きの星間連絡船に乗ったのは、まだ算数さえロクに出来ない幼齢の頃だった。シャトルバスに乗って空港へと行く道中はわくわくしていたが、だんだん遥か彼方へ旅立つこと――実際は一週間程度しか滞在しなかったのだけど――日常より非日常へと飛び移るというそのアクションに、恐怖心を抱いた。両親との旅行だったが、シャトルバスを下りて空港に着き、連絡船に乗って下りて、アクアのホテルで眠るまで、わたしはずっと先導する父親の手をしがみつくように握っていたのだと、後で教えられた時、何となくすっきりしない気持ちになったことを覚えているが、思うにプライドが反発したのだろう。アクアに着いた後は堰を切ったようにはしゃぎ回って、帰りの連絡船では打って変わって疲れて眠っていたのに。
だが、あの頃よりずいぶんと星霜を経、両親は年寄りに、わたしは壮年になったのに、本質的には変化していなかった。
この震える手は、父親の手を求めて震えているのだ。わたしは不安だったのだ。何より、わたしは旅路にいるのだ!
知覚、驚倒に、まるで共鳴するように、凪いでいた海で波が立つ。風がさんざめく。ゴンドラが揺れる。
わたしはだらしなく仰向いた顔を元に戻し、立ち上がる。重い腰を上げ、置いていたオールを持ち上げる。不安に負けたくなかった。怯える自分に打ち克ちたかった。自身の力だけで、行くべきところに行かなければいけなかった。
アリシアさんのまぼろしが、わたしを支える。わたしの手にこもった力。案内のすべ、操船のすべは、全部アリシアさん譲りのものだ。自信を持ってよい。否、持たないといけないのだった。何となれば、わたしは
☆
軽く化粧を済ませて、鏡台の鏡を見る。にこっと笑って、美人だと言い聞かせる。はにかみではない笑顔。物怖じしない誇負。万端ばっちりだった。まぼろしの記憶、その余韻はまだ新しかったが、ずっと浸ってはいられなかった。
鏡台を離れ、ベッドのそばの窓を開放する。すると晴天の朝のすがすがしい空気が一挙に流れ込んでくる。わたしはその爽快さを胸いっぱいに吸い込むと、階下に下りていく。アシスタントの子が来るまでに、朝ごはんを作らないと!
リビングに下りてすぐ、日めくりをめくる。テレビを付け、天気予報をチェックする。今日は真夏日になるそうだ。
しゃかりきになって家事にいそしんでいるわたしだったが、そういえばと思って額に手をやった。
頭痛は、すっかり治まっていた。
(終)