ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.42「失われたユーフォリア」

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 ネオ・ヴェネツィアは観光の街だ。ほとんど常に、訪問客が途絶えることがない。雨の日も、雪の日も。日々異国から、または遠路はるばる異星から、あるいは客船に、あるいは星間連絡船に乗って、古き良き時代の雰囲気と文化を色濃く残すこの古都へとやってくる。

 

 従って喧噪は当たり前で、たとえ今、雑踏に立って呼びかけられたとしても、気付かずに無視することになるか、よしんば気付いたとしても、てんで違う人の方を見て怪訝に思ったり、途方に暮れたりすることだろう。

 

 だが、その音――その澄んだ、教会かどこかの鐘の音は、妙にわたしの耳に響いた。何かはっとさせる音色で響いた。そして海鳥の高い鳴き声が余韻として残った。すると雑踏のひしめきはわたしよりさっと退いて、そのざわめきは静かになったようだった。

 

 鐘の音はわたしを誘った。わたしははっと閃いたように踵を返すと、人込みの中を縫うようにして抜け出た。途中、「灯里」と、わたしの名を呼ぶ声がしたように聞こえた。友達の声だった気がする。しかし振り向いたわたしの目に入ったのは、見たことのないそっぽを向いた他人だった。聞こえたのは、恐らく空耳だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 晴れた、細い筋雲くらいしかないよく晴れ渡った空が、わたしを見下ろしている。薄暗い路地裏。初夏なのにひんやりとした空気。ポケットに入れたハンカチで額の汗を拭って一息。

 

 眼下に子猫がいる。背を向けていた。しっぽが気持ち、垂れさがっていて、精彩を欠いている。白い光をまとって発光して見える、被毛の子猫だった。その姿態は神秘的だった。その白光の被毛は霊気にさえ見えた。霊妙さに、わたしは息を呑んだ。

 

 子猫は、わたしを首だけで振り返って見ていたが、前を向くと、おもむろに歩き出した。わたしに付いてくるよう求めているようだった。幾度か、子猫は垂れたしっぽを左右に振ったが、その時、纏った白光の煌めきが、突風にたんぽぽの綿毛がそうなるように、儚さを帯びて散った。

 

 

 

 波の音が遠い。人々の騒ぎは失せた。辺りは静まり帰り、周囲に並ぶ住宅の生活音さえ聞こえない。快晴の空の青色が、路地裏の陰に覆われた石造りの地面に滲んでいる。

 

 歩く途中、わたしは色々と考え込んだ。もちろん、目の前をわたしを導いて歩く子猫のことについて考えたのだった。白い被毛の光がくっきりとした輪郭をその小さい体に与えている。被毛そのものは真っ黒だったので、そのコントラストは鮮やかだった。薄目にして見れば、わたしを導くその子猫は、輪郭だけしか持たないシルエットになるのだった。

 

 一声さえ、子供の小動物は発しなかった。うんともすんとも言わず、次第に生気を失っていくようにまで感じられた。その後を追って歩くわたしは、一方では関心を持っていたが、他方では不気味に思えて小心翼々とたじろいでいた。

 

 

 

 考えて考えて考え尽くして、何か自分に言い聞かせる解答を案出する前に、わたしは広場に出た。路地裏を抜け出たのだ。まるい広場で、四方に道が均等に伸びていて、わたしはその内の一本よりここへと来たのだった。

 

 子猫がいないことに違和感を覚えることはなかった。わたしは広場の中央にある階段を見上げ、その頂上に何があるか見定めようとして、しかしちょうど目線の先にある正午を告げる高い太陽に目くらましされたのだった。手でひさしを作ったところで、その激しさはまるで防げなかった。

 

 わたしは諦め、ひさしの手を下ろした。階段は一つしかなく、こぢんまりとしたモニュメントか何かへと上っていた。狭い範囲で階段とその何かをまとめて造ろうとした為、階段の上りがずいぶんと急で険しいものになっていた。従って足を運ぶのにいささかの苦労を要した。

 

 その階段を上り終えて、さて高所の、周りの住宅街よりやや上の位置より見える景色を拝んで、さっきまで導いてくれた子猫でも探そうかと思ったその時、わたしは意気阻喪して膝を地に付いた。頂上にあったのは本当に小さい教会だった。十字架を乗せた屋根の下に聖人の像を祀っており、そして鐘が備わっていた。その聖人の微笑みと、わたしの視線が交差するところに、あの子がいた。

 

 子猫は、横たわっていた。ぐったりと力なく横たわっていた。真っ黒の被毛。しかしあの白光は纏っておらず、本当に真っ黒で、見えない闇へと沈んでしまいそうに思えるほどだった。赤い液体を流して、目を瞑っており、痛苦を経験してその命脈を絶ち、そして今はすでに、安眠に憩っているようだった。わたしは悲しみや憤り、無力感などを覚えてさめざめと合掌し、子猫の冥福を祈った。幼い、生前は壮健に走り回ったりしていたであろう姿を思い浮かべて、哀悼した。

 

 落涙と共に震える声で、そっと、「ごめんね」と呟いた。自然に、口を突いて出た言葉だった。本来謝罪する必要などないのだろうが、わたしには、この憐れむべき子猫に罪滅ぼしの言葉をかける義務への意識があった。そういう行為や振る舞いがなければ、何か絶対的に大切であることがゆるがせにされるという切迫した恐れ、そして怠慢と不敬による大いなる悔恨と悲嘆への強い抵抗感があった。

 

 わたしをこのこぢんまりとした聖地とその『そば』へと導いたあの子猫は、まぼろしだったのだ。わたしがその不思議さ、いささかの怪奇さに頭を悩ませていたのは、ある意味で無駄だった。結局、その神妙なる導きに疑義を挟んで従わず、独り合点してそのあのまぼろしの案内を裏切り、追い越してしまっていれば、ひょっとすると、来るべきこの場所に辿り着けなかったのではないかと思う。

 

 

 

 ちょっとした高所でしかなかったが、そこにいて見上げると、空が近く迫っている風に感じた。何物にも遮られずに通る風は厚みがあり、その風は、わたしの結った長い髪の毛と、絶命した子猫の気を微かに揺らした。

 

 わたしは立ち上がり、教会の前の短い石畳を流れる赤い生臭い液体を眺め、寒々とした気持ちになったが、やがて降るだろう雨が洗ってくれると思うと、幾分か楽になった。

 

 教会の内で優しげに微笑む聖人には、慈悲と慈愛を乞い、そして頭上に浮かぶ太陽には、慈雨を求めた。

 

 

 

 

 

 

 ネオ・ヴェネツィアの墓所は、各所にある観光地の賑わいとは無縁だった。墓所は森厳なる冷気に包まれて、辺りはひっそり閑としていた。あの教会に鎮座していた聖人とそっくりの像が、やはり静かに微笑んでいた。

 

 四角い墓石の前に、わたしは、花を供えた。瞑目して手を合わせ、親猫とはぐれた不幸と、夭逝してその芽吹いたばかりの無邪気さや、好奇心などを摘み取られた初々しい命の災いが、幾分か癒されてくれるよう切に祈り、黙祷した。

 

 目を開けてわたしは、あの時雑踏にあって聞こえた呼び声が、ひょっとすると、この猫の声なき声――生命が、その肉体と霊魂とで成り立つという言説を信用すれば、その霊魂が放出する波動じみたものの訪れだったのかも知れない、などと考えた。「灯里」と聞こえたその音声は、成るほど実際は「灯里」ではなかったが、聞こえたことに、あるいは『感付いた』ことに、違いはないのだ。

 

 今回のことはロマンチックというよりは、むしろミステリアスだった。人に語り聞かせても、怪訝に聞こえて信じず、拒否したりすることだろう。打ち解けない会話などしたくない。この出来事は、永遠に胸にしまっておくのが正解に違いない。

 

 ぱっと、足元で光の粒が砕けた。あの白光だった。しかしあの子猫は、もはや常世に渡っていない。わたしのもとにそのまぼろしを差し向けることはない。

 

 雨だった。しとしとと、じめっとした初夏の暑気と、ぬるい雨。わたしは持ってきていた傘を持ち上げて曇天に向け、どんよりとした空を見つめると、開き、そして微笑んだ。

 

 

 

(終)


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