ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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〈長年の憧れが、ようやく……〉
アリシアはそう心の中で呟くと、作業の締めくくりである店舗のビニール屋根が、業者の男たちの手で取り付けられていく様を感慨深そうに、お腹の辺りで手を組んで眺めた。
ビニール屋根には『Caffè del Mare』の文字が並ぶ。海上のカフェという意味だ。
時分は夕暮れ。水平線の上にはまるい燃え盛る日輪が転がっており、波立つ海原には太い光の帯がまっすぐ長く伸びていた。
「いよいよですね」
そう当人と同じく、あるいは当人以上に嬉しそうに言うのは、灯里だった。
やがて作業が全て終わる。アリシアは灯里と共に相応にくたびれている筋骨隆々の男たちをいんぎんにねぎらって謝礼し、見送った。
深々と頭を下げた後、二人は互いに微笑み合い、出来上がったばかりの店内へと、いわば初めての客として入り、その内装と、雰囲気と、営業されていない店独特の寂しさとをしみじみ味わった。むき出しの木の四角いテーブルは、営業が始まれば、クロスをかけて、その上には、ソーサーとカップが載っていることだろう。一輪の花を中央に添えるなんていうのは、ぜひやりたいと思っているアイデアである。
厨房を含め、隅々まできょろきょろ感心して見て回ると、アリシアが窓の方を指さしてこう提案した。
「テラス席へ行きましょう。きっと素敵よ」
灯里も、同じ気持ちだった。
「はひ」
元気のいい返事。アリシアのさす指の先には沈む低い夕陽と、ぼんやりと広がる温かい夕焼けと、それとは打って変わって冷たい褪せた夕空の青の広がりがあった。
二人は窓を開けると外に出た。テーブルの上には二人分のエプロン。埃が付着したそれは、水先案内店だった『ARIAカンパニー』の改装で汚れたのだった。
元ウンディーネの彼女等を迎えたのは、向かい風だった。二人の長い、それぞれブロンドとピンクである髪は、風に軽やかになびいた。
「わぁっ、強い風」と灯里。
「日没の大移動ね」
「フフッ、鳥さんたちが巣に帰るみたいですね」
「えぇ、ホントに」
パラソルのあるテラス席。天気のよい日にはこぞって選ばれるだろう。アリシアは自然とそう確信された。その心象風景――新しく出来た、自分の宿願であったお店に、たくさんの人が来店し、また、友人である晃やアテナまで祝いに来てくれたりなんかして、てんやわんやの盛況になる――そういう半ば愉快で、半ば騒々しい風景を心中に思い描くと、アリシアは、それまでの明るい達成感を凌ぐ、しおらしい、ほとんど切ないほどの気分がもたげて、目頭が熱くなってくるのだった。彼女は俯いて、唇をかみしめた。
「ッ! アリシアさん?」
だが、アリシアは強いて涙を堪え、スゥと息を吸うと、面を上げた。
きめ細かい肌に潤いのある淡い、また、涙の気配の微かにある、ブルーの瞳。
灯里は夕日に煌めくアリシアの相貌にほれぼれし、もし彼女の熱烈なファンでありまた信奉者である姫屋の藍華がこの顔を目にすれば、きっと同じように胸ときめかせるに違いないと思った。
夕日は最早残光を放つのみだった。暗い濃紺の空には綺羅星の瞬きがチラチラ明滅している。
▽
静まり帰った店内。すでに外は真っ暗で、照明といえば、テーブル上のキャンドルの灯影くらいのものだった。灯里が屋根裏部屋にパジャマ姿でおやすみなさいと言って階段を上っていった後、アリシアは寝ずに、そのキャンドルの火影のそばで、開いたノートに向かっているのだった。ノートにはびっしりとメモらしき言葉がずらずらと端正に書かれた文字で並んでいる。
だが、ペンは置いており、アリシアは、時間帯のせいか、眠そうにして、腕をノートの手前で組んで、こくりこくりと、頭を揺らしている。
アリシアがカフェを開きたいという願望を最初に告白した相手は、晃だった。
「はぁ? カフェ~?」
片目だけ大きく見開いて、受け入れがたい事実ででもあるように、彼女は大仰に反応した。海辺を散歩している時のことだった。夕暮れ時分だった。それぞれ、ウンディーネのユニフォームであるセーラー服を、制帽と共に着ていた。
「ありふれた願望だっていうことは知ってるつもりよ」
「あらあらまぁまぁ」
晃は茶化すように、アリシアの口癖を真似、両手を肩ほどまで上げて呆れて見せた。
するとアリシアはむっとして膨れ、「もう、晃ちゃんったら」、と返した。
「別に、反対はしないけど」、と晃は上げた両手を腰にぱんっと音を立てて下ろすと言った。「むしろ、お前が本気で叶えたいっていうんなら、応援するぜ」
「晃ちゃん……」
アリシアは意表を突かれて驚いた様子になった。二人は歩みを止め、海に向かって並び立っていた。
「ウンディーネは、もう、いいってか」
さらりとした、嫌味のない間合い。晃はこういう、誰かの心の中に隠された真意を洞察して明るみに引き出すのが得意だった。だからこそ、アリシアは最初の打ち明け相手として、晃を、無意識の内に選んだのだろう。
「うん」、とアリシアは、寂しそうに、俯き気味に頷くと、制帽を取って、胸の辺りに持った。「プリマとして、十分やってきたつもり、自分ではね」
晃は、納得する素振りも、否定する素振りも見せなかった。
「灯里は、どうするんだ」
「あの子は、相談したら、わたしもやりたいって言って、意気投合しちゃった。ホントは、わたしは、カンパニーとは別に店舗を借りて、カンパニーは灯里ちゃんに預けてやろうと思ったんだけど――彼女、もう立派に成長したからね――灯里ちゃんも、手伝ってくれるって言ってくれたから」
「成るほど」
晃は微笑する。
「あいつは――灯里はあくまで、お前の後輩というわけだな」
「そうね」
アリシアは苦笑しながら、自責の念を覚える気がした。ひょっとして自分が、灯里の夢に水を差し、台無しにしてしまうのではないかと案じたのだ。
ポン、と肩に手が載せられる。
「お前がちゃんと面倒見てやるんだぞ」
「わたしが……」
アリシアは晃に目をやる。
「ウンディーネでうまく行ったんだ。今度だってきっとうまく行くさ」
「うん……ありがとう」
アリシアは何だか、胸のわだかまりが解けるようで、にっこりして返した。
▽
眠気で暗いまなこで、ノートをぼんやりと見る。おもむろに手を動かし、ペンを取ると、ノートの隅に落書きする。
「何が、いいかしら」
書かれるのはお店でやるメニューの候補だった。ちょうど厨房があるカウンターには、空白のブラックボードが立てかけてある。あそこにメニューを書き出して、入口に置くわけだ。しかし楽しみに考案したり夢想したりするよりは、むしろアリシアは、寝たかった。
しばらく船を漕いで、ゆっくり浅くお辞儀するような恰好になることと、びくっとして我に返り持ち直すこととを繰り返すと、とうとう睡魔に負け、その場で突っ伏して寝てしまった。ブロンドの髪がバラバラに散り、それぞれが、キャンドルの火影を浴びて淡く輝く。
やがてキャンドルは自然に消え、店内は暗転した。
〈長年の憧れが、ようやく……〉
意識が昏くなる前、アリシアは心中、そう呟いた。
〈カッフェ・デル・マーレ〉
海の上に浮かぶ出来立ての新規の喫茶店は、疲れたアリシアと、温順な灯里とを抱いて、穏やかな夜闇の中、安らかな眠りに付いたのだった。
(終)