ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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あるマンションの小奇麗な一室。そこに絶えず漂っているのは、部屋の、また建物の外に満ち、街と都市を覆うばかりでなく、更に世の中に、またその時代の全体にまであまねく充満し、特徴付けている、一つの大いなる影響力を持つ、物悲しい香りのする気体であった。景気の衰微により段々お金の流通が滞っていくという漠然とした不安、節約と貯金に対して急速に高まった意識、お祭りのように陽気だった時代が過去となってしまったという失望的な気分、等々、そんなのが、その気体を成り立たせている要素だった。
部屋の隅に置かれたセミダブルのベッド、その小高いヘッドボードには、小さく質素な置時計と、まだ花の咲いていない、とげとげしいサボテンと共に、何体かの人形が置かれている。ウサギやクマやネコなどの大きめのそれは、一人きりで夜寝ている寂しい独り身の、恋愛よりは仕事の方に対して情熱的な、二八歳の女の、半ば愛しく、半ばこっけいな連れ合いだ。
部屋の別の部分には、アウトドア用の椅子くらいのサイズのミニテーブルがあり、高級な生地のハンカチが敷かれたその上には、恐らくこの部屋に客として訪れた人の大半が関心を惹かれ、目を留めるだろう──まぁ、あまり客は訪れないのだが──小品が、整然と展示されている。
ベネチアン・ガラス。密集した花が咲き乱れたようなデザインのそのゴブレットを、かつて──しかしそれは、一体どれくらい前のことだろう──イタリアのベネチアで、船員関係の仕事をしていたわたしは、ここに帰ってくる時お土産として、当地で買ったのだ。
テレビが明々と付いていた。画面では賑やかなバラエティー番組がやっており、たけしが饒舌な口調で漫談を打っていた。テレビの観客席に、どっと笑いが沸き起こった。馬鹿馬鹿しい話だったが、どうしてだかわたしまで笑ってしまう。たぶん、一人きりでいる上沈黙しているというのが、本能的に嫌なんだと思う。
部屋の長い姿見には、肩まである青いロングヘアの、ラフな部屋着に身を包んだわたしが映っている。ロングヘアは、サイドにボリュームがあるが、前にはほとんどない。が、決して変な髪型などではないと注意して置く。これが最新の流行りなのだ!(と、駅の売店にある女性雑誌で読んだり、一緒に仕事する同僚より聞いたりした。)
夜の七時だった。
仕事より帰宅したわたしは今、ささやかな家事にいそしんでいて、洗い立ての洗濯物を、四角いテーブルのそばに座って折り畳んでいる。ハンガーに下がっていた服の何着かは、すでにわたしのそばに重なって小山を成している。テレビはなお付きっ放しであったが、そんなにしっかりとは目を向けなかった。わたしはぼんやりして、ただ目の前に溜まっている洗濯物の処理に没頭していた。
ふと、あることが閃いた。
──そういえば、留守電
わたしは、たいがい軽視しているその存在を思い出すと、毎日のようにあるわけではないその有無を確かめるべく、今畳んでいる洗濯物を片付け、立ち上がった。
据え置きの固定電話は近くにあったが、痺れかけの足を動かすのは、狭い部屋を移動するだけでも苦痛なことだった。
出来るだけ足を刺激しないよう慎重に運び、電話の手前まで歩み寄ったわたしは、隣にあるカセットテープレコーダーの再生ボタンを押した後、洗濯物の処理を再開するため、元の位置に戻った。
受信音か発信音か知らないが、プルルルという電話をかける時のあの音がしばらく鳴り続けると、留守電用に吹き込まれた声が再生され始めた。
『はい、アイカです』
──わたしの声
思わず微苦笑が漏れた。それはしかし、いつものことだった。わたしは、録音された本来とは違う調子の自分がおかしいのだ。くだけたカジュアルな感じを好む彼女は、留守電においては、その好みとは裏腹に、形式張った話し方をする。
『ごめんなさい。ただ今わたしは仕事で外出しております』
が、声に張りがあって溌剌としているため、一種の不調和が堅苦しい話し方との間に出来ており、聞いていると、やはり笑いが込み上げてくるように感じた。
テレビでは女優のM・Nが口紅のコマーシャルに出演し、やたらと微笑んでいる。恐らく幸せな雰囲気を醸し出すよう意図して制作されたのだろう。成るほど美人だと思うが、何だか気に食わなかった。留守録に集中しようとするわたしの意識を、そのコマーシャルはいくぶん奪い、そして微かに、ほんのさざなみ程度であるが、苛立たせた。
──だけど、口紅か
「そういえば」
わたしは部屋の隅の化粧台に目を向けた。その上には、蓋をされた口紅が置かれている。
──だいぶん擦り減ってきてたなぁ。新しく買って置かないと
留守録の再生は続いていた。
『御用のある方は、お名前とお電話番号を残して下されば、帰宅後ただちにこちらより掛け直させて頂きます』
吹き込みが終わると、レコーダーはプーと鳴り、今度は発信人の声を再生し始めた。
その声を聞いてすぐ、わたしは近所にまばゆい稲妻が閃いたかのように、はっとした。
「この声」
知っている人だった。
「懐かしいなぁ。何年ぶりに聞いただろう」
わたしは、首を捻って壁に掛けてあるカレンダーを見た。一九九〇年のそのカレンダーは、九月のページが表面だった。
世紀末のすでに近いその年、わたしは経済大国Nの大都市Tの高層マンションで、生活を送っていた。
──留守電にメッセージを入れていたのは、一人の女性だった。
彼女のメッセージとその声にしみじみした心境で聞き入った後、わたしは家事を中断し、ベランダに出た。
外履き用のスリッパを履いたわたしは、柵の上に腕を組み、ぼんやりした気分で、また若干前屈みの姿勢で夜空を見上げた。空は円満な明月が浮かんでいて、明るかった。
──彼女は、ずっと昔、友達だった子だ
その声を聞くことで生じた郷愁と懐旧の情に切なくなり、わたしは眉を下げて俯いた。長い髪が手すりのところで折れ、余った部分がその下にさらりと垂れ下がった。
「今は……」
ボリュームのあるサイドの髪の微かにある隙間より、一筋の極めて細い光が流れ落ちるのが見えた気がした。それは流れ星だったのだろうと、わたしは直感的に推断した。しかし、そんな神秘的な現象を目の当たりにすることは、ビルの森であり空の濁りがちなこの都会では、滅多にない。実際わたしは、一度として見たことがないし、見たという話を聞いたこともない。だが、その時のわたしは、かつて友達だった子より留守番メッセージの便りを不意に受け取った、その嬉しい衝撃に打ちのめされ、すっかり熱に浮かされていた。
◇
空は青く晴れていた。快晴だった。
前夜折り畳んでいた洗濯物は、全て箪笥の引き出しの中に仕舞われてあった。部屋はすっきり整っていた。
わたしは手持ちの中で特にお気に入りの、すなわち一張羅──とはいえそれは、そんなに高値でもなければ、おしゃれでもないのだが──を着、四角いテーブルのそばに正座していた。両手は腿の上に置き、まるで禅寺で修行している小僧のような、微笑ましい威厳のある恰好だった。
わたしは、首をゆっくり捻って例の長い姿見を見た。そこには、やはり色を正し、ぴしっと背筋を伸ばした、所定の威儀に適った姿勢の女が映っている。
思わずプッと吹き出してしまった。わたしは目を瞑って苦笑し、緩い拳を口元に持っていくと、「馬っ鹿みたい」、と、自嘲的に呟いた。
「あんなに緊張しちゃって」
だが、そんな精神状態は、当然と言えば当然だった。
──まぁ、そうよね
わたしはしみじみ目を半分閉じ、伏せた。
──緊張、するわよね
腿の上にきちんと置いている手を持ち上げ、開いてみた。手は、べたべたした汗で光っていた。
「手汗まで」
自分は、本当に動揺しているのだと知って呆れた。別に、今待っているのは、わたしをおびやかすような存在ではなく、むしろわたしに対して好意を持ち、かつて親しく接してくれていた仲間なのに。
──なんで、こんなにも落ち着かないのだろう
理由をぼんやり考えていると、ピンポンとインターホンの音が鳴った。わたしは不毛な考えより我に返り、ほとんどびっくりして、縮んだばねが急激に弾けるように立ち上がると、インターホンまで行ってその受話器を取り、耳にあてがった。
「はい、アイカです」
わたしの呼びかけに即座に答えたその人は、果たして、わたしが緊張感と共に待ち構えていた彼女だった。
「あぁ、久しぶり……
ずいぶん長い空白の後に彼女を身近に感じると、感激が鋭く胸に突き刺さり、わたしの感覚はほとんど乱されてしまった。
わたしは、うまく話せなくなった。頭の中にある、話そうとしている言葉は、頭の中にある時はまだ、その意味と共に、有意義な、心を交換する道具として確かにあるのだが、いざ口より声にして出してしまうと、なぜだか呼気のように無意味な何かに変質してしまい、すでに動揺しているわたしを、更に揺さぶって不安定にしてしまうのだった。発する全ての語が、半狂乱の人間のうわ言になった。言葉はなぜか焦ったように先走り、意識に統括された領域より暴発的に飛び出していき、わたしの動かしている口は、ほとんど無声の口パク同然だった。
──今、扉を開けに行くね
わたしは、軽い、だけれどたぎるような興奮と感激の内に激流的に流れる、受話器越しの挨拶の会話を、苦労して交わし終えると、受話器を元に戻し、部屋を小走りで出ていった。
廊下を玄関まで急いだわたしは、綺麗なお気に入りの靴だけ置いておいた土間の手前で停止しようとしたが、成功せず、勢い余って、ほとんど
光が暗い玄関に差し込んでくる。外には、その姿が……
最初の一瞬は、驚くほど緩やかに流れた。再会の感激が、鮮烈な印象が、時間の流れをせき止め、わたしの意識をその一瞬の間に、束の間釘付けにしてしまったのだ。
彼女はそこに、あの懐かしい、かつてわたしがよく見ていて好きだった、優しさに溢れた微笑みの顔で、慎ましく立っていた。
──いらっしゃい
長い不通の期間に、彼女はすっかり変貌していた。金色のリングにまとまった、耳の側部が特段長かった桃色の髪は、今は全体的に、ボーイッシュと言えるほど短くなっていた。いやむしろ、その中性的な雰囲気とあいまって、彼女はほとんど少年に見える。その印象は、すでに疎遠になっているわたしと彼女の関係を、更に開けてしまった気がした。
わたしは目を瞑って微笑みかけた。
──ずいぶん、変わったのね
だが、わたし達は、そんな隔たりを間に挟んでいてなお、互いに好意をまじえる友情を失ってはいなかった──とはいえそれは最早、往時の単なる残余に過ぎず、失われた大部分は、そこはかとない哀愁に変わってしまっていた。
──また会えて、嬉しい
わたしは目を開けた。
──わたし達、会うのはどれくらいぶりになるんだろう
尋ねると、彼女は可憐な仕方で小首を傾げ、考えこむように目を上に向けた。わたしはじっとその様子を見つめていた。その様子にかつての面影を探し、記憶にくっきり刻まれている、よく見知った彼女の姿を、今目の前にいる、成熟し、いくぶん老けてしまった彼女に重ねようとした。
しばらくして彼女は、首を元に戻し、困惑するように苦笑した。
──そうね
おんなじだ。わたしにだって分からない。わたし達は本当に長い間、それぞれ違う、自分ではどうしようもない事情により、引き裂かれていた。
──数え切れないくらい、会っていなかったわ
結び付きは、緩くなっていた。わたし達の関係は、短くない期間放置され、閑却され、そのため今ではいくらか冷え、わたし達それぞれに不自然さや間の悪さを感じさせる、鬱陶しいしこりが生じてしまっていた。
そのことに物悲しい感じを覚えたわたしは、しゅんと俯いた。すると、微かにはっとした。目の前にある彼女のお腹が、立派に張っていたのだ。
同性として、どういう成り行きを経て彼女のお腹がそうなったのかは、聞かなくたってすぐ分かる。彼女は、大きめのジャンパースカートを含むマタニティドレスを着ていた。
わたしはしっとりした、慈しみに似た感情を覚え、目を半分閉じた。
──あなたは、いい人と出会って
彼女は、わたしの目線とわたしの微小な羨望を感じ取ると、自分のお腹の上で手を何度か往復させた。
──恋をして、そして
あぁ、彼女の旦那さんは、一体どんな人なのだろう。たくましいのか、ほっそりしているのか。陽気なのか、落ち着いているのか。その想像は無際限で、とめどがなかった。
──赤ちゃんを、恵まれたのね
わたしが目を上げると、彼女はこくりと頷いた。わたし達は互いに微笑み合い、それぞれの立場や環境が、今はすっかり劇変してしまったことを、無言の内に伝え合った。
わたしは些少の劣等感と共に、悲しく自覚した。わたしがまだ自由の身であり、軽快に、気ままに動けるが、徐々に大きくなる焦りや葛藤、寂しさを抱えていること、
わたしは半ば喜ばしく、半ば悔しく知った。彼女が、時には重苦しいくびきとなり得るが、おおむね幸福を約束してくれる温かな、次世代まで長持ちする新規の家庭の一本の柱となり、いずれ生誕する自分の生命の反映を期待して待っていること。
彼女の吉事について悔しいと、わたしは確かに思った。だが、再会の嬉しさと懐かしさは、その卑しい感情を打ち消して浄化し、わたしに素直な気持ちで、一つの決定的な幸福に達した旧友を祝わせてくれた。
──さぁ、こんな狭苦しいところで話すのはなんだし
わたしは背を壁に付け、彼女のためにスペースを開けた。
──どうぞ、中に上がって
すると、彼女はお邪魔しますと述べ、玄関に入った。わたしは歓迎し、扉を閉じた。
こうして、わたし達はくつろいだ環境で、ゆっくりと話に打ち込めるようになった。
恐らくお世辞だろう、わたしの寝起きする窮屈な部屋を、彼女は素敵だと褒めてくれ、そしてやはりあの展示品に──ベネチアン・ガラスにすぐ目を留め、綺麗でまた懐かしいと述懐してくれた。
わたしははにかんで礼を述べると、遠慮せずゆったりリラックスするよう勧めた。
急な呼びかけを寄越して訪れてくれた、お腹の張った、命の萌芽をいだいて守ると同時に、素敵な誰かに大切に愛護されている彼女は、幸運な知らせと共に、何か贈り物を持ってきてくれたようで、その話を切り出されたわたしは、何だろうと訝しんできょとんとした。
彼女は、大学ノートサイズの冊子を一冊見せ、わたしの目前に、いくぶんおごそかな振る舞いで差し出した。
手に取って調べてみると、わたしはすぐにそれが何か合点が行った。アルバムだったのだ。そして開いて中身を見てすぐ、再び感激し、思わず嘆息を漏らしてしまった。
アルバムのページには、それぞれ今と反対に、髪の短いわたしと長い彼女の映った写真が、ところせましと並んでいた。ベネチアにいた頃の写真だ。セピアがかったかつての、若々しいわたし達は、大体白いセーラー服を着、櫂を携えていたり、華美な造りの舟のある桟橋にいたりした。ライトグリーンのロングヘアの、確か後輩ちゃんというあだ名を付けていたはずの同僚が一緒に映っている写真も、何枚かあった。
アルバムの中には色々なシーンが、豊かな情緒を帯びて収まっていた。わたしは、彼女は、後輩ちゃんは──一人は、二人は、三人は、カメラのレンズより遠かったり近かったり、目を瞑っていたり開いていたり、笑っていたり無表情だったりし、多様な映り方をしていた。
写真の一枚一枚は、追憶の糸口となった。
わたしは、興奮した子供のように目を輝かせ、保存された思い出が、次々と目の前で花火のように鮮やかに弾け、また儚く消えていく美しい刹那の光景の連続に、無我夢中で見入った。
──アルバムには、温かな光が溢れていた
セピアカラーの記憶を見下ろしている目が、勝手にせわしなくしばたいたかと思うと、ぽたぽた涙がこぼれ始めた。
──それは、直視出来なくなるほど温かで
わたしは、目を閉じざるを得なかった。いい年して人前で泣いている自分が恥ずかしいと思ったが、恥ずかしさよりは、悲しさと懐かしさの入り混じった複雑な感情の方が、ずっと強く、まさっていた。涙は出るに任せようと思った。彼女はあざ笑ったりせず、優しい顔でじっとわたしを見守ってくれていた。
……わたしは、過去のわたし自身の内にある声の響きを聞いた。写真に記録されたわたしは、「戻っておいでよ」と、アルバムを見下ろすわたしに対し、その時代の方へと勧めいざなった。あぁ、彼女と懇意にしているその時のわたしは、何と無邪気で楽天的なのだろう! その無邪気さは、悲しくなるほどの残酷さを含んでいた。過去の誘惑し差し招く手は、遠く、余りにも遠く、自分の手をどれだけ伸ばしたところで、決して届くことはないのだ。
西暦は程なく千の位が更新する。新たな時代はすぐそこまで近付いていた。科学技術はずいぶん発達し、わたし達の生活は飛躍的に豊かになった。しかし、まだ実現されていない人間の望みは山と残っている。あぁ、じれったい。いつになれば、わたし達はタイム・トラベルが出来るようになるのか? いつになれば、わたしは失われた彼女の友情を全部取り戻せるのか?
むなしい問いだった。
決して越えることの出来ない壁に阻まれたわたしの懇願は、悲嘆に苛まれた意志は、くよくよ引き下がるよりほかなかった。
◇
──まだ、信じることが出来ない
彼女の去った部屋は真っ暗だった。わたしはベッドの上で壁に背を付け、いじけたように膝を抱いて座っていた。目を伏せ、目元は、泣いた後だったのでたぶん、赤くなっていると思う。
──わたし達が、お互いに友達だったかつてのようでは、すっかりなくなってしまったこと
ゆっくり首を捻り、そばのラックの引き出しを開け、その中に手を突っ込んだ。そこには、昔の写真が詰まっている。今はどんな人だったか忘れてしまった、ほとんど他人に過ぎない恋人や同僚の写真である。だがそこには、彼女の写真が紛れ込んでいるはずだった。わたしは結構長い時間をかけて一枚一枚確かめていった後、ようやく発見して取り出し、よく見えるよう目の前に持ってきた。
──そして
部屋に差し込む青白い月明りで、写真の表面を照らした。
線状の傷だらけのそこには二人が、全く幸せそうな、まるで悩みなんて一切ないかのような円満な表情で、密着して映っている。
淡い夜の微光の中に、あの頃の記憶が、忘失の陰影にその半分くらいを覆われて、ぼんやり流れた。
──わたし達が、もうあの頃には戻れないこと
部屋中、ひっそりとしていた。
──そういえば、最近めっきり夜が涼しくなった
部屋の壁にある一九九〇年のカレンダーは、一〇月のページが表になっていた。
──秋が、深まってきたんだと思う
わたしは、真っ暗な部屋のベッド上でずっと、膝を抱いた三角座りの姿勢で、懐古的な感情と、今日改めて気付かされた、時は移ろうという酷薄としか思えない自明の理に、陰陰滅滅としていた。
──けど、あの子がいなくなった部屋には、温かな、陽だまりのような光が残っていた
テーブルの上には、あの贈り物があった。
──その中ではかつての、少女だった頃のわたし達が、悠久の春と夏の間に、幸せに憩っているのだ
高い闇には、無数の星とたった一つの満月が、煌びやかに輝いていた。
──ずっと
やがてわたしは、とうとう気分を持ち直し、寝衣に着替えた後、ベッドに横たわり、掛け布団で体を覆った。
深い眠りは、わたしの抱えている憂いと悲しみを、翌日わたしがそれに押し潰されないよう、いくらか和らげてくれたようだった。
その途中、夢を見た気がする。
深夜、無人のはずのベランダに、白いセーラー服を着た二人が、互いに寄り添い合い、柵に手を置き、夜空を眺めている。満月はなくなっていた。
そんな光景が、窓の外の真っ暗闇に見えた。和やかに何かしゃべっているのだが、声が小さくて内容は聞き取れなかった。
──時は、過ぎ去っていく
夢の中にあの二人の後ろ姿を見つめていたわたしの目は、目覚ましの音に開くと、部屋に差し込む明るい朝日に気が付いた。
◇
玄関の方角を向き、スカートを履き、シャツのボタンを閉じ終えたわたしは、出勤の支度を終えかけていた。足元にはビジネスバッグが、テーブルの上には、細かいパンくずの散らばった円い皿と、乾いたコーヒーが底に汚い模様を描いているカップがあった。
ハンガーにかかっているジャケットを取って羽織ると、支度は終わりだった。
背後に微かな気配があった。わたしは気になって振り返り、窓を見た。外は澄んだ秋晴れだった。奇異の念に打たれたわたしは、何となく目下を見、そして納得する気がした。
テーブルには、皿とカップの他に、アルバムがあった。全てのページに懐かしい思い出の羅列があるその一冊は、温かな陽だまりの中に、ゆったり横たわっていた。
昨日のことだ。それが身籠った体の不自由さを厭わず、わざわざ部屋を訪問してくれた彼女の手より渡されたのは。
その時のことを思い返すと、嬉しさで自然と頬が緩んだ。さて、あの子は温かな家庭に昨夜帰り、今は、あの不自由な身だ、あるいはまだ、ベッドの中でお休み中だろうか?
視界のぼんやりした部分に、化粧台があった。
──そうだ
わたしははっとし、その上に焦点を定めた。ほとんど使い切りかけの小さな化粧道具が、転がっていた。
──帰りに口紅、買いに行かないと
わたしは足元のバッグの持ち手を握り、軽々と宙に投げ上げると、キャッチするように携えた。ちょっとした、上機嫌の時特有の遊びだった。
──それじゃ、行ってきます
その成功に更に機嫌をよくしたわたしは、軽快な足取りで部屋を出、新たな一日に会いに行くため、すでに過ぎ去った過去に、愛惜して別れを告げた。昨日、彼女に対してした時と同じように……
──元気な子を産むのよ、アカリ
うん。ありがとう、アイカちゃん──
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