ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.34「ドッペルのお化け」

***

 

 

 

 『ドッペルのお化け』という古い都市伝説がある。簡単に言えば、もう一人の自分と遭遇してしまうという現象で、もしも遭遇すると、近い内に死んでしまうと言われている。遭遇せずとも、目にするだけでもダメらしい。

 

 その日のネオ・ヴェネツィアの夜は、夏の盛りが過ぎて、涼しい風が吹いていて快かった。昼間汗ばんだ身体は冷まされ、汗は引き、じっとりと張り付いていた衣服は剥がれ、サラサラに乾いた。盛夏の頃には、しょっちゅう飲み物と清涼感を求めてわがままになっていた者は、慎ましさを得、あるいは取り戻し、小銭を節約出来るようになった。

 

 皓々と照る街路灯に夏の虫が突っ込んでいって弾かれ、バチバチという音を騒々しく立てていた。

 

 オレンジ・ぷらねっとで働くベテラン水先案内人のアテナ・グローリィは、早めに終わった仕事の後、一人、夜の散歩に出ていた。後輩のアリスを誘おうかと考えたが、デスクに向かってテキストを開くその姿を見ると、遠慮されて、結局誘わず、また散歩に出かけるという言い置きを預けることもなく、単身、フラッと外に出ていった。

 

 単身ではあったが、心なしか気が軽く、足取りも軽やかだった。自分はひんぱんに単独でこうして気晴らしに出かけるが、やはり一人でいるというのは、気遣うことも、気遣われることもないし、よいものだと、アテナは改めて感じた。

 

 辺りにはぼちぼち人影があり、彼等もアテナ同様、涼しくなった夜に憩いを求めて出歩いているようだった。 昼日中にはアツアツでフライパンのようになっていた石の道路は、今は、ぬるくなっていた。

 

 大運河(カナル・グランデ)に架かるリアルト橋を渡る途中、最上で立ち止まると、アテナはそこでネオ・ヴェネツィアの街の開けた景色に目をやった。種々の船が航行する運河の両端には、温かみのある電灯がポッと灯った建物が並んでいて、またレストランの運河に張り出した、大勢の客で賑わっているテラス席などがあって、見ていると楽しかった。また、高所というほど高所ではないものの、橋の最上には、下と比べて風の通りがよく、加えてその風は、水を渡ってくる冷涼な風なので、じっとしていると心地がよかった。

 

 耳を澄ませると、いろんな音が入ってくる。まず風の音、そして他の、周りを往来する人々の足音、話声、装飾品がチャラチャラ鳴る音、遠くの酒酔いのバカ騒ぎ……

 

 目を瞑ったアテナは、瞑想の中で、風の通り道を通り、その、かしましかったり穏やかだったりする音の群れ、音の混雑を抜け出ると、デスクに向かうアリスのところへと至った。そして目を開けた。

 

 その時だった。眺望に満足して再度歩み出そうとしたその刹那、アテナはある一人が、背後を通り過ぎようとしていることを知った。その一人は、どうしてか、見知らぬ赤の他人とは思えず、妙に注意を引き寄せた。

 

 アテナは目の端っこを使うようにして、相手を瞥見した。すると相手はもう立ち去ろうとしていた。――白いセーラー服を着ているが、ひょっとして……

 

 ショックを受けたのは、その容姿だった。アテナは愕然として、息を呑んだ。

 

 ライラック色のショートヘア―、褐色の肌。セーラー服には、ダメ押しするかのようにオレンジ色のライン。オレンジ・ぷらねっとの所属であることの証。

 

 アテナは思い当たる節があった。昔、聞いたことがあった。アリスが話してくれたのだ。『ドッペルのお化け』という、数々の逸話の題材となっているお化けがいる。そのお化けというのは自分と瓜二つで、双子どころか、同一人物のようで、万一目撃すると、恐ろしいことになってしまう。――アリスは怪談好きの性分だったが、アテナはそのことを知らなかったし、意識もしなかった。

 

 その時、その瞬間、空目とするには余りにも仕掛けが周到過ぎると思われる、鏡に映るのとは異なる自分とそっくりの姿の相手に遭遇した瞬間、アテナはふっとその都市伝説の話を回顧した。

 

 闇に溶けていこうとするコピー、クローン、生き写しの後ろ姿を唖然として見つめていると、その姿が、振り返ろうとした。アテナは瞬時、見てはいけないと電撃的に察し、逃げようとした。何となれば

、その姿は『死』そのものなのだ。がしかし、彼女は追いかけてきた。物凄い速さで追いかけてきて、逃げ惑うアテナに抱き付いた。

 

『助けて』、と戦慄にかすれ切ってほとんど聞こえない叫び声を上げ、アテナは懸命にもがいた。

 

 ――肩を揺さぶられ、アテナは悪心を覚えた。

 

「アテナさん」

 

 どうして自分の名を知っているのか。あなたも同じ名前の、お化けではないのか。ドッペルのお化け。アテナは恐怖心と共に困惑した。

 

「アテナさん」

 

 びくっとして顔を上げると、見慣れた部屋の内装が目に入った。

 

「夢見でも悪かったんですか? でっかいうなされてましたけど……」

 

 肩に手で触れているのは、後輩だった。アリスだ。彼女はきょとんとした目でアテナの目を覗き込んでいる。

 

 アリスのその目を見ると、机に突っ伏しているアテナは気が緩み、こわばっていた身体が急速に弛緩していくのを感じて、「はぁ~」と長いため息を吐いた。

 

 アリスはお化けではなかった。だが、お化けを教えた者ではあった。恐怖そのものではなかったが、恐怖の源ではあった。

 

 アテナはだが、気にかけなかった。今はあの恐怖現象が一時の幻でしかなかったことを知って安堵するばかりだった。

 

「アリスちゃん」

 

「はい」

 

 アテナは乱れた髪を手直しして話す。

 

「散歩に行かない?」

 

「散歩ですか」

 アリスは一瞬怪訝に思う風に首を傾げたが、すぐに戻した。

「別に、いいですけど」

 

「そう」

 

 しぶしぶではあれ承諾を得、アテナはにっこりと微笑んだ。アリスのデスクはすっかり片付いている。

 

 一人でいるのは気楽だ、確かに気楽だ。だが、怖いことがあった時、どうしようもなく不安になる。

 

 アリスはまた怪談を得意げにぶっていた。ずいぶん詳しいものだと、アテナは半ば感心し、半ば呆れた。

 

 アテナは話半分でアリスの語りを聞き、夜空を眺めた。満点の星だった。指で星座をなぞってささやかに興じた。

 

 大運河のリアルト橋、アテナとアリスは並んで一緒に夜景を眺めた。

 

 散歩中、時々足取りの差より互いに離れ、アリスを遠くに見ることがあると、アテナはその影に、あのお化けの姿を投影して微かに寒気を覚えた。

 

「どうしたんですか、アテナさん」

 

 くるりと振り返り、問いかけるアリス。

 

「ううん」

 

 アテナは首を振り、微笑んで何でもないと答える。

 

 互いに距離を置いて歩く二人。その差は足取りの違いだ。

 

 アテナは仰向き、星空に、自分の後ろより来て追い越していくお化けの後ろ姿を見る。『死』の象徴。だが、鏡なしで自分の姿を目の当たりにするというのは、恐ろしいことというよりは、むしろ感慨深いことのように思えてくるのだった。

 

 

 

(終)

 


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