ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.33「老いの始まり」

***

 

 

 

 誰かがこう言っていた。懐古は脳の老化が始まった証拠であると。

 

 空調のよく効いた冷涼な室内、ゆったりとした安楽椅子に背を預けて、わたしは広い窓より外の豁然たる風景に目を注いでいた。たいへん蒸し暑い季節、真夏だった。海原の向こうの水平線と接する空は、すがすがしいほど青く、もくもくと成長した入道雲の城が立派にそびえている。あらゆるものは夏日のまばゆい光輝をたっぷりと受けて煌めき、美しかった。

 

 夏というのは、どうしてか、昔を思い出させる趣きがあるように感じる。わたしだけなのだろうか。安楽椅子を前後に穏やかに揺らしながら、ぼんやりと物思いに耽る。

 

「名前はどうするの?」

 

 ある日、友人がそう尋ねた。わたしははにかんで、まだ考えている途中だと答えた。

 

「可愛い名前がいいわよね」

 

「そうだね」

 

「灯里の二文字を使うつもりはあるの?」

 

「ううん、別に」

 

 わたしは首を振った。

 

 ネオ・ヴェネツィアのある喫茶店での会話だった。相手は藍華ちゃんだった。わたしが身ごもったという話を聞くと、まるでじぶんのことのように両手を上げたり拍手したりして、わたしがいくぶん戸惑ってしまうほど喜んで、手の舞い足の踏む所を知らずといった感じだった。

 

 彼女は確かに、喜んでくれていた。わたしが誰かと添い遂げ、子を授かるという経過を経る一方で、わたしがそうなるより遥か前より恋愛相談をよく持ち掛けていたが、その表情には、少しの陰りもなかったように見える。

 

 だが、ひょっとすると、わたしはいくらか楽観的過ぎたのかも知れない。彼女の内心には、何かわたしに対するポジティブでない感情があったのかも知れない。でなければ、わたしと彼女の間に今あるすっきりしないもやもやとした互いを疎遠にする隔たりの感じが出来ることなどなかったはずだ。

 

 いずれにせよ、わたしと彼女は、灯里と藍華は、すれ違うようになった。寂しく、哀しいことだった。

 

 わたしは膨らんできたお腹を撫でてみる。温かいのは体温だ。お腹の中にいる新しい命は、特に反応を示す様子はなかった。わたしは何となく安堵する気がし、目を瞑ってフゥとため息した。今は何となく、一人で、沈思に徹していたい気分だった。

 

 目を開いて考えた。わたしのパートナーはわたしにとても優しくしてくれる。日頃は仕事に精を出しているが、かといって家事を全て押し付けるとか、そういうことはない。お互いに協力して、円滑でまた健全なる共同生活を維持しようと心掛けている。

 

 確かにわたしは友人より遠く離れてしまったかも知れないが、その友人以外に、慕い、親しめる気の置けない相手と一緒にいて、孤独に悩むということはないはずだった。

 

 だが、何か、満たされない『隙間』がわたしの内にはあった。そしてその隙間に、その裂け目、その風穴に向かって、とめどなく流れ込んでくるのが、過去の記憶なのだった。麗しく、懐かしく、そこに回帰したいと希求させる、思い出たちだった。

 

 ちょっとお腹が空いたせいか、胃腸の具合があまりよくなく、口の中がまずかった。だがわたしは食べ物を食べようとは思わず、手近にある紅茶で潤すだけで済ませた。

 

 部屋にあるラジオからは快い南国の音楽が流れていた。ギターのチロチロという音色が温かみを帯びている。

 

 わたしは再び目を瞑った。すると一帖の思い出のシーンが目蓋の裏に映し出された。

 

 ――わたしは車に乗っていた。車内は空調がよく効いていて涼しかった。わたしは後部座席に座っていた。運転席では母がハンドルを握っていて、隣には優しげに微笑む祖母がいた。わたしは手に何か持っていた。何だろうかと確かめようとすると、祖母がわたしの肩を叩いて注意を引いた。わたしははっとした。

 

「ねぇ灯里ちゃん、暑いでしょ」

 

 祖母が言った。

 

「うん」 わたしは頷く。

 

 車のカーステレオは南国の音楽を流している……

 

「アイスでも食べる?」

 

「アイス!」

 

「あそこにお店があるの」

 

 母が指さして示す。わたしはその方に目をやる。

 

 うんざりするような暑さの昼下がりだった。空はカンカン照りで、近傍にある田んぼに突っ立っているかかしさえ、何だか疲弊しているように見えた。だが、わたしは--当時のわたしは、特別、暑さに愚痴をこぼすとか、千鳥足で歩くとかいうことはなく、ただ汗に濡れた前髪を額にべったりと付けて、買って貰ったアイスを、軒先の日陰で舌先でチョロチョロと舐めているのだった。

 

 アイスは味がしなかった。ただ氷のように冷たいばかりだった。だが、忘れてしまっただけなのだと思う。わたしは嬉々としてアイスを味わい、その涼感を思う様、堪能した。

 

 猛暑の中、車を放置していると、車内は高温サウナ並みの状況になっているものだ。それほど間は経っていないはずなのに、果然車内はもわっとした蒸し暑さがすでに陣取っていた。ホカホカの後部座席に座ると、せっかくのアイスによる暑気払いの効果があっという間になくなってしまう。母が空調を付け、涼しくなるまで、しばし時間が必要だ……

 

 みずみずしく輝く青い夏空の下、わたしと母と祖母の三人を乗せた車は快走する。土手の道は、すいすいと交通はスムーズだった。

 

 車の中で、わたしは、心なしか車に乗っている時間が長いように感じだした。実際長いのか、大して長くないのか、わたしには分からなかった。またどこかに行く途中なのか、家に帰るのか、そのことさえ不明だった。母も、祖母も、同じように疑問に思っている表情ではなかった。尋ねようと思って口を開こうとしたが、直前で委縮したようになって断念してしまうのだった。

 

 わたしは俯いて深くシートに座った。落ち込んだような恰好だった。そして不安に思うや否や、アイスが中りでもしたのか、お腹がしくしくと痛み始め、子供らしい薄っぺらいお腹を手で押さえると、どくんどくんと脈打つように動いた。

 

 カーステレオの音楽はいぜん南国風で、温かみがあって……わたしは、知らない内に自室に帰っており、手で膨らんだお腹を押さえていた。どくんどくんという動きはしばらく続いたが、やがて止んだ。胎動だった。何か嬉しいことでもあったのか、ちょっと元気に動いたようだった。胎児の喜怒哀楽の表現を理解するのは実の母でも難しかった。

 

 わたしは微笑むと、目を瞑ってフゥとため息し、窓より空を眺めた。

 

 当時わたしが経た経験は、時間という風雨に晒されることですっかり古くなり、今となっては、金属の劣化に似て、錆びたり、欠けたり、へこんだりして、当初の形状とは変わって、完全に同一のものではなくなってしまったように思える。あの友人の、藍華ちゃんとの思い出も、その最初の方のものは、今では色褪せて、見返すと自分が年を食ったということを嫌ほど実感させられ、苦笑いがこぼれる。彼女は今どうしているだろう?

 

 青空に、白雲に、海原に、わたしは昔の思い出を眺めるようになってしまった。わたしの目が切り取った風景は、すべて、そっくりおんなじではなく、追憶の哀愁と慎ましい喜びの色に染まっていた。

 

 懐古するのは老化の始まりだと耳にしたことがある。

 

 あなたは最早子供ではなく大人なのだと、教え諭す声がする。わたしのお腹の方だ。わたしはまた微笑み、手で優しく愛撫する。微かにする脈動。愛おしい温もり。

 

 わたしの内側には確かに『隙間』があるようだった。だが、その隙間には、今は流れ込んでくるものはなかった。

 

『ねぇ灯里ちゃん、暑いでしょ』

 

『名前はどうするの?』

 

 昔耳にした声、言葉がこだまして響きを起こす。

 

 わたし安楽椅子を揺らして、ラジオの音楽に傾聴して考え込む。

 

 しばらくして、わたしは口を開き、ぽつりと呟く。

 

「アイス、なんてどうだろう」

 

 苦笑いの声がした。母の、祖母の、藍華ちゃんの、あるいはアリスちゃんの、あるいはアリシアさんの、苦笑いだった。

 

「いいと思うけどなぁ」

 

 わたしは呟く。独り言だった。

 

 夏空は、果てしなく青かった。

 

 

 

(終)


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