ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.32「スローガン」

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 わたしがウンディーネの道を諦めて、書物を扱う仕事へと移ったのは、かれこれずいぶん昔のことだ。天才肌のルーキーのアリスとして、ARIAカンパニーの灯里先輩や、姫屋の藍華先輩と共に、日々つたないやり方で、半ば遊びめいてはいたものの、ちょっとずつ研鑽を積んで、いずれはそれぞれの目指す大妖精と呼ばれるウンディーネの最上階級になることに憧れ、夢見、精進した。

 

 人の生の道というのは決してまっすぐではないし、レールが敷かれているわけでもない。そういうことを、わたしは感じる。当時はそうは感じなかった。人生はまっすぐで、それこそレールが敷かれるがごときものだと思っていた。

 

 ある日――今思えば、それは天命とか天啓と呼ばれるものだったのだろう――転機が訪れ、わたしは呆然とし、懊悩し、自分の立脚する位置の不安定さを思い知った。

 

 簡単に言えば、人間関係だった。もともと、人付き合いは得意でない方だった。自覚はあった。声は小さく、表情は仏頂面で、他人に対して、交流に対して、意欲的でなかった。別に、意識的にそういう態度を取っていたわけではなかった。そういう態度が、わたしのナチュラルであっただけのことだった。

 

 だが、わたしのそういう性状では、ウンディーネをやっていくのは、往々にして困難をきたすのは異とするに足りないことだった。わたしは次第に周囲と軋轢を生じ、同僚、先輩に後輩、更には客人とまで、不和を伴った。

 

 わたしは自身を賢明だという手前味噌の主張をするつもりはない。ただ、昔も今も、愚鈍でも蒙昧でもありたくないという気持ちが強かった。わたしは自身のウンディーネとしての適否をやや遅れて悟り、今もなお盛況であるオレンジ・ぷらねっとの重役に相談し、退職することになった。

 

 

 

 ……にんげんという生き物の愚かしさを忌々しそうに語るにんげんをある日テレビで見た。にんげんは惑星の環境に負担をかけすぎている。にんげんは手前勝手に生きることで環境を汚染し、ひいては、じぶん達の生活する範囲にまでその影響が及ぶことになるだろう。

 

 ネオ・ヴェネツィアは水位がここ数年急激に上昇しているという話だ。わたしはもうオールを握らなくなって多年なので、実際どうなのかは分からない。

 

 わたしは毎日書物の山に埋もれ、評論やエッセイを新聞や雑誌に投稿して暮していた。すっかり目が悪くなり、一日を過ごす間のほとんど眼鏡が外せなくなった。

 

 そのシーンを見たわたしは、眼鏡を外し、小声で唸った。

 

 にんげんという数多の過誤を重ねてきた生き物に欠陥を認め、断罪する。にんげんを悪として認識し、そうすることで、その生存を否定し、滅ぼそうとする。

 

 その程度の生き物なのかとわたしは思った。なるほど、にんげんは悪なのだ。であれば、滅びるしかない。

 

 だが、にんげんが重ねてきた歴史は、必ずしもネガティブなものばかりではないはずだ。数々の新旧の書物を紐解くことで、わたしは勉強した。爆弾を落として山野を荒れ地にするにんげんは、しかし花を植えることが出来る。

 

 これは、果たして綺麗ごとなのだろうか。にんげんは結局、わたしの思想、わたしの意見を受け付けないほど、完璧に悪なのだろうか。

 

 わたしが最初仲良くし、協力し、切磋琢磨した灯里先輩や藍華先輩、優しいアリシアさん、怖い晃さん、いつもうっとりして上の空のアテナさん……

 

 テレビが訴える醜悪なにんげんと、身近にいたにんげんとを並べ、比較する。そうすると、まるでオセロのようにはっきりとしたコントラストが出来る。

 

 わたしは混乱し、首をかしげ、重たい頭を抱える。

 

 ――失敗した。悪さを犯した、その時は、過誤を認め、反省し、ごめんなさいと言う。

 

 わたしははっとする。

 

 昔、わたしがウンディーネをしていた時、教えてもらった、そっくりそのままではないが、訓戒だ。オレンジ・ぷらねっとの社訓だったのか、例の合同練習のメンバーの間で出来たスローガンだったのか覚えていない。だが、そのわたしのテレビの訴えへの苦悩に対するヒントは、書物の中のものではなく、わたしの記憶の中の、ぽかぽか暖かく楽しい時期に、何気なくあったものだった。

 

 断罪されれば、処分されるのはことわりだ。罪を根拠に、可能性が減殺される。

 

 省察し、更生し、人生の岐路で新しい方向を目指すことが出来るというのは、自由であるということだ。道を誤った者から行き先を奪うということは、果たしていいことなのだろうか。そうすれば、すべては万全なのだろうか。

 

 わたしはテレビを切り、読んでいた書物にしおりを挟むと、デスクを離れ、ベッドにごろんと横たわった。

 

 考えすぎだなぁ、とわたしは自分に呆れた。目を瞑った。

 

 眠たかったのは否定出来ない。だが、寝ていたのか、起きていたのか、自分でも今一釈然としない。

 

 ただ、目蓋の裏に、過去の映像が流れていて、わたしは見入っていた。よく見知った映像だ。わたしが白いセーラー服をまとっておしゃれに装飾された小舟に乗っている。時には一人で、時には仲間達と。

 

 その映像を見ていると、どうして自分はあれほどすてきな人たちとの間に不和を生んで、仕事と、彼女等との関係を断念し、離れて、望まないところに来てしまったのだろうかと、悔やまれてくるのだった。

 

 今の書生としてのほそぼそとした生活に特に不満があるわけではなかった。だが、目蓋の裏のビジョンを見ていると、何とはなしに、その生活、わたしの思い、わたしの考えが、翳りを帯びて、疑わしいものになってくるのだった。

 

 

 

(終)


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