ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.26「怪舟」

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 雨粒が小躍りする夜が明けると、そぼ濡れのじめっとしたネオ・ヴェネツィアの街は、その様相をすっかり変え、おしろいをふんだんに塗りたくっていた。強い寒波の訪れで、透明の雨は純白の雪に変わったのだった。ネオ・ヴェネツィアは凍て付いて仮死状態にあり、通りを往く人々は稀少だった。

 

 

 

 船着き場に整列して浮かぶ複数のゴンドラは、同色のカバーに覆われて季節の眠りに付いており、ゴンドラを降りた乗り手達、ウンディーネと呼称される妙齢の女性の乗り手達は、半ばくつろいで、半ば憂鬱に沈んで、寒風を凌ぐ屋根の下、温かい火の気のそばで、無為で閑暇の日々を過ごしていた。

 

 

 

 雪は結晶度の高い粉雪で、あらゆるものに降り注ぎまとわり付いたその雪は、当分とけることがないように見える。惑星をずしんずしんと進行する季節という巨怪の獣の尾は、彼方にまで伸びて、地上に水上に、ウネウネと這っていた。

 

 

 

 雪は未だに小止みなく続いており、空は灰色の叢雲に満ちてどんよりとしており、そして、その雪の勢いはしたたかで、大風の煽りを借りてふぶいていた。ブリザートじみた天気であった。あるいは、ブリザートそのものだったかも知れない。

 

 

 

 こうなっては外出のしようがないということで、果然、曠日弥久(※)していた灯里は水上のARIAカンパニーの二階、居間にいて、広いテーブルのそばにゆったりと座って漫然としていた。机上に肘を付いて、何となくお腹の締め付けられるようないくぶん憂わしい感覚を覚えて、座っていた。

 

 

 

(アリシアさん、まだかなぁ……)

 

 

 

 ゆうべ外出して不在の彼女に思いを馳せる灯里は、ふと、机上の肘よりはね返ってくる力で頬のくしゃっとした顔を、居間にある円形の大きい窓に向けた。

 

 

 

 すると、灯里は注意を惹く物体を見とめた気がした。

 

 

 

 輪っかに縁どられたその透明のガラスの、ちょうど中心に、白帆を上げた小舟が浮かんでいたのだ。

 

 

 

 この厳寒の時季、それも、特に荒れた天気の下、沖に近い海洋に、出帆する舟が果たしてありうるのだろうか。

 

 

 

 自身の経験、良識、知見に照らし合わせて深々と考えると、灯里は、何だか身震いしてくる心地になった。その原因が寒さでなく、怖気だったことは言を俟たない。

 

 

 

 退屈に倦んで疲労しているのだろうかと、灯里は机の肘を上げて、手で額に触れた。すると汗でじわっとして、熱くなっているようだ。

 

 

 

 はぁ、と目をつぶってため息すると、灯里は束の間深呼吸し、頭を休めた。そして目を開くと、おもむろに立ち上がり、怪奇のビジョンを投じる窓辺に恐る恐る寄っていった。

 

 

 

 まぼろしであればよかった。まぼろしであれば、この違和感や底知れない恐れ、また困惑や怯えた憶測などと無縁でいて、ずっと、多少のお腹の痛みはあれ、休んでいることが出来た。

 

 

 

 だが、ビジョンは見間違いではなかった。あの怪奇の物体、洋上の小舟は、今もなお浮かんで渡航しており、その様は、まったく、まるで、この荒天に相応しい挙動ではない非常に、また異常に、落ち着いた挙動で、粉雪の充満する真冬の空と海の間を進んでいた。

 

 

 

 灯里はくらっと来る気がした。足元が揺れ動いたかのようだった。微かに地震でもしたのかも知れない。あるいはめまい。詳しくは分からなかった。

 

 

 

 突如のことに目を再びつぶった灯里は、目蓋の裏側に数多の閃光が目まぐるしい速度で瞬くのを見た。大きい閃光があったり小さい閃光があったりし、また、カラフルであった。ただし綺麗ではなかった。その閃光の数々は目くらましであり、有害であり、灯里の額に、汗の粒が膨らんで、そして流れ落ちた。

 

 

 

 灯里ははっと目を開くと、部屋の暖房を切り、窓辺にきびすを返すと窓を開け放った。すると寒風が瞬く間にヒュウという音を伴って窓の内外を行き来し、同時に、雪が部屋に入った。

 

 

 

 雪は、灯里の顔、体に付着するとあっという間にとけ、彼女の火照りを冷ました。

 

 

 

 灯里は沖合に目を注いだ。あの小舟は、最早なくなっていた。遠くへ行ったのかも知れないし、あるいは、元々なくて、退屈が成した空目だったのかも知れない。灯里にとっては、後者が望ましかった。だが、事実は不明だった。小舟を見たというのは確かだった。しかしその痕跡は絶えてなかった。

 

 

 

 灯里は再び目をつぶる。幾つかの雪の粒が、彼女の長い睫毛に降りかかり、そこで中々とけずに残る。

 

 

 

 そうして灯里は、降り積もったその重みで雪が睫毛より自然落下してびっくりするまで、ずっと悶々とした感覚に戸惑いを覚えていたのだった。

 

 

 

(終)




(※)曠日弥久=むなしく日を費やして、長びきひまどること(広辞苑より)

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