ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.25「オールド・ペアレンツ」

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 幼少だった頃のじぶんを優しい微笑みで見守っていてくれた両親がいた。

 

 ずいぶん昔のことで、彼等の顔を回想に求め、まじまじ眺めようとすると、常に伸び続け、すでにかなり長く伸びている記憶の、水族館の通路じみたトンネルの中、その奥の方まで行かないといけない。

 

 幼児を養育するまだ若い、またそれゆえ養育に苦難や迷誤などを抱える彼等の、青年と少女の、それぞれの相貌は、じぶんにとっては、少なくとも、今のじぶんにとっては、縁遠い人物めいて見える。そのすべすべの肌や、さらさらの髪や、依然無邪気さを宿した夜空の星に似た眼光の煌めきは、あたかも彼等が友達か、きょうだいであるかのように思わせ、時々、わたしを困惑させる。

 

 だが、彼等は間違いなくわたしの肉親であった。食卓に食べかすをまき散らすわたしも、公園でブランコに乗ってのびのびと興じるじぶんも、道路でうっかりこけて軽い擦り傷に号泣するじぶんも、彼等はやっぱり、例の尽きることのない温情の表情で、見守ってくれ、時には手を差し伸べて、涙をぬぐったり、ぎすぎすと刺々しく乱れた心を鎮めたりしてくれた。

 

 幼少のわたしは、ほとんど野獣同然で、活発さだけが取り柄で、知性のかけらさえ有しなかったが、彼等は見捨てることはせず、決して優秀でも裕福でもなかったけれど、若い世代の者にしては強い我慢と忍耐をもって、わたしを物心が付くまで育て挙げてくれた。

 

 ……海のさざ波を超えた果ての水平線を望むと、決まってわたしは、ふるさとを感じ、そして、両親の姿を思い返すのだった。

 

 両親はすでに壮年になっていて、昔ほどの物柔らかい感じはなくなっていた。

 

 わたしが家を出るとよわよわしい口吻で切り出した日、両親の顔は、わたしがそれまで一度として見なかったものになった。彼等は驚倒し、呆気に取られた。わたしは自分の企図を改めて口に出した。今度はきっぱりとだった。

 

 その時のわたしの言動、わたしの告白、出し抜けの、一個の個人としてき然としたわたしの告白は、最早若くなくなった両親に対して、幼少のわたしが繰り返し犯した愚行、例えば、失禁や、暴言や、暴力などより、遥かに強いショックを与え、ろうばいさせた。

 

 彼等は箱入り娘に甘んじず、ふるさとを出、異郷の地でなじみのない仕事に挑もうとするわたしに失望したに違いない。わたしは裏切り者であったのだ。

 

 その時ひさびさに、両親の顔をしっかりと眺めた気がした。父は黒だったが、母の髪は、マスカットと同じ色だった。わたしのロングヘア―は、母ゆずりのもので、母はよく、小さいわたしの髪を洗った後、ていねいにくしで梳かし、よく乾かして手入れをしてくれた。

 

 両親だって、わたしがとっくに幼くなくなっていることは熟知していたはずで、ということは、彼等は、わたしが、じぶんの意思を持ち、その意思を固有のものとして堅持する成人だと--まだ十代半ばに過ぎないが--内心ではわかっていたと思う。あくまで子供ではあっても、親の人形ではなく、親の願い、望みを拒絶する冷徹さを得た、成長した知性の生き物であることが理解出来ていたと思う。

 

 両親はこの街まで、ネオ・ヴェネツィアという水の都まで、見送りに随行してきた。彼等は迎えにきていたアテナさんに引き連れられ、たくさんの荷物を背中や手に持って去っていく後ろ姿をずっと見ていた。その時の表情は、わたしはその時振り返らなかったので分からないのだけど、きっと、思うに、しょんぼりとしていただろうと思う。

 

 ……はぁ。

 

 何となく、ため息。俯いて打ち寄せる波の様を見下ろす。春の終わりの日。海辺の風はまだ冷たさをはらんでいて、時々わたしを身震いさせる。制服はまだ冬用のものだったが、程なくして、季節の急転と、気候の激変と共に、衣替えとなることだろう。

 

 夏になれば、長い休みがある。

 

 今度の休みは、家に帰ろうかなぁ……と、俯いた顔を上げて、いくぶん褪せた青空を仰ぎ考える。すると、そこはかとない憂鬱が胸を微かに締め付ける。

 

 ごめんなさい、と謝るわたしの目は、当然、両親に向いている。だが、その両親は、現在の両親でなく、過去の、あの友達かきょうだいじみた、快く打ち解けられそうに思える、若い、親なのに親っぽさがてんでない、二人の青年と少女なのであった。

 

 

 

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