ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.23「嘆きの詩」

***

 

 

 

 ランプのある先端が三又に分かれたしゃれた街路灯。ただし今は、照ってはいない。その向こうには運河が通っており、更に向こうには低い街並みが疲れて横たわっていた。

 

 白濁のもやが重たげに辺り全域に渡って漂い、流れていた。

 

 という風景を、がらんとした通りに一人きりでいる彼女は茫然と眺めていた。

 

 ずいぶん前に雨が降り出し、その雨が今も小止みなく続いているのだった。

 

 ぱらぱらと傘のビニールを打つしずくの音を彼女は聞いた。桃色の髪の少女は聞いた。そうして、彼女はどことなく物憂い気分になり、手足はずっしりと鈍くなってしまったようだった。

 

 街はひっそり閑としており、様々の商店を集める商店街は軒並みシャッターを下ろして閑古鳥だった。

 

 そぼ降る雨にしっとりと濡れる石造りの路面。

薄い水膜の張ったその路面には、凝然と立っている少女の影が細切れの形で映り込んでいる、そして絶えず落ちてくる雨粒の波紋によって歪んでいるのだった。

 

 少女より遠く離れ、その横顔を窺うと、全てが速度をにわかに失ってスローモーションになって見えた。雨粒は星辰の如くほとんど眠気を誘うほど緩慢に地表までの直線を降り、その一粒一粒は、叢雲に遮られた弱弱しい光をガラスの如く反射して煌めきを放った。

 

 スゥと鼻で軽く深呼吸すると、少女はゆっくりと、まばたきだろうか、目を瞑る。長い睫毛はピンとして鋭く尖り、また優美だった。

 

 すると、一瞬は一分に延び、一時間に延び、最後には永遠と思えるほどの長さを得、雨粒はぴたりと停止して、動くものはフラフラと彷徨する悪賢い流浪の風ばかりであった。

 

 慨嘆と悲哀の物思いが、少女の心胸にあった。その物思いというのは、不幸を告げる宵闇の花であった。その花は、種子として少女の胸中に宿り、やがて開花したのだ。

 

 その種子が運ばれてきたのは、ネオ・ヴェネツィアの街が呪わしい困苦と貧窮の時代に突入した頃のことだった。悪魔の使いが盗人として隠密にいずこかより現れ、幸福と平和を街より奪い去っていってしまったのだ。その後あらゆる聖なる神々は意気消沈して虚弱になり、信徒の心を冷めさせ、この世に祝祭と祈りはなくなった。

 

 その苦難は、不運は、予定され、実行されたものなのだろうか。

 

 その疑問に、少女は頭を悩ませた。知り合いが、家族が、友人が、病苦のハズレくじを引いて衰弱していく中、悶々として考えた。

 

 だが、答えは出なかった。少女は悄然とし、、無力を悟り、最早気力を失ってしまった。

 

 水の都。満々たる水資源に恵まれた由緒ある古都は、長雨の災難に見舞われ、沈没しそうであった。

 

 蒼然と構える鐘楼の鐘がなる。だがその音は水中で聞くようにひずんでおり、まるで鐘が壊れてしまったかのようだ。救世の英雄は決して現れなかった。何者さえその存在を信ぜず、また望まず、ただ絶望に専心するばかりだったためだ。

 

 長い暗黒の時代。季節はしかし移ろう。だが、冷たかった雨がなまぬるい雨に変わる程度のことなどに過ぎない。

 

 少女は閉じた目を開いた。

 

 すると動きを封じられていた全てが動き出した。雲は雑然と変容し、雨粒は砕け、路面に張る水は流れた。

 

 少女はぐっと傘の柄を持つ手に力を込めた。すると何となく熱を帯びていくように感じた。ビニールの雨音が絶えず鳴る。

 

 彼女は思った。以前じぶんは健全とした世界にいたのだと。その世界では、明るい天界と暗い冥界を信じていた。じぶんが生まれ、存在し、やがて死去する世界は、中間に位置し、天国も地獄も、仕切りを隔ててあり、その間を行き来するためには善悪の判定を司る神の指示が必要なのだと。

 

 だが、実際は違った。じぶんがいる世界というのは、悪魔や死神などの力で、どうにでも変化してしまうのだと。じぶんが天国と地獄に移動するのではなく、世界そのものが変動し、世界に生きる人々は、その変動に無力に巻き込まれてしまうのだ。

 

 桃色の髪の少女は頬に一筋の流跡を描いた。雨は小止みなく降りしきる。日は差さず闇のうねりが広がり、また鳥のさえずりもなく、聞こえるのは陰鬱なる眠りを誘う雨音ばかりだった。彼女は俯き、そして嘆きの呟きを吐いた。

 

 ふと、それまで消えていたあの三叉の街路灯に明かりが灯った。

 

 通りには、最早少女の姿はなかった。ただ、打ち捨てられた傘が無残に転がっているばかりだった。

 

 

 

(終)


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