ARIA The Extension 作:Yuki_Mar12
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ネオ・ヴェネツィアの駅を発する列車がある。その列車は、ネオ・ヴェネツィアを発着点として、周辺にある離島と、水上に敷かれた線路で繋がっている。ネオ・ヴェネツィアが都市として管轄するその列車は、ありふれたもので、観光は勿論、通勤にも利用され、客数は多い。夏休みや冬休みなど、特定のシーズンになると、たくさんの荷物を携えた子供が増える。そう、彼等は帰郷するのである。
ぽかぽかと程よく暖かい小春日和だった。わたしは切符を手にしていた。切符には出発した駅とわたしが選んだ目的の駅の呼称が印字されている。
列車は、だだっぴろい海原を快走している。彼方には水平線。上方には薄く棚引く雲。空には淡く照る太陽が浮かんでいる。何ともゆったりした日柄だった。
「ふるさとねぇ」
通路を挟んで両側にそれぞれある二人掛けの座席の片方に、一人で陣取るわたしは、窓枠に肘を突いて一人呟く。
ふるさとというワードには、特別何を感じるということもない。なぜというに、わたしの故郷はネオ・ヴェネツィアなのだ。
溢れんばかりのオーシャンビューが見える窓には、微かに自身の反映がある。上はロングTシャツで、下はジーンズ。両方ともタイトだ。そして首には細い金属のネックレス。日光を受けて円状の輝きが窓に見える。
藍色の髪は、ずいぶん前に或るトラブルがあって、もともと長かったものを短くした髪は、以後数か月経っていて、既にけっこう伸びてきて、最初は剥き出しだったうなじが、今では隠れている。ピンで小細工している髪だが、そろそろ外して、流してみるのも、いいかも知れない。
憧れのアリシアさんの模倣であり、参照であり、またゲン担ぎでもあったわたしのロングヘア―が、そろそろ戻るのだ。
そう考えると、何だかうきうきした気分がもたげて、口元が緩み、自然と髪をイジる回数が増える。自分でもバカバカしくなるほど、無邪気だと呆れる。
指先で髪をクリクリやっている途中、はっと我に返る。見上げると、前方に座っている子供と目が合う。男の子だ。年は、ずいぶん小さい、ということしか言えない。
彼は、座席の背もたれの上端より、顔の上半分を覗かせている。どうにも、そこそこ前よりわたしの動向を見ていたようだ。それも、面白がって。
しまった、と自戒してさっと色を正すが、そのせかせかした変わり様と、うろたえ様がおかしいのだろう、男の子はにやっと笑う。
心の中でハァ、とため息を吐く。
今は長期休暇のシーズンではない。
あの男の子は、今はもう隣にいる親に注意されたのか、後ろ向きになってわたしを窺うことはせず、ちゃんと座っているようだ。
――と思ったが、違った。彼は移動していたのだ。わたしの、すぐそばに。
通路に、彼は立っていた。座ったわたしと目線が合うくらい、彼は小さかった。
「ねぇお姉ちゃん」
わたしは反応する。
「お姉ちゃんは、お家に帰るの?」
わたしは首を左右に振る。
「ちょっと、用事があってさ」
身空についてざっくり話すと、男の子はふうんと納得したように返した。彼はそもそもわたしのことになんか興味がなくて、たまたま目が合ったわたしに何となく親近感を持って、ほくほくし、語りたがっていたようだ。
「あぁ、そう。お引越しするの」
「うん」
そう頷く彼はしゅんと俯いていて、どことなく、寂しさをにおわせる雰囲気を帯びていた。
「また夏休みとかに帰ってくればいいじゃない。ネオ・ヴェネツィアに」
わたしは、自分が水先案内人であることは伝えなかった。あえて、ゴンドラに乗っていること、お客さんにガイドすること、ネオ・ヴェネツィアの見どころのある各所に導くこと、など、教えなかった。理由は特になかった。ひょっとすると、わたしと男の子の交わす会話の主役が、男の子であり、わたしはあくまで聞き手に過ぎないという気兼ねがあったためかも知れない。
いずれにせよ、男の子は、わたしの励ましを受け、多少は自信を回復したようで、柔らかい笑みを浮かべて別れの挨拶をしてくれた。ある島の駅に到着すると、降車した彼は、わたしの見える窓のそばまで来、わたしに手を振ってくれた。そのそばにいる彼の両親は、うやうやしく頭を下げてくれた。わたしは何となく気後れしてしまい、はにかんで頭を下げ返すばかりだった。やれやれ。
「ふるさとねぇ」
と、二度目の呟き。わたしは再び景色が流れ出した車窓を、前とおんなじ恰好で眺めていた。
あの男の子のふるさとは、わたしと共通であり、水の都、ネオ・ヴェネツィアなのだ。ところが彼は、親の仕事の事情により、ふるさとを後にしないといけないという、強制力に遭遇したのだ。
未だ自立していない子供は、その庇護を必要とする親と一蓮托生の関係を結ばないといけない。振り回される子供というのは、大変だ。
わたしも、そういえば、似た経験をした身だった。藍華は姫屋の水先案内人だ。そして姫屋を切り盛りするオーナーは、わたしの親だ。親は熱心だった。わたしは生まれた時点で、水先案内人になることを約束され、他の道は閉ざされていたのだ。わたしは赤ちゃんだった時点ですでに、姫屋を引き継いで維持する役目を担わされていたのだ。
――さっとまばゆい日光が顔をかすめる。物思いに沈んでいたわたしは、閉じていた目を開ける。
「別に、わたしは」
後悔など、なかった。親に対して憤懣も、怨恨も、なかった。誓って言うことが出来る。
ただ、敷かれたレールの上を歩いている自分が、何となく、ふと、ちっぽけに思えた。そうして、今こうして列車に乗って、予定された用事を済ませに行く自分が、その想念の内に見えるわたしとダブって見える気がした。
すると、それまで繰り返した呟きの意味が、急に霧が立ち込めるようにして掴めなくなった。
ふるさと。
わたしのふるさとは、一体どこなのだろう。
ぐずぐず考えている内に、列車は遠くの駅へと至った。わたしの切符はそこまで有効だった。
列車を降り、空気の、いくぶん冷めてしまったことを感知する。
列車が去る。さびれたプラットホームで、海原を眺める。日光に鮮やかに輝く水面。風が渡っている。冷たい風だった。わたしは思わず、身震いした。
男の子の笑顔が蘇る。哀感を帯びた笑顔。冷ややかな風に揺れる花。怯懦に震える自由と、倨傲の運命。
わたしのふるさとは、ネオ・ヴェネツィアだ。彼と一緒。そして、わたしが担う役目を決定する親の膝元だ。
短かった髪が伸びてきた。そろそろ、細工を解いてもいい頃かも知れない。
そうしたら、アリシアさんに見てもらおう。褒めてくれたら、きっと舞い上がってしまうに違いない。
アリシアさんは、わたしの憧憬する第一級の水先案内人であり、また第一級の、美人だ。
そしてわたしも、まだ半人前だけど、水先案内人だ。ネオ・ヴェネツィアの、水先案内人だ。美人ではないけど、美人になりたいと思って努力なり工夫なり、している。
全ては、わたしが望み、納得したことだ。
全ては、わたしが引き受け、受容した必然、すなわち、運命だ。
(終)