ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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世は混沌に満ちていた。病魔に憑かれた灯里は、長い夜を過ごす。その中で、憂苦を抱えた彼女は、希求して、光を見出す。


Page.19「混迷の果てにある光」

***

 

 

 

 平和というのは、どれだけ長続きしても、やがて終わりを迎えるものだ。そういうことを、今しみじみと痛感する。平和の限界が訪れたのだ。

 

 ネオ・ヴェネツィアは混迷の闇に覆われていた。辺りは静まり返っていた。しかしその静けさは、よいものではなく、悪いものだった。皆、押し黙り、瞑目し、じっとしていた。そうして、心の中で、平和の復活を希求した。誰かの叫び声、呻き声ではなく、小鳥のさえずりを求めた。薬ではなく、頬が落ちるご馳走を求めた。明けない夜ではなく、日輪がまばゆい光彩を放つ明るい朝を求めた。

 

 ――だが、虚しかった。そう、虚しかった。人間の営みなど、しょせん、知れたものだった。にんげんの、古都の、文化の、危急存亡の時にあって、何か意義のあることが出来る者は誰もいなかった。

 

 医者も、教員も、シェフも、郵便配達人も、暗鬱の日々を熱にうなされたように苦悶の内に過ごすばかりで、ウンディーネも同じだった。

 

 春を迎えてほどないある日の夜。深い深い、明けることのなさそうに思える憂悶と悲嘆の夜。

 

 こんな時、逃げ込むことの出来る場所があるというのは、世の中にはそうでなくとも、少なくとも自分には、意義のあることであるように、思う。

 

 わたし、水無灯里は、そう思う。

 

 ARIAカンパニーのギャレットの窓辺にあるベッドに、膝を抱いて座って、外を眺めていた。

 

 ARIAカンパニーにはわたししかいなかった。町が未曽有の静寂に包まれている中で、一人きりの建物は、恐ろしいくらい、空気が冴え、ひんやりとしていて、自分の吐息さえ、かしましく感じるほどだ。

 

 寝間着を着替えもせず、わたしはこうして、ぼうっと、無為に過ごしている。

 

 額に手をやると、じとっとした汗を感じる。それに、熱も。

 

 風邪でも引いたのだろう。体がぎしぎしとかたくこわばっていて、倦怠感はうんざりするほどだ。

 

 病苦はなかなかのものだった。わたしは指先さえ動かすのが億劫だった。

 

 憂わしい世情より、また、苦しい病魔より、逃げ去り、その中に駆け込める何かがあるというのは、すばらしいことだ。まったく、そうだ。

 

 クリスマスの歌が聞こえる。空耳か、あるいは、わたしの心の中で、記憶に刻まれたそのメロディーが、響いているのだろう。冬の凍て付いた空が、雪の妖精が、回顧される。

 

 甘いケーキの味が、絢爛に装飾された麗しい青緑のモミの木が、白髭の赤い装束を着た男が、まざまざと蘇ってくる。

 

 アリシアさんと共に過ごした。聖人の誕生日の、前夜。和やかさの充溢する一夜だった。今でもよく覚えている。毎年、クリスマスは祝うけれど、直近のクリスマスは、何だか特別だったように思う。

 

 ご馳走を用意しているアリシアさんは、普段より倍くらい美しかった。その金色の長い、美しい髪は、輝きが増していた。そして常に絶やすことのないスマイルも、普段より柔和だった。アリシアさんは、そう、とても幸せそうだった。クリスマスを過ごすことだけでなく、全てが、彼女にとって祝福すべき事柄であるかのように、彼女は、喜びの色を帯びて、煌めいていた。

 

『このケーキ、とっても美味しいですぅ』

 

 そう子供のようにはきはきと感想を吐くわたし。アリシアさんは、テーブルの向かいで、いくぶん紅潮した顔で見ていた。

 

 彼女のところには、満たされたワイングラスがある。赤紫色のワインだ。聖人の血と書物で書かれる飲み物だ。紅潮していたわけは、その血を口にしたためだった。アリシアさんはその香りも味も、じっくりと愉しんでいた。

 

 気付くと、アリシアさんは眠っていた。テーブルに突っ伏して、スゥスゥとかわいい寝息を立てて。

 

 わたしは何となくかいがいしい気持ちになって、手を伸ばし、アリシアさんの肩に触れようとする。テーブルに並ぶお皿は全部、空だった。

 

 わたしも何となく眠たかった。

 

『ベッドに行きましょう。こんなところで寝ると、お体に障りますよ』

 

 そう諫言して、起こして、ダイニングより、肩を貸して、二階のギャレットまで運ぶつもりだった。

 

『ありがとう』

 

 酩酊したアリシアさんは、眠たいまなこでわたしにそう、呟くように言ってくれるだろう。そしてわたしははにかみ、わたしが普段横になるベッドに、わたしの代わりに横になるアリシアさんの姿を見て、何か胸温まるものを感じるだろう。そのイメージは、確信的なものだった。

 

 だが、記憶はそこでぷっつりとあえなく途切れた。思い出の晴れやかさは現実のブラックホールに吸い込まれて消失した。わたしは気付かない内に閉じていた目を開けた。だが、そこに明るさはなかった。

 

 伸ばしたわたしの手は、腕が伸び切る前に、障壁に触れた。そう、窓ガラスだ。アリシアさんの像は遠のき、ふっと消えた。

 

 ガラスはとても冷たかった。だが、その冷たさが、心なしか快適に思えた。

 

 しばらくガラスで手を冷やして、その後、改めて、額を触る。すると、汗は以前より増したようだ。また、熱も……

 

 クリスマスの、甘く美しい音色はまだ鳴っている。逃げ場所は、依然ある。

 

 わたしは無窮に思える暗夜の檻より脱そうと、かたく目を瞑り、祈る気持ちで、心神をまた、思い出へと馳せた。

 

 だが、逃げようと、癒しを求めようとするわたしは、最早しるべを見失っていた。五里霧中だったのだ。

 

 ヒトという生き物の儚さとか、愚かさとか、脆さとか、そんなものについて、わたしはもう、考えたくなかった。感じたくなかった。無力を自覚したくなかった。全世界を巻き込む大いなる悲運の到来を認めたくなかった。全て、ぜんぶ、もううんざりだった。

 

 眠ろう、と、わたしは思った。覚めた、いわばわたし自身が望んで主体的に成す想像による楽園ではなく、盲目の、受動の、夢想による楽園へと移ろう。

 

 何だか熱が高まってきたように感じる。ずっと何もしていないのに、息が上がる。ぜえぜえと辛そうで、自分でも嫌になる。

 

 花が咲いても誰も愛でない春が来ると事前に知ることが出来ていれば、わたしは絶対、冬が終わらないように、神様に祈ったに違いない。

 

 だが、無駄なのだ。分かっている。分かり切っている。そうして、本当にうんざりなのだ。

 

 ヒトの祈りなど、しょせん、水面に浮かぶ泡沫に過ぎない。結局、波が立てば、全て流され、潰され、消える。儚いものだ。

 

 汗を握る手でオールを握っても、きっと滑り落ちるだろう。ゴンドラは漕げない。

 

『あらあら』、と、アリシアさんの口癖が聞こえる。『ダメじゃないの灯里ちゃん。ちゃんと横になっていないと』

 

「はひ、ごめんなさい、アリシアさん」

 

 苦笑気味に答え、わたしはおもむろに横になると、掛布団を首までかける。

 

 横たわるわたしのかたわらに、彼女の鎮座する姿が見える。何とも神々しい姿だ。彼女は純白のセーラー服を身にまとい、わたしを天使の笑みを湛えて見下ろしている。

 

 

 

 あぁ やっぱりアリシアさんのそばにいると 安心が出来る すっかりリラックスした 体も 心も

 

 もう眠ろう 疲れた 病を癒して そして 健やかに 明るい朝を迎えるのだ

 

 

 

 わたしは、ゆっくりと目を閉じた。閉じた目は、トンネルを見た。夢のシーンだったのかも知れない。そのトンネルは長く、百年かけても出ることが出来そうにないほど長かった。

 

 しかし、彼方に光明が見えた。正しく言えば、見える【気がした】。

 

 ひょっとすると、その光明は、わたしが希求したために、見えたのかも知れない。

 

 幻か、本物か。

 

 いずれにせよ、光明は光明だった。

 

 わたしは、やっぱり安心して、そうして、永い眠りに就いた。

 

 

 

(終)


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