ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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故きよき思い出。大人になったアリスに、ある日、よく親しんでもういなくなった先輩の思い出が訪れる。


Page.16「舟歌の思い出」

***

 

 

 

 夢を見ていた──かどうかは定かではないけれど、わたしは眠っていた。

 

 夜が明け、朝がやってくる。閉じたカーテンの細い隙間より、淡い朝日が差して来、床に一筋の線を描く。

 

 目をゆっくりと開く。わたしはひとりだった。そう、ひとりきりで、部屋にいて、割に広いベッドに、やっぱりひとりで寝ていた。オレンジ・ぷらねっとの部屋だ。

 

 眠りは健やかなものだった。ただ、何となく中断したという気が止まずにある。トイレに行くために起きたのだろうか。考えるが、どうも違う感じがする。夢を見たのだと思う。それも、快い夢だ。本当に見たかどうかというのは、やっぱり定かではないのだけど。

 

 だが──あぁ。

 

 そうだった。あぁ、そうだったのだ。年というのは余り取り過ぎるとよくないものだ。だんだんと、頭の働きが鈍くなってくる。

 

 わたしはようやく思い出した。

 

 音色が聞こえている。いや、音色ではない。音色ではなく、声だ。歌声。

 

 古いプレーヤーがベッドのそばのナイトテーブルに置いてある。カセットプレーヤーだ。ボタンを押すと、蓋が開く。

 

 そのプレーヤーが、ずっと作動していたのだった。ゆうべ就寝の際に聴こうと思って付けて、だけど消さず眠り込んでしまって。

 

 おぼろげな夢が、今蘇ってくる……

 

 

 

 

 

 

 季節は夏だった。夏だったと思う。定かではないけれど。

 

 周りには、季節を判断するものがほとんどなかった。わたしは海辺の道路にいた。後ろにはネオ・ヴェネツィアを走る鉄道の線路と、踏切とがあった。その先には何があったのだろう。夢のわたしは、よく見なかったので、分からない。

 

 見上げると、抜けるような青空。もくもくとどこまでも膨らんでいこうとする綿雲が美しくまた壮大で目を奪う。入道雲なのだろうか。ということは、やっぱり季節は夏なのだと思う。

 

 海辺を吹き抜ける風はしかし涼しい。わたしはいくぶん当惑する。

 

「わたしにも、歌えるでしょうか」

 

 と、わたしは自信もなく、隣人に問いかける。悄然として、答えなど必要としていなかった。

 

「カンツォーネ?」

 

 淡いライラックの髪。短めの髪。わたしと彼女は並んで歩いていた。

 

「はい」

 

 ウミネコの鳴き声が響く。彼等の声は可憐だ。とても可憐で、まるで歌でも歌っているようだ。

 

「そうねぇ」

 

 彼女は考え込むように、目を上向きにして、腕を腰の後ろに組む。

 

 わたしはそんな彼女の様子を窺うようにして見ていた。そして内心、励ましを欲していた。後押しとか、鼓舞とか、動機付けとか、そういったものを、求めていた。自分で得ようとしないところが、どうも情けないと思った。しかし、そういうのがわたしなのだった。

 

「自信さえあれば、歌えると思うわ」

 

「自信」

 

 彼女は頷く。

 

「アリスちゃん、いつも声が小さいからね。その声だと、カンツォーネを歌うにはちょっと足りないかなぁって思うけど──

 

 

 

 

 

 

 夢の船が残していった消え消えの航跡を、覚束ない足取りで辿っていく。カーテンより来る朝日の線が、徐々にベッドの方に伸びてくる。

 

 わたしは、何か込み上げてくるものを感じる。胸にある温かいような、熱いようなものがじんじんと、その熱を喉の方に伝える。

 

 嗚咽が出てきそうになる、そんな感覚がする。

 

 心なしか、目頭までも熱くなっている。

 

 

 

 

 

 

 ──自信を持って、声を張れば、アリスちゃん、元々可愛い声をしているんだもの、きっと、わたしよりいいカンツォーネの歌い手になれるわ」

 

 隣人はもういなかった。その声は長い余韻を残すと消えた。

 

 わたしはひとりだった。やっぱりひとりだった。

 

 ひとひらの羽が宙を舞って落ちてくる。わたしは目の前に落ちたその羽を見下ろす。白い羽。きっと、ウミネコの羽だろう。ウミネコ達はもういなかった。入道雲はまだ空に堂々とそびえたっていた。どこまでも青い空。見ていると胸がきゅんと切なく痛むような、綺麗な夏の空。思い出が浮かび、流れ、そして消えていく。

 

 あの頃わたしはまだ十代だった。ところが今ではもう二十を超えて、いい年頃である。

 

 年というのは、余り取りたくないものだ。

 

 だが、そんな思いは虚しい。時間は止まることなく過ぎていき、有為転変は世の習いだ。新しい命が芽吹く一方では、古い命が枯れ落ちるのだ。

 

 隣人はもういなかった。

 

 わたしはふと気が付く。腕時計を忘れたつもりが、実は腕にあったということがあるが、そんな風に、わたしは失念していた。

 

 手に、カセットテープのプレーヤーを持っていた。そしてそのプレーヤーは動いており、ある歌声を再生していた。ザラザラとした雑音が入り混じっているものの、その歌声は耳なじみのものであり、雑音があったところで、クリアーに聞こえた。

 

 カンツォーネだ。彼女が好んで歌っていた、みんなに愛され、聴かれ、それぞれの心の琴線に触れた、あの歌だ。

 

 

 

 

 

 

 洟をすすり、目元をさっと拭う。陽光を反射するシーツの白が眩しい。

 

 わたしはもう若くなかった。女として、その事実を悟るのは厳しいことだった。

 

 プリマになって、かれこれ何年も経つ。そろそろ、引き際を考えないといけない頃合いだ。

 

 そう思ったところで、憂鬱ではなかった。憂鬱ではなく、むしろ欣快だった。

 

 半身を起こし、長い髪を手でさっと撫でると、ナイトテーブルの方に目をやった。

 

 カセットプレーヤーの蓋の透明なところより、カセットに貼ってあるシールに書かれた文字が、小さく見える。録音の内容だ。

 

 シールには、こう書いてあった。

 

『アテナ先輩』

 

 

 

(終)


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