ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.103「冬の目覚め」

***

 

 

 

 とても寒い日和だった。

 

 空は青く澄み渡り、朝のよく冷えた空気はピリッと張り詰め、ひっそりとした水路の水面は、所々、落ち葉が浮いて漂っているが、他は磨いたように凪いで、空模様を鏡のようにクリアーに反映していた。

 

 オレンジ・ぷらねっとの手袋無し(プリマ)、アテナ・グローリィは、自主練を目的に、ゴンドラを漕いでいた。ポンチョ付きの冬のセーラー服に身を包み、首には山羊毛(モヘア)で灰色のマフラー。あまりの寒さに、マフラーはマスクのように鼻先まで覆っている。

 

 住宅街の水路。朝。ほんとうに静かで、無言でオールを捌くアテナに聞こえるのは、せいぜい自分の息遣いとオールが水を掻く音くらいだった。

 

 冬が深まり、人々がこぞって待望し、祝福する聖人の誕生日まで残り一カ月を切ったところだった。

 

 木枯らしはとっくに吹き荒れ、各所の草木は、すっかり枯れて萎れるなり、色褪せた葉をたくさん散らせるなりしたが、この水路では、まだ秋の風情が気まぐれに残っており、ある住宅の裏庭に生えた楓などは、まだ燃えるように赤い木の葉を豊かに茂らせていたりする。

 

 ゴンドラは、アーチになっている短い石橋に行きかかる。

 

 アテナの吐く温かい息が、マフラーの繊維の隙間より漏れ、白く凍り付いて立ち上り、消える。

 

 雪はまだ降らない。だが、初雪までそう待たないだろう。白い雪は綺麗で待ち遠しいが、あまり多く降り積もれば雪害を招く。嬉しいようで、違うようで。雪を予感するこの時期は、期待と倦厭の入り混じった気分になる。

 

 ズズズ、と洟をすする。マフラーが防ぎ切れない寒気に刺激を感じて、洟が出てしまうのだ。

 

 束の間、暗い陰を潜ると、また明るいばかりで温度のない日差しのもとに戻る。

 

 見れば、あっちこっちの住宅の窓に、それぞれ同じだったり似ていたりするオブジェが目にされる。

 

 赤い装いと白い髭の微笑みを湛えた老人。そして橇を曳くおとなしい動物。

 

 皆、その日を心待ちにしているのだ。

 

 あるベランダのプランターに、ポインセチアが真っ赤に燃えている。老人の服とそっくりの色。角の生えた動物の丸い鼻もまた同じ色だ。

 

 備え付けの暖炉には、暖かい炎が薪の爆ぜる音をバックに踊り、わざと暗くされた部屋を、キャンドルの灯火と共に、やさしく照らす。

 

 ――ハックシュン!

 

 くしゃみが出た。

 

 甘い想像に(うつつ)を抜かしていたアテナは、ハッと我に返る。上の空だったので、心なしかゴンドラが行くべき航路を外れて斜めを向いている。

 

 窓辺に寝ている家猫が、片目を薄く開け、アテナをじっと見ている。

 

 その目付きが、何となく責め付けるか、嘲るかするようだったので、アテナは居心地が悪くなり、ゴンドラの向きをオールでさっと整出ると、そそくさとその場を去っていった。

 

 

 

 恥ずかしそうに去るゴンドラの残したV字形の航跡波が、徐々に小さくなって、やがて消える。

 

 水面がまた、静かになる。

 

 

 

 

 

 

 学校より、両手袋(ペア)のアリス・キャロルが、オレンジ・ぷらねっとの部屋へと帰ってきた。上は灰色のブレザー、真紅のリボンが結ばれた白いシャツ。下はベージュのチェック柄のスカート、ネイビーのロング・ソックス。学校の制服だ。

 

 時間はまだ夕方だが、日はとっぷりと暮れ、辛うじて残照があるといった程度だった。

 

 従業員が起臥する部屋が集中する棟は、日中明るい時は消灯されているが、今くらいの季節になって日暮れが早くなると、その分点灯の時機が早められる。

 

 入室して電灯を点けた途端、エアコンが効いているので妙に思ったアリスは、辺りを見回すと、ベッドに注意が行った。

 

 天蓋付きのベッドが、膨らんでいる。人の気配。

 

「てっきり今日はお仕事かと思ってましたが、アテナ先輩」

 

 部屋は相部屋だった。だが、家具調度は個人が尊重され、一人ずつに用意されており、ベッドがふたつあれば、机や椅子などもそれぞれ個人で使えるように分かれてあるのだった。

 

「うん」

 と、アテナがベッドの中より、こもった声で応じる。

「その予定だったんだけどね、ちょっと体調を悪くしちゃって」

 

 アリスは、背負っている手提げにもなるレザー・バッグを椅子の背もたれに掛けると、中身を整理しだす。

 

「でっかい鼻声ですね。熱は?」

 

「熱は、微熱。さっき測ってみた」

 

 数学の教科書。国語の教科書。ノートブック。ペンケース。

 

「朝駆けは結構ですが、秋はもう終わったんですから」

 

「けど、楓がまだ散ってなかったよ」

 

「暦の上では完全に冬なのに、お花の狂い咲きとおんなじ感じなんでしょうか」

 

「かもね」

 

 学校で課された宿題があって、アリスは、早速取り掛かろうとしているのだった。

 

「ハックシュン!」

 

「うわっ」

 

 突然のくしゃみに、アリスはビクッと驚く。

 

 アテナのベッドの方を見、彼女が訊く。

 

「病院へは行かれましたか?」

 

「うん、行ったよ」

 

 掛け布団から、眉をひそめて困った感じのアテナの顔が、上半分だけ覗いている。

 

 宿題に要る分の教科書、問題集、ノートを取り出すと、アリスは机に並べた。

 

 語学の文法。抜粋された小説の人物の意思の推理。図形、関数、計算。社会問題をテーマにした論文。宿題は色々だ。

 

 さて、とアリスは考える。

 

「今日の夕食ですけど」

 

「うん」

 

「食堂に行きます?」

 

「あんまり食欲ないし、動きたくないんだけど……」

 

「安静にするのはいいですけど、食事をしないのはよくないですよ。医食同源です」

 

 アリスの言葉に、アテナはあまりピンと来ないようで、返事に窮してモゴモゴと口籠った。

 

 アリスは、財布と空っぽの手提げバッグを携えて扉まで行くと、アテナを振り返り、「わたしが買ってきます」、と言った。

 

 アテナは最初遠慮しようかと考えたが、体のダルいことなど、諸々考慮して、頷いた。

 

「ありがとう」

 

 

 

 アリスが外出し、一人になったアテナは、物思うでもなく、朝ゴンドラで通った水路の情景を思い返した。静まり返った水路。散り残る秋の木。凪いだ水面。冷たすぎるほど冷たい身を切る空風。

 

 目を瞑れば、そのビジョンがまざまざと見え、厳しい寒さをまた肌身にヒリヒリと感じるようで、アテナは一層暖かい布団をギュッと抱いて、しばしの安眠へと憩いに沈むのだった。

 

 

 

(終)


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