ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.101「目覚めの一杯~アイ・オープナー」

***

 

 

 

 『ホ』と発音するように口を開けて、呼気のかたまりを吐き出す。

 

 すると、凍て付く早朝の冷気に、わたしの息はあっという間に白くなって、宙に消えるのだった。

 

 やれやれ、寒くなったものだ。

 

 寒天の下、ゴンドラを漕いで、冬季の到来を実感する。

 

 首にはマフラーを巻いて、両手には手袋。しかし、水先案内人の手袋とは違うもので、詰まるところ、防寒具だ。水先案内人の手袋はハーフ・フィンガーなので、防寒具としては不足している。

 

 これだけ寒くもなれば、指先まで覆える手袋がないと、手がかじかんでしまって、思うように櫂を漕ぐことが出来ない。

 

 合同練習に向かうというのに、寒さ対策が万全でなければ、足並みを乱してしまう。

 

 ARIAカンパニーを出たわたしは、待ち合わせの場所――リアルト橋のたもと――まで、ゴンドラを漕ぎ進めるのだった。

 

 

 

*

 

 

 

「遅~い、何してたのよ?」

 

 リアルト橋に到着して、先に着いている他の二人が寄り集まっているところに顔を出すと、藍華ちゃんが、眉間に皺を寄せて、責めるように言うのだった。

 

 実を言うと、わたしは、待ち合わせの時間に間に合うと余裕しゃくしゃくでいたんだけど、初冬の朝の爽やかさや、しつこく残る眠気に、いつしか漫然とした手捌きになり、うっかり道順を間違えて、遠回りになってしまい、ちょっと遅刻してしまったのだった。

 

「ごめん。寝坊したわけじゃないんだけど」

 

「おはようございます、灯里先輩」

 

 時間通りに着いたらしいオレンジ・ぷらねっとのルーキーは、特に不満そうにすることもなく、挨拶してくれる。

 

「おはよう、アリスちゃん」

 

「ハイハイ、おはよう」

 

 藍華ちゃんが、呆れたように最後に挨拶してくれる。

 

 わたし達三人の中で、誰がリーダーだとか、そういう堅苦しいことは特に決まってはいないんだけど、やっぱり仲良しごっこで済ますわけにはいかないので、何となく、最年長の藍華ちゃんがいつも先頭に立って、合同練習のあれやこれやを、ただのお遊びにならないように、取り仕切ってくれている。

 

 リアルト橋には、わたし達の他に、水先案内人の子や、水上タクシーの乗り手が、或いは待ち合わせのためか、或いは休憩のためか、あちこちに散らばって見える。

 

「あの」、とアリスちゃんが言いかける。「皆さん、眠たくはありませんか?」

 

「わたしは平気だけど」

 

 藍華ちゃんがまず答える。その取り澄ました感じは、彼女の頭がシャキッと冴えていることを分かりやしく示していた。

 

 一方でぼんやりしたわたしは、しばらく考えて「ちょっと、眠たいかなぁ」、と答えるが、刹那、目の前に何かサッと飛んでくるようでびっくりして思わず目を閉じると、ピリッとした痛みが両頬に走ったのだった。

 

「イダッ!」

 

「どう、スッキリするでしょう?」

 

「藍華先輩!」

 

 どうにもビンタされたようだ。頬っぺたがヒリヒリする。

 

「ハァ~」

 

 わたしは何だか力が抜けるようで、ため息が出た。その息も白く凍った。

 

 頬を張られ、眠気は取り除かれたように思えたが、一瞬だけのことで、すぐに戻って来、わたしはまた、ぼんやりとするのだった。

 

 アリスちゃんが、プッと噴き出す。藍華ちゃんもその後に続く。

 

 そして哄笑が沸き起こる。

 

 わたしの両頬が、まるで赤ちゃんのように真っ赤に染まっているのだった。

 

 周りの人の中にもわたしをクスクス笑う人がおり、わたしはその時、藍華ちゃんのことを、少しだけ恨めしく思うのだった。

 

 

 

*

 

 

 

「ごめん、ごめん。悪かった」

 

 藍華ちゃんが陳謝する。だが、顔が半分にやけている。罪悪感がある一方で、実際楽しかったようだ。

 

 わたしは、さっきのことでムスッと膨れていた。

 

「今日はご馳走するからさ、許してよ」

 

 ――わたし達は、レストランに入っていた。アリスちゃんが何か目覚めの一杯でも飲みに行かないかと誘ったのだった。

 

 ゴンドラはそれぞれリアルト橋の近くにある船着場に停めてきた。

 

「ハイ、灯里先輩」

 

 アリスちゃんがメニューを渡してくれる。

 

 決して根深いものではないが、確かに体温を上げる怒気のために、わたしは、目覚めの一杯がいらないくらいには、覚醒していた。

 

 ただ藍華ちゃんに一矢報いてやろうという気概で、一品、二品、多くオーダーした。

 

「藍華ちゃん、ご馳走様!」

 

 満面の笑みで、藍華ちゃんに言う。(いささか嫌味っぽく)

 

 その笑顔が挑戦的に見えたのか、藍華ちゃんは、同じく笑って返すが、じゃっかん引き攣っているのだった。

 

 レストランは、すばらしいところだった。豪華絢爛たる照明(シャンデリア)が、個々のテーブルの上に吊り下げられ、壁に取り付けられた燭台には燈火が明々と揺れており、そして大運河(カナル・グランデ)に向いている窓には、運河を挟んだ対岸の建物の連なりが、青空と共に広く見渡せるのだった。

 

 苦味の強いエスプレッソを飲み切る頃には、わたしの目はずいぶん冴えていた。二人より多く注文し、食べたわたしは、ひょっとするとまた眠たくなる(おそれ)があったが、気分は高まって、青空をじっと見つめて、合同練習に積極的になっていた。

 

 朝日は高く昇り、気温が上がり、最早、息を吐いても白く凍り付きはしなさそうだ。防寒のためにと着けてきた手袋も、マフラーも、あるいはいらなくなるかも知れない。

 

 絶好の練習日和。

 

 さぁ、やる気を出して、今日も一日、がんばろう。

 

 

 

(終)

 


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