ARIA The Extension   作:Yuki_Mar12

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Page.100「或るオフショット~駆け足の秋の日」

***

 

 

 

 やさしい日が射していた。

 

 夕暮れ時だった。

 

 日没が早くなったなぁ、と、アリシアは、机に肘を突き、両手で頬を支えて、外を眺めているのだった。

 

 帳簿と睨めっこしているには勿体ないと思うくらいには、よい天気だった。

 

 晩秋の割にぽかぽか陽気で、透明度の高い空は夕日の煌めきに満ち、会社がその上に浮かぶ海原はどこまでも凪いでいるのだった。

 

 真夏には汗と湿気でベタつきがちだった彼女自慢のブロンドのロングヘアが、秋が深まった今では、フワフワのサラサラに変わり、ヘアゴムで束ねたりしなくても、扱いよくなった。夏と比べて崩れにくいから、アレンジもしやすい。そういう変化だけで、けっこう気分というのはよくなってしまうものだ。

 

 落ち着いたまとまりのあるしっとりしたアリシアの紙は、頭頂の分け目を起点に耳元、ほっぺた、うなじ、肩の上を、背中まで、少しの乱れさえなく、緩い美しい線を描いて下りているのだった。

 

 普段は後ろで三つ編みにしている髪だが、今は対人仕事ではないので、すっかり下ろしている。ナチュラルが楽でよかった。風がひどい時などは、結わえた髪が煽られて、鞭ほどではないが背中を打つので、いささか鬱陶しく感じるのだった。

 

 アリシアは少し顔を傾けて、より高い空を覗いた。すると、消え消えの鱗雲の跡が微かに見え、思わずにこやかになるのだった。

 

 ――しかし、時の流れというのは()に早いものだ。

 

 アリシアはふと痛感する。物思うでもなく、心中でそうしんみりと呟く。

 

 彼女の後輩である灯里はというと、朝方出かけて、まだ外出中。アリシアは一応、合同練習だと聞いている。姫屋とオレンジ・ぷらねっとの友達と三人で寄り集まってやっているというゴンドラ漕ぎなどの自主練だ。

 

 アリシアも、同じことを昔よくやったものだと過ぎ去りし日のことがまざまざと思い返される。――この旻天(あきぞら)のしっとりした煌めきに冴えるブルーを見ていると、不思議とノスタルジックにさせられるのだった。

 

 さて、雨が降っていたり風の強かったりする日は早々と帰ってくる灯里だが、今日の帰りはきっと遅いことだろう。そうアリシアは予測した。春日遅遅というが、季節は秋、ましてや晩秋だ。日脚が早く、晴天を愛でるには日照時間が短すぎ、あっという間に夕と夜が来る。遅いといえど、懸念されるほどの時間には帰宅すまい。

 

 ――今の内に、夕食の買い物がてら散歩に出ようか、事務仕事も一段落付いたことだし……

 

 アリシアはパタンと帳簿を閉じると、そばのグラスに少しばかり残っているミネラルウォーターを飲み干した。

 

 

 

*

 

 

 

 外に出ると、空には半分欠けた夕月がかすんでいて、空が夜に向かって翳っていくにつれ、その様相を明瞭にさせていくのだった。

 

 海辺の街路を行くアリシアは、段々とくっきりしてくる半月の下で、風のない、ぽかぽかした湿り気のないさっぱりした空気に、快さを感じた。

 

 足取りが軽く、気分は何だかウキウキして、うっかりすると、思わず目的とは関係のないところへ足を伸ばしそうになってしまうのだった。

 

 まぁ、散歩なので、どこへ行こうといいのだけど、最終的には買い物に行くという目標があるし、あんまり遅くなると、八百屋さんや肉屋さんが閉まったり、灯里がお腹の虫を鳴かせて待ちぼうけを食うことになったりと、好ましからざる状況になりかねないしということで、あんまり浮かれてそぞろ歩きしないように、アリシアは注意しないといけないのだった。

 

 キラキラと夕焼けの色に染まる凪ぎの海の眺めを満喫すると、アリシアは海辺の大通りを折れ、細い薄暗い路地に入った。

 

 その路地は、海へ通じる水路と並行する通路で、ふと見ると、軒を争う住宅の木庭に植えられた、葉をたくさん茂らせた闊葉樹の木が、すでに色付き、落葉し、その木の葉が、水路の水面にユラユラと風雅にたゆたっているのだった。

 

「すっかり秋ねぇ」

 

 アリシアはそう一人呟くと、家々の屋根越しに空を見上げ、季節の変転を実感し、そして、やがて来る冬の厳しい寒さを、半ば楽しみに、半ば心細く、予感するのだった。

 

 アリシアは自慢の髪を手で撫でつけ、そのサラリとした手触りに、安らぎを覚えるようだった。

 

 ふと、水路を往く一艘の小舟があった。

 

 ゴンドラだった。水先案内人(ウンディーネ)だけが乗ることを許された舟だ。

 

 誰が乗っているのだろうか。まさか灯里だろうか。あるいは晃。あるいはアテナ――。

 

 徐々に近付いて来、制服がよく見えるようになると、アリシアは、ニコリと微笑んで頷くのだった。

 

 赤いラインの入った制服で、姫屋の水先案内人だった。彼女はアリシアをよく知っていて、藍華ほどのファンではないにしろ、そこそこ慕わしく思っているらしく、アリシアの姿を認めると、何か可愛い小動物でも発見したように目を輝かせ、ペコリと会釈したのだった。

 

 ――姫屋の子。この先を曲がって、姫屋に帰るのね。ということは……。

 

 灯里がじきARIAカンパニーへ帰ってくる。

 

 アリシアは、早足で駆ける時のせわしさ、儚さを改めて感じるようだった。

 

 ――そういえば。

 

 と、アリシアはハッと思い出す。

 

 ――さっき飲み干したミネラルウォーター、ボトルごとぜんぶ飲み切っちゃったのよね。また買わなくっちゃ。

 

 

  

 夕暮れのARIAカンパニー。

 

 灯里はまだ帰ってきていない。

 

 机の上に、アリシアが水を飲んだグラスが残っている。

 

 その中の、飲み残しの水滴に、沈む夕日が、海側の窓の、カーテンの少し開いた隙間を通って届く。

 

 つぶらでまるい水滴が、オレンジ色に輝く。

 

 その輝きは、純度が高く、まるで琥珀のように、見えるのだった。

 

 

 

(終)


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