ネットの向こう側にいる相手は、子安博文という選手である。サイドをしっかりと刈り上げて、トップの部分は少し長めというヘアースタイルだ。
「ヒロくん頑張ってー」という黄色い声援に、子安は手を振って答えていた。
公式試合は1年と3ヶ月振りか。
春人は1度深呼吸をしてから、コートを見渡した。
周りに観客はいるが、いつだってコート上にいるのは自分と相手のみ。助けてくれる人なんて、どこにもいない。
試合前の肌がピリッとする感覚は嫌いじゃない。ついに戻ってきたなという感慨がある。
春人は靴ヒモを結び直して、自陣のコートへと入った。
『1セットマッチ。金山サービスプレイ』
ボールを宙へと放り、高い打点から強打する。そこそこの速度だが、いやらしいコースをついていく。サービスコートの角へと突き刺さり、相手のラケットに触れさせることなく通り抜けていった。
いきなりのサービスエースに、面食らった子安が立ち尽くしていた。
テニスの試合は基本的にサーブ側が有利である。好きなタイミングで好きなコースに打てるのだから、当然だろう。
今度は強烈なトップスピンを掛けたサーブを放つ。子安のスイングは決して悪くない。しかし、生き物みたいに元気よく跳ねるボールに、打点がずれていた。ボールはコートの外へと流れていった。
落ち着きなくガットを整える子安を、春人はじっくりと眺めた。
子安の動きはどことなく重さを感じさせる。初戦ということで少し固くなっているのかもしれない。
今は攻めどきなのは間違いない。
相手が落ち着くのを待つほどお人好しじゃない。ここぞとばかりにテンポよくサーブを打ち込み、危なげなく1ゲームを先取する。
次は子安のサービスである。
諭吉からの情報によると、子安はベースラインからガンガンと積極的に打ち込んでくるタイプとのこと。
実際、目の当たりにしてみるとコントロールは甘いことが多い。だが、気合を乗せた彼の球は、リターン時にズシリと重かった。
球威に押されて微妙なコントロールが狂う感覚。ライン近くを狙った春人の返球が、連続でアウトになった。
スコアは30-0。
「さてと、どーするかね……」
フォアハンドで力強く打つのが、子安にとって自信のある球なのだろう。特にフォアのストレートが1番強い球だ。得意な球で気持ちよく返している内に、動き全体から硬さが取れてきている。
だが、気になるのはバックハンドのストレートが一度もないということ。春人は何回かアドサイドからクロスへ打ったが、返ってくるのは両手バックでのクロスか、あえて回り込んで放たれるフォアのストレートだった。
意図的なのか、偶然なのか。
見極める必要があると感じる。
バックのストレートを避けているのが事実であるならば?
子安のサーブから始まり、しばらくラリーが続く。やがて春人はアドサイドへ来た球を、クロスへ打ち込む。相手のバックサイドに深く届くコースだ。子安はどうにか追い付いて、両手バックハンドで構えた。
春人はあえてアドサイドで待ち受ける。それは子安に対して、空いているデュースサイドへストレートを打ってみろという挑発に他ならない。
子安がラケットを振るう。
両手バックハンドのストレート。春人は動かない。見極めるためなら、このポイントは失っても惜しくない。
子安が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「アウトっ! 30-15」
彼のボールは荒々しさこそあるものの、ベースラインを完全に割っていた。なるほど。おそらくはフォアのストレートへの自信がゆえに、バックのストレートを打つ機会は少なかったとみえる。そこへ春人の挑発的な待ちが加わり、子安の力みが増してしまったというところか。
よし、これは相手のペースを乱す武器として使える。
今度はあえて得意なフォアで打たせるように返球する。1度……2度……3度……。気を良くした子安がリズムに乗ってくるが、そこで春人は急に相手のバックサイドへリターンした。
フォア寄りの意識を持たされた子安は、反応が半瞬遅れる。打球へ追い付くも、回り込む余裕はない。選択肢はバックハンドしかない。
春人は前へと出る。子安が返してくるだろう球を予測。先ほどしくじったバックハンドのストレートは、選択しにくいだろう。
返球に対する意識はクロス7割、ストレート3割だ。
子安が打つ。春人の反応は速い。やはりクロスかっ!
打球の勢いを綺麗に反射させるように、春人はボレーで叩き込む。
「30-30」
「うおお、すっげえ鮮やかっ」「あの人、球の扱いが上手くない?」「お前、金山春人を知らねえのかよ」「コートの奇術師は健在か……」
今度はコートの外に逃げるスライスを打ち込み、子安のリターンが浮いたところを逃さない。
「30-40」
最後は、子安のフォアのストレートをクロスへ強打してポイントをもらう。
「ゲーム金山 2ー0」
得意ではないバックハンドを狙われたり、自信のあるフォアのストレートを狙い打ちされ、子安の心は揺らいでいるようだった。
春人のサーブに触れるが、子安はうまく返せない。あっという間に3ー0となり、審判がチェンジコートを告げる。
90秒の休憩。春人はベンチに腰を掛けて、右膝へと触れた。
中学時代にみられた膝の違和感もない。このままなら勝てるだろう。
……いや、勝たなきゃいけない。
遥か先を突っ走っている爽児に追い付くためには、こんなところで転けていちゃダメなのだ。1年のブランクを埋めるために、寄り道をしている暇はない。
身体の調子は好調で、相手の動きがよく見えている。集中できている証拠だ。
だから、大丈夫……、絶対に大丈夫だ。
直後、大気を震わせる歓声が響き渡った。6番コートの方から聞こえてくる。おそらくは栄一郎と大林の戦いに、決着がついたのだろう。
「タイム」
審判の声が聞こえる。栄一郎の結果を気にしている時間はない。
スポーツドリンクで口を潤し、春人はコートへと出ていく。
☆ ☆ ☆
異変が起きたのは6ゲームに入ってからだった。サービスは子安にあり、状況は0-30になっていた。
あと2ポイント取れば勝てる。
その瞬間、フラッシュバックしたのは中学2年の再起した大会のことだ。本当に怪我はなおったのかと疑念があった。また怪我を繰り返したりしないかと不安があった。考えるほどに右膝の違和感は膨れていく気がした。
俺は勝ち続けなきゃいけないんだ。
呪文のように心の中で繰り返したことを覚えている。
だが、その結果は半ば自滅で荒谷に負けるという、最悪のものだった。
当時のマイク曰く、「春人は勝つことだけにとらわれすぎている」とのこと。
だけど、わからなかった。
勝負の世界で勝つこと以上に大切なことはないはず。勝たねばプロを目指せない。爽児に追い付けない。
勝ちにこだわるのは、当然のことだろう。
その考えは今だって変わってない。
春人の脳裏にふと過るものがある。
今度こそ、本当に自分は勝てるのか?
春人の胸の中で、心臓の鼓動が大きくなっていく。血潮が体内を駆け巡る音がうるさい気がした。
違う。そんな弱気でどうする。
ここでまた足踏みをする時間はない。
怪我は治っているし、怪我を怖れていたら何にも出来ないだろう。精神的な障害がなんだ。そんなもの怖くはない。あの時、うまくテニスがコントロールできなかったのは、心が弱かったせいだ。
今度こそ、心を強くして弱音を吹き飛ばせ。
遥か先を走る爽児に追い付くのが目標ならば。
なにがなんでも、勝つことにこだわらなきゃいけない。
ぱあん、という音に春人はハッとした。それは子安のラケットがボールを叩いた証。反応が遅れた春人は、打球を追い求めて走る。かろうじてボールに食らいつく。
だが、その球種がスライスサーブだったと、スイングしてから気づいた。外へ逃げていく球に対応できない。スコアは15-30となる。
明らかな凡ミスに春人は頭を横に振る。試合中に何を考えている。集中しろ。
スピンサーブがワイド寄りに飛んでくる。落ち着いてボールを返せと言い聞かせ、軌道を見極め、丁寧にスイングする。リターンした球はネットを超えるが――。
ベースラインからの一撃を得意とする子安が、この土壇場でどうにか抵抗しようとサーブと共にダッシュをしていた。パシッと頼りない音がして、すぐさまボールがコートへ戻ってくる。
子安のボレーはコントロールもスピードもない、平凡以下のものだった。しかし、虚を突かれたゆえに、間に合わない。
「30-30」
今のが集中しているといえるか? 手元ばかりに気が向いて、全体のことが見えていない。少なくとも子安の動きを確認していれば、相手の動き出しに対応が出来ていただろう。
その考えは正しかった。
どうにか一矢報いようとうする子安が、次も無茶なボレーをしてくる。だが、同じ手は食わないと春人は相手のボレーを返す。これで30-40。
最後は打つ手のなくなった子安のダブルフォルトで、この試合は幕を閉じたのだった。
読んでくれた皆様、今日もありがとうございます。
春人の試合終了までが区切り良いかなということで、いつもと比べると短めの内容になりました。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
今日はこのあたりで失礼します。
またお会いできると嬉しいです!
ではではー(^^)/